殷とはどんな王朝だったのか?成立から滅亡までわかりやすく解説

中国最古の王朝として学校でも習う殷。その全貌は今でも研究途中ですが、学校ではその名前ぐらいしか触れることがないので詳しく知らない人も多いのではないでしょうか?。

あるいはマンガや小説で知った人もいるかと思いますが、取り上げられるのは殷の滅亡の話ばかりで具体的にどんな国だったのかは描かれることがそれほどありません。どんな文化を持ち、どんな政治制度を持っていたのか気になる人もいるでしょう。

そこでこの記事では、中国最古の王朝・殷について詳しくお話していきます。ぜひ最後までお付き合いください。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

殷とは?

殷墟の推定地に立てられた宮殿(復元)。現在は公園として使われている。

殷は、紀元前17世紀〜紀元前1046年まで続いた中国の古代王朝のことです。学校で四大文明と習ううちの中国文明には殷が含まれており、実は断片的に学校で習っている範囲になります。

その存在が実際に確認されたのは19世紀初頭と新しく、それまでは伝説、もしくは架空の国として扱われていました。「実際に」とついているのは、考古学的発見があるまで、殷は文章の中にしか登場しない国だったからです。

都は何度関わっているようで最終的には朝歌、現在の河南省にあったとされています。教科書で出てくる殷墟はその前の都。場所は朝歌より北にあったと推定されています。

確認できる中国最古の王朝

殷の領土とされる範囲。現在の中国と比べると非常に小さいのがわかる。

先にも少し述べましたが、殷は現在確認できる中国王朝の中で最古の王朝とされています。「確認できる中で」というのは発掘物などの考古学の観点に基づいており、史実によればこの前に「夏」という国があったとしているのです。

現時点で「夏」は発掘調査が進んでおらず、伝説の国の扱いのままです。そのため中国王朝の一番最初は殷と教科書には書かれています。

殷と商は同じ国

甲骨文字が刻まれた亀の甲羅。解読された文字が多く、辞書も存在する。

教科書には、殷という国の名前の横にかっこ書きで「商」とも書かれています。殷と商は同じ国なのですが、なぜ2つも呼び名があるのでしょうか。

文献資料にもよりますが、一番の決めては甲骨文字です。出土した甲骨文字には、自国のことを商としているものが見つかりました。この発見と殷という文献資料と合わせて、同じ国を指していると結論付けられたのです。同じ国で別の名前があるのは不思議な感じがしますね。2つをまとめて「殷商」としているものもあります。

まだまだ研究途中の謎多き王朝

殷の時代に使われていたとされる鍍金貝貨。すでに貨幣経済が成立していたことを物語っている。

実在が解明されたとはいえ、それはほんの氷山の一角に過ぎません。殷はまだ研究段階の王朝。主な研究は発掘調査によって得られた出土物によって決定づけられます。

殷の記述がある文献についてはその信憑性が高くないという特徴があります。30代500年続いた王朝であることと、伝説めいた王の数々がそれを物語っているのです。また、今後の出土物によっては現在通説になっているものが覆る可能性があるのもまた事実。このように発見から200年以上の歳月がたった今も研究途中という謎多き王朝なのです。

殷の王たち

殷の歴代王たちの系図。30人いるがすべて実在したのかは分かっていない。

殷の王たちは500年の歴史の中で30人いたとされています。しかし、その証拠は文献資料に基づくものであり、殷の時代に書かれたものではないためその信憑性はまだ低いままのものも多いです。

一方で、殷の国を作った初代・天乙、そして最後の王・紂王についてはある程度のことがわかっています。それ以外の王については今後の研究が待たれます。今回はこの2人と他の王がなぜ有名ではないのかを簡単に触れていきます。

初代・天乙

殷の初代王、天乙。その存在はまだ謎に包まれた部分が多い。

殷の創始者、天乙は伝説じみた逸話を持つ人物です。殷の前の王朝である夏の王であった暴君・桀を倒し、中原に国を開いたとされています。

甲骨文字も用いた記録には、太乙、もしくは湯王と記されていることがあり、のちの時代になって徳の高い王として知られるようになりました。

天乙以前の時代から、中国で王になる人間は治水に成功した人物がなることが通例とされています。中国大陸には黄河・長江の大運河をはじめ、それを支える支流が数多くあるのは周知のとおりです。この川をいかにして治めるかが王たる資質の有無を判断する材料だったのです。

天乙には治水の記事はないのですが、雨を降らせることに成功し、川の渇水から人々を救ったとあるため、少なからず水に関連したことが王に求められる要素だったのでしょう。

第30代・紂王

最後の王・紂王。「殷の紂王」は現在でも悪党の代名詞的存在。

最後の王となった紂王は、その在位期間が30年という長きに渡った王です。しかし、史実の評価はすこぶる悪く、現在でもあまり好感度の高くない王の1人として知られています。

紂王に関しては、最期は周の武王によって倒されます。しかし、生前に作られたであろう墓が見つかったことから、殷が滅亡した当時いつ亡くなってもおかしくない年であった可能性があることがわかっています。

非常に頭のいい王だったようで、臣下の意見にも自分一人で言い負かしてしまうほど口も達者。結果、周囲を煙たがるようになり、1人の女性に溺れて「酒池肉林」と呼ばれるものに興じたとされています。愚鈍なイメージの強い紂王ですが、それまで生贄を挙げていた占いでそれを止めさせたり、領土を拡大することに成功するなど、史書に書かれた悪評だけがすべてではないようです。

実在の疑わしい王も

初代・天乙が最初に都を置いたとされる亳(はく)と言われる河南省の二里岡遺跡。

初代・天乙から30代続いた殷王朝ですが、その王には実在したか疑わしい王が何人か存在します。

そもそもの話、殷については発掘調査も含めて未だによくわからないことが多くあります。そもそも500年間という長きに渡り、王朝を何の問題もなく運営できていたのかすらよくわかっていません。30人の王の名前については史書に書かれているもの、そして甲骨文字で書かれたものをもとに作られています。墓が全員分見つかっているわけではないので、確実に実在していたとわかっている王のほうが少ないのです。

とはいえ、この傾向は日本史の天皇家も同じことが言えます。実在したかどうかわからなかった王たちの素性は今後明確になっていくでしょう。

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