「アンシャンレジームって何?」
「アンシャンレジームはどのくらい続いたの?」
「アンシャンレジームとフランス革命の関連は?」
このページを見てくれている人はそんな疑問を持っているかもしれません。アンシャンレジームとは、旧制度という意味でフランス革命以前の社会制度をさす言葉です。ブルボン王家を頂点とする支配システムで、貴族や教会が市民・農民を支配しました。
ブルボン朝による絶対王政が行われていたフランスでは、聖職者からなる第一身分と貴族からなる第二身分が圧倒的多数の市民・農民からなる第三身分を支配していました。そのため、18世紀後半には時代遅れで矛盾だらけの仕組みとなっていました。
長い間続いたアンシャンレジームは、フランス革命やその後に起きた七月革命によって崩壊します。今回は、フランスの古い身分制度であるアンシャンレジームについてわかりやすく解説します。
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アンシャンレジームとは?
アンシャンレジームの意味
フランス語で「ancien(アンシャン)」とは「古い」という意味です。もう一つの「régime(レジーム)」は政治体制や政治システムを意味する言葉です。したがって、アンシャンレジームとは、古い政治システムということができます。
実際、市民の権利が確立した市民革命の時代から見ると絶対王政は古い政治システムといえるでしょう。アンシャンレジームの世界では、国王や貴族、聖職者(カトリック教会の司祭や司教、枢機卿)らが社会の支配者であり、市民や農民は税を取られ支配される側でした。
アンシャンレジームの期間
アンシャンレジームの期間は1589年から1792年までと1814年から1830年までの二つの期間に分けることができます。
1589年から1792年はブルボン朝による絶対王政が行われていた期間でした。この時期、ルイ14世をはじめとする国王はヴェルサイユ宮殿をはじめとする豪華な宮殿を建築する一方、対外戦争を繰り返しました。そのつけは、市民や農民に対する重税によって支払われます。
アンシャンレジームにより思い税負担を強制された市民たちはフランス革命で立ち上がり、ブルボン朝の絶対王政を終わらせます。これで、いったんアンシャンレジームは崩壊します。
しかし、フランス革命後に成立したナポレオンのフランス帝国が崩壊するとフランスは再びブルボン朝の支配下に置かれます。こうして1814年から1830年まで復古王政がしかれました。
とはいえ、アンシャンレジームは時代遅れのしくみです。これで市民たちが納得するわけがなく1830年の七月革命でアンシャンレジームは終焉を迎えました。
アンシャンレジーム期の身分制度
アンシャンレジームの時代、フランスには聖職者である第一身分と貴族である第二身分、大多数を占める市民や農民たちからなる第三身分という3つの身分がありました。それぞれの身分の特徴を整理しましょう。
第一身分
第一身分は聖職者たちです。この時代、フランス人の大多数が信仰していたのはローマ=カトリックでした。カトリックの聖職者(司祭や司教、大司教)らはフランス全土で12万人ほどいたと考えられ、人口比では0.5%を占めるにすぎませんでした。
教会は中世からのきまりで信者から「十分の一税」を取り立てることができました。そればかりか、彼らは教会が持つ土地を支配する領主でもあったのでそこから得られる収入もあります。しかし、第一身分は免税特権を持っていたのでどんなに収入があっても課税されませんでした。
第二身分
第二身分は貴族たちです。彼らは大きく3種類に区分されます。一つ目は地方に領地を持つ封建領主です。彼らは広大な領地を支配し、農奴たちを使役していました。二つ目は国王に仕える宮廷貴族です。彼らは国王から年金を受け取って生活していました。
そして、三つ目は法服貴族です。彼らは商業などで得た財力で高い官位を買収し、貴族特権を手に入れた新興貴族でした。これら3つの貴族はあわせて40万人程度いましたが、それでも全人口の1.5%程度で彼らも免税特権を持っていました。
第三身分
第一身分と第二身分以外の人々はひとくくりにされ第三身分とよばれました。大多数の商工業者や市民、農民などからなり全人口の98%を占めます。貴族たちが3つに区分されるように、第三身分の人々も富裕層と貧困層に区分することができました。
特に都市市民は少数の富裕な「ブルジョワ」と圧倒的多数の下層市民に分けられます。ブルジョワは18世紀以降に急成長し、産業資本家として成長し始めます。その一方、貧困層は「サンキュロット」はフランス革命後半で主導権を握り、急進派を形成します。