ロンドン海軍軍縮条約締結の影響
海軍内の対立
海軍は会議前より、補助艦保有率を対アメリカ7割と主張していました。しかし、アメリカは認めようとしません。それでもなんとか話をまとめたい両国は最終的な妥協案として、日本の補助艦の総括トン数を対アメリカ69.75%という数字で手を打とうとしました。
東京で状況を注視していた海軍では、この案を聞いて、主義主張の違いから二つの派閥に分かれてしまいます。艦隊派と条約派です。
艦隊派とは対アメリカ7割案を堅持するグループで、軍令部長加藤寛治など軍令部(作戦立案の中心的組織)が中心となっていました。艦隊派には海軍の権力を握っていた伏見宮博恭王をはじめ、日本海海戦の勝利で軍神とも崇められた東郷平八郎を引き入れることで、大きな勢力となりました。
海軍内に大きな統制力を持っていた、軍縮を目指す加藤友三郎が1923年に他界してしまったことで、ワシントン海軍軍縮条約時には抑えられていた強硬派が、ロンドン海軍軍縮条約では存在感を示すことになり、「艦隊派」と呼ばれるようになったのです。
もう一方の条約派は、国際協調を優先して条約を締結すべきというグループで、海軍次官山本勝之進ら海軍省(海軍の軍政担当)のメンバーが中心にいました。
ロンドン海軍軍縮条約では、会議で示された妥協案は海軍としては同意できないものの、決定権は政府にあるので、海軍省はその一員である以上、政府が決めた内容には従い、その範囲内で最善を尽くすという結論に至りました。
ちなみに、艦隊派と条約派とに単純に分けられない人もいました。山本五十六がそのいい例です。ロンドン海軍軍縮会議に次席随員として参加していた山本は、対米7割を強く主張しました。そういう意味では艦隊派とも言えますが、条約派と呼ばれることもある米内光政・井上成美とともに、日独伊軍事同盟に反対した ” 海軍三羽烏 ” と渾名されていることから、条約派とも言われます。
統帥権干犯問題
ロンドン海軍軍縮条約は、ワシントン海軍軍縮条約と同様、またもや海軍軍令部の主張する対アメリカ7割という意見が通らない結果となりました。これに反発した海軍軍令部長加藤寛治らは、同調する右翼を使い、マスコミをも利用して一般市民に対し強硬論を広めます。
さらにこの件は議会でも取り上げられます。立憲政友会は、海軍軍令部の反対を押し切って兵力量を決めたのは統帥権の干犯であるとして、立憲民政党の浜口雄幸内閣を激しく非難したのです。統帥権とは軍隊の最高指揮権のことです。大日本帝国憲法では天皇に所属する権利であり、輔弼機関として軍令部が認められている以上、そこに海軍省が口を出すのはおかしいという論理です。
本来、兵力量を決めるのは天皇大権の一つである陸海軍の編成権になるため、統帥権とは別ものでした。しかし海軍軍令部は、兵力量の決定についても軍令部の同意が必要と考えていたため、憲法の解釈方法について問題が起きたのです。
この時、浜口雄幸は憲法学者の美濃部達吉にも意見を求めています。美濃部は憲法上、軍縮に関しては政治問題であるから、軍政を司る海軍省、ひいては内閣の決めることだと答えました。最終的には浜口はこの理論で押し通し、天皇による条約の批准を実現しますが、これが浜口への恨みとして襲撃事件へとつながっていくのです。
浜口雄幸首相襲撃事件
1930年11月14日、浜口雄幸は地方遊説に向かおうと東京駅にいたところを右翼青年の佐郷屋留雄に狙撃され、骨盤が砕かれるほどの重傷を負います。佐郷屋は浜口が社会を不安に陥れたことと、天皇の統帥権を犯したことに対する怒りから狙ったと証言しています。
浜口は一命は取りとめたものの、政務を続けることは難しく、外務大臣であった幣原喜重郎を首相代理を任命し、議会に臨みました。
議会では、立憲政友会が幣原を執拗に攻撃します。幣原が立憲民政党の党員ではなかったことに始まり、ロンドン海軍軍縮条約に関する質問に、すでに天皇から批准を受けたものだからという趣旨の発言をしたことで、幣原が天皇に責任転嫁をしているとして激しく非難されます。結局、幣原が失言を取り消す形で決着しました。
しかし立憲政友会の強気な態度はその後も続き、今度は鳩山一郎が浜口雄幸の議会出席を強く求め、予算審議を拒否します。浜口は完治していない身体で議会に臨むも、体調が再び悪化して再入院し、4月14日には首相を辞任することになりました。浜口は1931年8月に他界します。
ロンドン海軍軍縮条約批准と金解禁という2つの目標を掲げていた浜口雄幸内閣でしたが、最終的には浜口自身がまるでこの2つの案件と心中したかのような結果となりました。浜口は狙撃された時に「男子の本懐だ」と呟いたというエピソードがありますが、日本の将来のため命がけで取り組んだその政治家としての姿勢は、今日でも高く評価されています。
協調外交の行き詰まり
浜口雄幸の退陣により、1931年4月、第二次若槻礼次郎内閣が組閣されます。前内閣のほとんどの大臣が留任し、浜口内閣の方向性を踏襲しようとしました。
外務大臣を留任した幣原喜重郎は中国政府と交渉を続けていましたが、満蒙問題は解決せず、しびれを切らした関東軍が暴走して柳条湖事件を引き起こします。若槻内閣は事変不拡大方針を打ち出しましたが、関東軍はこれを無視して軍事行動を拡大しました。満州事変です。
当時、「満洲は日本の生命線」と言われ、国民も関東軍の行動を支持していました。軍部のみならず、国民からも理解を得られない若槻内閣は1931年12月に退陣します。あとを受けたのは立憲政友会総裁の犬養毅です。
犬養毅内閣が終わりを迎えたのは、1932年に犬養毅が暗殺された五・一五事件です。この事件の元凶は、ロンドン海軍軍縮条約でした。元々は、条約を締結した若槻礼次郎が狙われていましたが、退陣してしまったため、矛先が犬養毅へ向かったのです。
結局犬養毅は統帥権干犯問題で暗殺されました。しかし、条約の批准をめぐって取り沙汰された統帥権干犯問題は、もとはといえば立憲政友会が持ち出した論理です。立憲政友会総裁の犬養毅が、統帥権干犯問題で協力していたはずの軍部に殺害されるという、なんとも皮肉な結果となりました。
犬養毅は満州事変を話し合いで解決しようとしていましたが、暗殺されたことでその線は消え、次に組閣した斎藤実(まこと)内閣は軍部と世論の突き上げによって満州国を認めることになります。ここにきて、協調外交は完全に終わりを迎えたのです。
ロンドン海軍軍縮条約に関するまとめ
海軍休日 (Naval Holiday) という言葉があります。これは、1922年のワシントン海軍軍縮条約よりロンドン海軍軍縮条約が満期になった1936年12月までの時期のことで、建艦競争をやめて軍縮に向かい、国際協調を押し進めたことからこう呼ばれています。特にロンドン海軍軍縮条約は、世界恐慌で混乱していた経済を回復に向かわせる役割を果たしています。
日本だけを見ても、ロンドン海軍軍縮会議当時は、まだ良識ある軍人・政治家がいました。しかしそこからたった数年のうちに、海軍は休日を返上し、事態は急速に軍拡の方向へ動き始めます。日本は1935年にロンドン海軍軍縮会議から離脱を決めますが、坂を転がり落ちていくようなこの急展開の状況を見ると恐ろしくなります。
平和だと思っていた社会でも、たった数年で戦争を始めることもあるのです。これは今を生きる私たちも人ごとではなく、しっかり認識すべき教訓だと思います。
これが歴史学者名乗ってんの?マジ笑えんだけどw
何?この馬鹿らしい記事ww
もう少しはまともな記事を書こうよwこの戦後教育の信奉者感w
濱口内閣は農村を疲弊させ、金解禁で大量の資金を海外へ流出させいいとこ無しだった。
しかしそれを美化する様な書き振りは看過できない。軍縮条約でも日本だけ少なめにした事で後の軍拡につながった、まあ、あの時代、黄色い顔した奴に軍備はあまり持たせたくなかったのが本音だろうw
安倍晋三