東ローマ帝国で活躍した主な人物
ユスティニアヌス1世
東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は、古代ローマ帝国の再建という強い野心を抱いていた人物です。最終的に再建するまでには至りませんでしたが、西ローマ帝国の領土を部分的に回復し、東ローマ帝国の版図を拡大することには成功しました。
しかし、その治世の下でペストが大流行し、ユスティニアヌス1世自身も感染してしまいます。パンデミックにより国内で多数の死者を出した結果、ローマ帝国再建へ向けた事業は大打撃を受け、帝国は衰退へ向かいました。
また、ユスティニアヌス1世は異教徒弾圧を行ったことでも知られています。ユスティニアヌス1世は東方正教会を信仰しており、法令で禁止としていた多神教を徹底的に弾圧し、ユダヤ人の市民権を制限しました。
レオン3世
レオン3世は、717年に即位した東ローマ帝国イサウリア朝の初代皇帝です。レオンには「獅子」という意味があり、ラテン語ではレオとなります。
7世紀前半から続いていたアラブ・東ローマ戦争において、即位したばかりのレオン3世はウマイヤ朝のイスラム帝国軍を撃退。東ローマ帝国の滅亡を回避し、イスラム帝国の侵略を遠ざけることに成功します。その後、レオン3世の政権は安定期を迎えました。
しかし、726年にレオン3世は東方正教会において聖像破壊運動を開始します。その結果、東ローマ帝国内を二分にする論争に発展し、西欧のローマ=カトリック教会からも強く非難されることになりました。その後、両教会同士の対立は深刻化し、キリスト教の東西分裂へと向かいます。
バシレイオス1世
バシレイオス1世とは、東ローマ帝国において政治、経済、軍事、文化など、様々な分野において最盛期を迎えることになるマケドニア王朝を開いた皇帝です。
この時代には中央集権、皇帝専制による政治システムが確立されました。そして、国内情勢が安定すると、失った帝国領の回復を進め、同時に東欧地域へのキリスト教の布教も推し進めたのです。
マケドニア王朝は10世紀末から11世紀初頭にかけて最も繁栄しました。その結果、北シリア、南イタリア、バルカン半島全土を征服した東ローマ帝国は、東地中海の大帝国として復活を遂げます。
東ローマ帝国の歴史年表
395年 – 「東ローマ帝国の始まり」
395年、ローマ帝国を単独で支配した最後の皇帝テオドシウス帝の死をきっかけに、ローマ帝国の東西分裂が起こり、東ローマ帝国と西ローマ帝国が誕生します。
しかし、476年に西ローマ皇帝がゲルマン人傭兵オドアケルによって廃位されると、東西の皇帝権は当時の東ローマ皇帝ゼノンのもとに再統一されます。その結果、東ローマ帝国はバルカン半島とアナトリア半島を中心に、地中海の広範囲に対して影響力を持つ国家となりました。
そして、東ローマ帝国は「文明の十字路」とも呼ばれる国家の興亡が激しい地域において、およそ1000年間存続することになります。
542年 – 「感染症の流行」
542年、ローマ帝国の再建を目指すユスティニアヌス1世の統治下において、感染症のペストが流行しました。ペストは発熱、頭痛、脱力感などの症状を引き起こします。感染者の皮膚が内出血によって紫黒色に変化することから、別名黒死病とも呼ばれました。
542年から543年にかけて東ローマ帝国を中心に発生したペストの流行は、ペストの歴史において最初のパンデミックとされています。帝都コンスタンティノープルで多数の死者を出し、人口が激減した結果、東ローマ帝国は一時的に機能不全に陥るほどの混乱期を迎えました。また、ユスティニアヌス1世自身もペストに感染したと言われています。
その後、ペストの流行は旧西ローマ帝国領へ拡大し、ブリテン島やフランスにも広がりました。このパンデミックによって、ユスティニアヌス1世が掲げた統一ローマ再建の夢は挫折することになります。
602年 – 「東ローマ・サーサーン戦争」
602年、東ローマ帝国とサーサーン朝ペルシアの間で、東ローマ・サーサーン戦争が勃発しました。
ユスティニアヌス帝の没後、東ローマ帝国は隣接する大国サーサーン朝ペルシアと対立していく過程で、穀倉地帯として重要なエジプトやシリアを奪われてしまいます。これに復讐しようとした東ローマ皇帝フォカスがサーサーン朝ペルシアへ侵攻したことで、東ローマ・サーサーン戦争は始まりました。
最終的に、627年のニネヴェの戦いで東ローマ帝国が勝利し、サーサーン朝の首都クテシフォンを占領。東ローマ帝国はサーサーン朝と和議を結んだ後、シリアとエジプトの領有権を回復しました。
867年 – 「最盛期を迎えたマケドニア王朝」
867年にバシレイオス1世が開いたマケドニア王朝は、東ローマ帝国が東地中海の大帝国として復活を遂げ、最盛期を迎えた時代となります。
マケドニア王朝の時代において、中央集権・皇帝専制の政治体制が確立したことで、国内に政治的な安定が戻り、東ローマ帝国は経済、軍事、文化の面で大きく発展しました。10世紀末から11世紀初頭にかけては、北シリア、南イタリア、バルカン半島の征服に成功し、東西の交易路にあったコンスタンティノープルは国際的な都市として繁栄を極めます。
しかし、ブルガリアの征服を行ったバシレイオス2世の死後、東ローマ帝国内では政治的な混乱や民衆の反乱が続きます。一時は最盛期を迎えたマケドニア王朝でしたが、衰退を免れることはできませんでした。
1055年 – 「セルジューク・東ローマ戦争」
1055年、トルコ人国家のイスラム王朝であるセルジューク朝と東ローマ帝国の間で、セルジューク・東ローマ戦争が発生しました。この戦いはアナトリア半島とアルメニアを舞台に、200年以上続くことになります。
1045年にアルメニアを征服した東ローマ帝国は、当時イランを支配していたセルジューク朝と領土を接することになりました。その後、セルジュークの侵攻が始まり、1071年に起こったマラズギルトの戦いで東ローマ帝国は敗れてしまいます。その際に失ったアナトリア半島は、セルジューク朝の地方政権であるルーム=セルジューク朝が支配し始めました。
そして、1176年のミュリオケファロンの戦いで東ローマ帝国はルーム=セルジューク朝に惨敗。これ以降、東ローマ帝国は本格的に衰退の道を辿ることになります。