昔から中国に伝わる男性の髪型に辮髪(べんぱつ)と呼ばれるものがあります。今の私たちの感覚からすると、かなり変わった髪型に感じますが、実はそんな髪型ができたのには理由があり、歴史を知ることでそれがわかります。
日本の男性の髪型、ちょんまげも辮髪の特徴によく似ていました。かつては一般的な髪型でしたが、やはり現在普通の生活では見ることができません。中国と日本に似たような髪型が存在していたのはとても興味深いですし、2つの髪型の特徴を理解することで、2つの国を理解することができるかもしれません。
今回は中国の辮髪について、その歴史をたどっていきます。そうすることで、辮髪の意味を知り、辮髪とは何かがわかるでしょう。わかったときには、私たちは大切なことを同時に理解できるはずです。また、ちょんまげと辮髪の違いについても触れたいと思います。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
辮髪とは一体なに?
辮髪の意味と特徴
辮髪は昔の中国で男性がしていた髪型です。頭髪の一部だけを残して剃り上げた髪型で、残した髪の毛は三編みにして垂らすのが特徴です。これは馬に乗ることを許された男性の髪型でした。
辮髪でよく知られているのは前頭部の髪を剃り、後頭部の髪を残したものです。これは中国東北部の満州族の辮髪です。満州族の他に、モンゴル人なども辮髪を行っていましたが、満州族とは違い、左右の側頭部の髪を残していました。一口に辮髪と言っても、民族によって、また年代によって、髪の毛を残す部分が違ったのです。
辮髪が誕生した理由は、戦闘のときに髪の毛がたれてくると邪魔になったからだと考えられています。最初は実用本位で誕生した辮髪でしたが、満州族が中国を統一したときに別の意味を持つことになります。
辮髪が中国でメジャーになった理由
満州族が中国を統一したのが始まり
1644年に満州族が中国を統一しましたが、中国では漢民族の方が多数派でした。
そこで満州族は敵と味方の区別をつけるために、自分たち特有の辮髪をするよう、漢民族に要求しました。辮髪やチャイナドレスなど、今の私たちが中国特有の習俗だと思っているものはもともとは満州族のものだったのです。
このとき男性は辮髪を強制されたが、女性は両把頭という髪の毛を額の中央から左右に分ける髪型を強制され、漢民族の服を着ることも禁じられました。また、文章や思想を厳しく取り締まり、清朝や満州族に楯突くことを禁じました。
こうして満州族はあらゆる方面から漢民族を支配していったのです。髪型を強制的に決められても、大した影響はないと思うかもしれません。しかし、髪型や服装、思想までも管理されて、それが当然と思う頃には、支配者に都合の良い人間が出来上がっていたのに違いありません。
法律もできた!辮髪の強制
1645年には清から辮髪令が出さましれた。これは10日以内に辮髪にしない者は反逆者とみなされ、死刑になるというものでした。
中国の各地にはこの言葉を記した高札がかかげられたといいます。
「頭を残す者は、髪を残さず。髪を残す者は、頭を残さず」
しかしそれでも漢民族の中には辮髪を受け入れず、死刑になる者が多く出ました。
辮髪の強要が満州族に支配されている証拠になるため、屈辱を感じて拒否する人が多かったのですが、他に満州族と漢民族の考え方の違いがあったことも理由になっています。
漢民族の考え方には儒教が大きく影響を与えていました。
なぜ辮髪は抵抗されたのか
儒教には古くから、親からもらった体を傷つけてはいけないという考えがありました。そして髪の毛も親からもらった体の一部と考えられていたのです。
しかし、満州族は辮髪にすれば、後は変わらない生活ができると保証をしたために、辮髪は徐々に漢民族にも浸透します。
例えば満州族は、国の役人を選ぶ制度はそのまま残し、優秀な漢民族を登用しましたし、重要な役職には満州族と漢民族を同じ人数つけるようにしました。また古くからの文化や学問を尊重し、決して禁じたりはしませんでした。
よく考えるとこれはアメとムチなのですが、当時の漢民族にとっては、一見譲歩とも思えるやり方だったでしょう。辮髪さえ我慢すれば、と思ってしまった人が出てきても無理はありません。
辮髪が中国男性の一般的な髪型になるとともに、漢民族は満州族の支配を受け入れていったのです。
ちょんまげと辮髪の違い
実用的だった日本のちょんまげ
日本にも辮髪と似ている髪型がありました。それがちょんまげです。
ちょんまげは武士が兜をかぶって戦う時に、頭が蒸れるために頭頂部の髪の毛を剃り落としたことが始まりでした。剃り残した部分を辮髪は三編みにしましたが、日本では髷(まげ)を結いました。それがそのまま伝わっていったため、辮髪に比べると実用的な髪型だったことがわかります。
辮髪も最初は実用的な理由から始まりましたが、あくまでも満州族のものでした。強制された漢民族にとっては、服従の印であり、屈辱的なものだったことでしょう。
漢民族が辮髪を止めるのは、清への反抗を表すことでした。実際に辛亥革命で清朝を倒した孫文は、1896年に日本に亡命した際に、辮髪を切って革命の意思を新たにしています。
しかし一般市民にとっては、自分の身を危うくすることにつながりかねない危険な行為でした。
ちょんまげと辮髪の今
清が倒れて辮髪がなくなったように、徳川幕府が倒れてちょんまげもなくなりました。現在ちょんまげは時代劇の中か相撲でしか見ることはありません。
日本では幕府が倒れた後、散髪脱刀令が出され、ちょんまげを止める人が続出しました。相撲の世界でもそれが当てはめられようとしましたが、当時の政府には相撲好きが多く、力士だけには習俗としてちょんまげを許そうということになりました。
辮髪も映画やドラマの中で見られるだけになっています。ファッションとして辮髪を取り入れる人がいても、その意味は失われているでしょう。かつての服従の印と思えば、辮髪はやりにくい髪型のはずです。
また、日本の相撲のように伝統を重んじて辮髪を残していることはないようです。