殷とはどんな王朝だったのか?成立から滅亡までわかりやすく解説

殷の政治制度

殷の時代の政治制度、軍事や文化についてはある程度わかり始めています。幸いなことに殷は甲骨文字と言われる古代中国語を持っていたため、文字として記録を残していました。これが政治などがわかるものとなっています。

では、殷の時代の政治制度や軍事、文化はどんなものだったのでしょうか。代表的なものについて紹介していきます。

物事は占い任せ

甲骨占卜の見方。割れる位置のほか、割れ具合によっても吉凶は違っていた。

政治を含め、祀り事と呼ばれる一切合切に占いが使われていました。その方法は複数あり、時には生贄を神に捧げて怒りを鎮めようとする行動も見受けられます。

もっとも有名なのは、亀の甲羅や動物の骨に文字を刻んで火で炙り、その割れ具合で吉凶を占う甲骨占卜と呼ばれる占いです。甲骨文字の説明で教科書に取り上げられるのはほとんどがこの甲骨占卜で使われたもの。主に政治的判断を下す際に使われたようです。

では、生贄は?というと、雨乞いのときに使われることが多かったようです。しかし、あまりにも残酷ゆえ、紂王が止めさせたことで殷ではその後行われなかったとされています。暴君で知られる紂王が止めさせたというのも面白い話ですね。

王族は2つ以上あった?

前漢の史家・司馬遷。彼の立てた説はその後約1800年間信じられていた。

私達が普通「王族」と聞くと、創始者がいて、その後継ぎなどはすべて親戚縁者でできているとイメージしますよね?ところが殷に関しては、この王族と呼ばれる家が2つ以上あった可能性があるのです。

漢の時代の歴史家・司馬遷は漢の王朝の系譜同様、血筋を同じくする人間が王位についていたと推測していました。しかし、甲骨文字の文が見つかると、どうやら複数の王族身分がいたことが分かってきたのです。あくまで仮説ですが、殷王朝は10の氏族からなる共同統治体制を敷いており、定期的に王が変わっていたとする説が今のところ有力です。

詳しいことはわかりませんが、私達が連想する単一の家系による統治ではなかったことは少なくとも事実でしょう。

地方は邑という共同体の集まり

登場初期の邑を代表する半坡遺跡の復元模型

殷の中で、各地方都市は邑と呼ばれる共同体で統治されていたことがわかっています。邑は数千からなっており、それを統治する貴族や豪族が数百いたと考えられています。

殷は王族の系譜からもわかるとおり、共同統治を前提としていました。地方都市も同様だったようで、複数の権力者が入れ代わり立ち代わりで統治をしていたのが実情と言えそうです。中央集権的な性質は成立した当初はなかったようです。

この形は中盤から変わっていきます。殷の東征に伴って、殷墟にいる王の命令に周辺豪族が従うようになったのです。こうして滅ぶ前の殷では中央集権がほぼ確立され、かつてあった邑との共同統治は形骸化していったのでした。

史上初めて戦車を投入?

殷で実際に使われた戦車。周りにある人骨は乗り手と考えられている。馬の骨も見えている。

殷の史料の中には面白い記述があります。なんと戦車を持っていたというのです。といっても私達が想像する砲身があってキャタピラで動き回るあの戦車ではありません。

馬車のようなものに複数の弓兵を乗せ、戦場を駆け回って戦闘をしたと言われています。この戦法は当時としては画期的であり、それまでの戦争のやり方に新風を与えたのは言うまでもありません。

同時代、似たようなものにインドのアショカ王率いる象部隊、アレキサンダー率いるローマ軍があります。おそらく中国国内では初めての導入ではないかとされているのです。年代によっては人類初の戦車導入。今後の研究が待たれます。

青銅器文化が盛んだった?

中国史上もっとも重たい青銅器、后母戊鼎。殷の時代のものと推定されている。

骨董品好きの人にとって、殷時代の青銅器は憧れのひとつでもあります。主に占いを中心に政治を執り行っていた殷の時代、青銅器は数多く作られていました。実際、夏を滅ぼしたとされる場所からは、夏人と思われる人骨とともに大量の青銅器が出土しています。

青銅器は金属製品ではありますが、武器になるほどの強度はなく主に祭事用として使われていました。殷の時代の青銅器は巨大なものが多く、中国史上もっとも重い青銅器も殷の時代のものとして知られています。

青銅器製の盃。神事や占いに酒は欠かせず、それを入れるためのものだった。

この文化は殷の衰退とともに無くなることはなく、その後の王朝でも作られていました。しかし、大きなものを作成することはあまりなく、比較的小さな盃や動物模型が作られるようになりました。それと同時に殷の時代の青銅器を真似たニセモノも作られるようになったのです。

殷の最後

殷の時代でもっとも有名なのは、残念ながらその最後。数代前からの悪政の結果、30代・紂王の時に滅亡しました。その最後は非常にドラマチックに描かれることが多いのですが、一体どのような話なのでしょうか?また、この話はどこまで本当なのでしょうか?

悪女・妲己の存在

妲己(右端)。『史記』の中にその記述はあるが詳しいことはあまりわかっていない。

殷の滅亡を語る上で欠かせない女性がいます。名前を蘇妲己といい、広く妲己として知られているこの人物こそが殷を滅亡に導いた存在でした。

絶世の美女であった妲己を寵愛した紂王は、それまで煙に巻いていた臣下の話をますます聞かなくなり、気に入らない人物は粛清するなど苛烈を極めました。妲己の提案で行ったとされる残酷な処刑方法や「酒池肉林」と呼ばれる遊興など枚挙に暇がありません。

酒池肉林とは、文字の通り池を酒で満たし、木の枝に肉を掛け、裸の男女が遊ぶというもので、これを見た臣下は「この王朝はもう長くはない」と悟ったとも言われています。この遊びもまた、聡明だった紂王を悪政に導いた悪女・妲己の提案とも言われているのです。

国政をないがしろにし、自らの快楽や欲求のためにしか動かない紂王に諸侯は徐々に反感を高めていきます。もし紂王に妲己を退けるだけの理性が働いていれば歴史は変わっていたかもしれませんね。

易姓革命による諸侯の反乱

周軍の軍師として知られる太公望・呂尚。彼が打倒殷の連合軍を武王に進言した。

不満が限界に達した諸侯はついに殷打倒の兵を挙げます。周や微といった周辺従属国家8国が一気に挙兵し、殷VS周辺諸国という構図が出来上がったのです。

ここには易姓革命と呼ばれる古代中国ならではの思想が働いています。古代中国では徳の高いものが王となり、国を治めることができるとされていました。しかし、その後代の王で不徳の者がいれば天はそれを許さず、政権交代をさせるという思想です。

殷から周へ変わるときにもこの思想が重視されました。のちにこの考え方は王朝の交代を正当化するための理由として使われますが、初めてこの考え方が当てられたのはこのときとされています。

壮絶な紂王の最期

酒池肉林の一部を描いたもの。これに愛想を尽かせた殷の臣下は多かった。

紂王率いる殷軍は、諸侯を迎え撃つため牧野に陣を敷きます。殷軍の総勢70万人に対して、周軍は40万人と数字の上では圧倒的不利な状態でした。しかし、この牧野での戦いに周は勝利します。

なぜ殷は負けてしまったのでしょうか?実はこの従軍した人数の中には神官などの非戦闘員や奴隷兵などの忠誠心の薄い兵が混じっていました。つまり、殷軍には純粋に戦闘できる兵力がもっと少なかったのです。これでは数字だけで勝つことはできません。捕虜や奴隷でしか軍隊を編成できなかったことが殷敗北の決定打となったのでしょう。

敗戦が徐々に色濃くなってきた紂王は、殷の滅亡を悟り、自ら火の中に身を投げて焼身自殺を図ります。その後、周の王である武王がその遺体を発見し首を切ったのでした。ここに30代続いた王朝、殷は滅亡し、連合軍の中心であった周の武王が周王朝を開いたのです。

残された記録は本当か?

殷についての記述がある『史記』。しかしその内容は殷滅亡から1000年近く経ってから書かれた。

ドラマチックに描かれることの多い殷の最後。しかし実際は非常に戦略的に倒されたのではないかとされています。

その証拠として、当時殷は東方の征伐に全力を挙げており、他の方面は手薄だったことがわかっています。さらにこの東方征伐で対象になった異民族は、裏で周が意図を引いていたことも甲骨文章によってわかっています。このことから、積もり積もった不満が爆発したと言うよりは、周の武王が戦略的に滅ぼしたとする説が史実では有力となっています。

また、紂王と妲己の性格についても疑問の声が上がります。中国では前の王朝を悪く書く習慣があるため、おそらくはその話を形作る上で必要になり設定された性格ではないかとも考えられているのです。

しかし、王朝とともに運命をともにした王の壮絶な最期はなんともドラマチック。脚色されて描かれるのも無理はないでしょう。

殷に関するまとめ

殷はまだまだ謎に満ちた王朝です。今後の考古学的調査で解明されることも多くあり、進展が待たれます。謎多き王朝、非常にロマンが溢れますね!

一方で、殷の存在が後代にまで影響を与えたのもまた事実。伝説と言われていた王朝の影響力は図りしれません。今後の進展で紂王以外にもドラマチックな生涯を送った王が出てくれば、より殷について魅力を感じる人も出てくるでしょう。その日が来るのを待ちながら、この記事を締めたいと思います。

長い時間お付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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