3B政策とは?どこの国で何の目的で行われた?【経緯からその後の影響まで詳しく紹介】

3B政策の経緯

ビスマルク体制

ビスマルク体制とは、ドイツ統一の中心人物であり、鉄血宰相と呼ばれたドイツ帝国の宰相ビスマルクが築き上げたヨーロッパの外交関係です。

鉄血宰相と呼ばれた宰相ビスマルク

ビスマルク体制の目的は、ヨーロッパ諸国と次々に同盟を組むことで、フランスを外交的に孤立させることにありました。ビスマルクは、新興国であるドイツに敗北したフランスからの復讐に対し、強い警戒心を抱いていたのです。

ビスマルクは外交の手腕を光らせ、各国間における利害関係の調整を徹底しました。つまり、ビスマルク体制はドイツ帝国を守ることを最優先とした国家戦略だったのです。

ヴィルヘルム2世の即位

1888年にドイツ帝国第3代皇帝ヴィルヘルム2世が即位しました。当時29歳であったヴィルヘルム2世は覇気満々で親政に臨みます。

しかし、ヴィルヘルム2世の考える国家戦略はビスマルク体制とは真逆のものでした。外交だけでなく内政においても、ヴィルヘルム2世と宰相ビスマルクは度々対立することになります。

1890年、ヴィルヘルム2世はビスマルクを引退に追い込みました。邪魔な存在であったビスマルクを退けることに成功したヴィルヘルム2世は、帝国主義政策を展開します。

ドイツ帝国による世界政策

ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世は、帝国主義政策である「世界政策」を推し進めていきます。世界政策とは、ビスマルク体制とは真逆の非常に攻撃的な外交政策です。

欧米列強より海外進出が少し出遅れたドイツ帝国は、アジア・アフリカへ勢力を拡大することを目指します。その一環で行われたのが「3B政策」です。

ドイツ帝国はオスマン帝国から手に入れた鉄道敷設権を利用し、ベルリン・ビザンティウム・バグダードをバグダード鉄道で結ぶことによって、バルカン半島から西アジアへの進出を図りました。

3B政策の影響

3C政策との対立

3C政策の対象となった地域の地図

ドイツ帝国が3B政策を展開し、バルカン半島を通って西アジアへ進出しようとしていた頃、イギリスは3C政策を推進していました。

3C政策とは、南アフリカのケープタウン・エジプトのカイロ・インドのカルカッタの3つの都市を鉄道で結ぶイギリスの世界政策です。この3つの都市を結ぶことで生み出される三角形地帯において、イギリスの3C政策はドイツの3B政策と衝突してしまいます。

イギリスとドイツの間では妥協が成立せず、アジア・アフリカへの進出を目指す両国の対立は次第に深まっていくことになりました。

パン=スラブ主義との対立

パン=スラブ主義とは、バルカン半島のスラブ系民族の独立・統一を目指す思想です。この時代のバルカン半島はオスマン帝国の支配下にありました。

西欧列強のアジア進出における重要地点となったバルカン半島

ロシア帝国は、バルカン半島に居住していたスラブ系民族の独立運動をサポートします。その真意は、中東方面への進出を目指す南下政策にありました。

しかし、ロシア帝国の南下ルートであるバルカン半島では、ドイツ帝国が3B政策を推し進めていたのです。結果的にドイツは、イギリスだけでなくロシアも敵に回してしまうことになりました。

第一次世界大戦の勃発

ヴィルヘルム2世の世界政策は、結果的に第一次世界大戦に繋がる列強諸国間の対立構造を生み出すことになりました。その大きな原因は3B政策にあったのです。

戦地に赴くドイツ軍兵士

1914年に始まった第一次世界大戦は、ドイツと敵対したイギリス・フランス・ロシアの三国協商と、ビスマルク体制以来の同盟関係であるドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟の2陣営による総力戦となりました。

最終的にはドイツ帝国内で革命が起こり、ヴィルヘルム2世が亡命。ドイツ帝国は第一次世界大戦における敗戦国となり、帝政が終わりました。

イギリスやロシアの反発を受けて遅れていたバグダード鉄道の建設は、ドイツ帝国の敗北によって挫折することになります。3B政策はドイツ帝国の終焉と共に終わりを迎えたのです。

ドイツ帝国の国章

3B政策に関するまとめ

今回は3B政策について解説しました。

3B政策は、ヴィルヘルム2世による海外進出政策として始まった世界政策でしたが、結果的に第一次世界大戦に繋がる対立構造を生み出してしまい、ドイツ帝国消滅のきっかけとなってしまいました。

この記事では3B政策の歴史について紹介しましたが、同じ時代の日本で起こっていた出来事について詳しく調べてみるのも面白いかもしれません。

それでは長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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