印パ戦争の影響
マハトマ・ガンディー暗殺
第一次印パ戦争の際、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の融和を目指していたマハトマ・ガンディーが、ヒンドゥー原理主義者に暗殺されてしまう事件が起こりました。
マハトマ・ガンディーとは、イギリス領インド帝国の時代に非暴力・不服従を提唱し、インドの独立運動を指揮した政治指導者です。ガンディーは統一インドの独立を望んでいましたが、国内で宗教間の対立が深刻化していたインド帝国はインドとパキスタンに分離独立してしまいます。
ガンディーは両者の融和を求めて独立後も活動を続けましたが、パキスタンへ譲歩するような態度が同じヒンドゥー教徒の反感を買ってしまい、最終的に暗殺されてしまいました。
両国が核兵器を保有
第三次印パ戦争の後、インドとパキスタンは両国ともに核兵器を保有することになります。
1960年代に中華人民共和国が核兵器保有国となったことで、更なる脅威に晒されることになったインドは、これに対抗せざるを得ませんでした。1974年に核実験を行い、インドは世界で6番目の核保有国となります。
インドが核保有国となったことで、パキスタンと4度目の全面戦争となることはありませんでしたが、一方的に不利となってしまったパキスタンも当然核保有を目指しました。その結果、1998年に核実験を行い、パキスタンは世界で7番目の核保有国となったのです。
ムンバイ同時多発テロ
2008年、インドの大都市ムンバイでイスラム過激派とみられる勢力による同時多発テロが発生し、ムンバイの様々な施設が襲撃されてしまいした。この事件でおよそ400人にも及ぶ死傷者が出てしまいます。
最終的にインド政府が治安部隊を動員して鎮圧しました。逮捕されたテロリストの1人はパキスタンとの関与を供述しましたが、パキスタン政府はこれを否定しています。
しかし、インド政府はパキスタンから生まれたテロリストを自国内で抑え込めなかったとして公式に抗議しており、印パ関係は再び悪化し始めているのです。
印パ戦争の歴史年表
1947年 – 「インド・パキスタンの分離独立」
1947年、イギリス領インド帝国が解体され、インドとパキスタンが分離独立しました。
イギリスの植民地だったインド帝国は、長きにわたる抵抗運動の末に独立に成功します。しかし、イギリス統治下においてヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立は深刻化。ヒンドゥー教徒が多数を占めるインドと、イスラム教徒が多数を占めるパキスタンの2国に分かれてしまいました。
宗教的に対立している両国が横並びになった結果、国境では紛争や混乱、難民が発生し、その対立は現在に至るまで続くことになります。
1948年 – 「第一次印パ戦争」
1948年、インドとパキスタンの間で第一次印パ戦争が勃発します。この戦争は、インド北西部のカシミール地方の領有を巡った争いから武力衝突に発展しました。
カシミール藩王国は住民の8割がイスラム教徒でしたが、藩王はヒンドゥー教徒でした。その結果、帰属問題を巡って対立が発生。パキスタンへの帰属を求める民衆による暴動が起こります。そこへイスラム教徒の民兵がパキスタンから進入し、これに対抗するために藩王はインドへ軍事介入を要請しました。
最終的には国際連合の仲裁によって停戦し、カシミール地方の6割をインドが支配。残りをパキスタンが支配することになります。
1959年 – 「中印戦争」
1959年、中華人民共和国とインドの間で武力衝突が起こりました。隣接する2国は国境の解釈を巡って以前から対立していたのです。
この紛争は中国人民解放軍の圧勝に終わり、インド・中華人民共和国の国境係争地域であり、パキスタンとも隣接するアクサイチンは、中華人民共和国の支配下となります。
また、当時の中華人民共和国はソビエト連邦と対立しており、その影響でソビエト連邦はインドを支援していました。そして、印パ戦争では中華人民共和国がパキスタンを支援していました。中ソの対立と印パの対立、中印の対立関係が印パ戦争の背景にあったのです。
1965年 – 「第二次印パ戦争」
1965年、第一次印パ戦争の際と同じカシミール地方の全域の領有を巡り、インドとパキスタンによる第二次印パ戦争が起こりました。
1959年から1962年にかけて、大規模に行われた中印戦争の影響を受けたパキスタンは、1965年にインドの支配領域へ武装集団を送り込みました。これにインドが反応し、武力衝突に至ります。
最終的には再び国際連合が仲裁に入り、年内に停戦。1967年に和平協議が合意されましたが、双方共にカシミール地方の領有権の主張は取り下げておらず、国境問題は未解決のまま現在に至ります。
1971年 – 「第三次印パ戦争」
1971年、東パキスタンの独立運動に介入したインドとパキスタンが衝突し、第三次印パ戦争が勃発しました。東西に領土が分かれているパキスタンでは、西パキスタンが政治実権を掌握しており、東パキスタンは植民地のような扱いを受けていたのです。
東パキスタンで開始された独立運動をパキスタン軍が制圧すると、東パキスタンから多くの難民がインドへやってきました。しかし、当時のインドには大量の難民を抱えきれる力がなかったため、東パキスタンの独立運動を支援したのです。
最終的にインドが勝利し、東パキスタンはムガル帝国時代から繁栄してきたダッカを首都とする、バングラデシュとして独立します。
1998年 – 「両国が核兵器保有へ」
1998年までに、インドとパキスタンの両国が核兵器を保有することになります。その背景にはインドとパキスタンの対立だけでなく、1950年代から続く中華人民共和国の脅威に対抗する意図もあったのです。
1974年、インドが初の核実験を行いました。インドが世界で6番目の核保有国になったことで、パキスタンと4度目の全面戦争になることは回避されましたが、パキスタンを核開発へと走らせてしまうことになります。そして、パキスタンは1998年に核実験を行い、世界で7番目の核保有国となりました。
一時は両国間で緊張が高まり、全面核戦争の危機もありましたが、1999年にパキスタン国内で軍事クーデターが起こり新政権が樹立。その後、インドとの協調路線をとったため、インドとパキスタンの関係は安定し始めます。
2008年 – 「ムンバイ同時多発テロ」
2008年、インド最大の都市であるムンバイで、イスラム過激派とみられる勢力による同時多発テロが発生しました。この事件がインドとパキスタンの関係に再び緊張を走らせます。
テロ発生時、ムンバイは立てこもりや爆発、銃撃戦など様々な形の攻撃を受けました。インド政府は軍の治安部隊を動員し鎮圧しましたが、最終的にはおよそ400人に及ぶ死傷者を出してしまいます。その中には日本人も含まれていました。
逮捕されたテロリストの1人は、パキスタンを本拠地とするイスラム主義組織のラシュカレトイバに所属していると供述していますが、パキスタンはテロリストへの支援を否定しています。この事件以降、印パ関係はさらに悪化し現在に至ります。
印パ戦争に関するまとめ
今回は印パ戦争の歴史について解説しました。
印パ戦争とは、インドとパキスタンの間で行われた国境紛争・独立戦争であり、戦後に始まってから現在に至るまで続く、現代史のアジアを語る際には欠かせないテーマの1つとなっています。
この記事では印パ戦争の原因からその後の影響まで紹介しましたが、同じ時代に日本では何が起こっていたのかについて調べてみるのも面白いでしょう。
それでは長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。
あいうえお