辮髪の終わり
太平天国の乱で禁じられた辮髪
1851年に清で大規模な宗教反乱が起こりました。それが太平天国の乱で、新しく作られた国・太平天国では、清への反抗から辮髪は禁じられたということです。彼らは長髪賊と呼ばれ、弾圧の対象になりました。
この後、時代が下るに連れて、清への反抗から辮髪を切る者が増えました。特に留学生にそれが多く(留学先で辮髪を切る者が多かったために、一時帰国に備えて辮髪のかつらまで売っていたそうです)、国の費用で留学していた者は制度から外されたり、強制送還される場合もありました。
どちらにしても、辮髪を止める方が少数派で、多くの人は辮髪を受け入れていたことがわかります。この状態は1911年に清が倒れるまで続きました。辮髪をしない者は死刑という法律もそのまま生き続けていたのは驚きです。
清朝の終わりとともに廃れた辮髪
清朝では辮髪は義務であり、それを怠ることは国への反抗と捉えられたましたが、辮髪が免除される場合もありました。禿頭(ハゲ頭ということ)と出家をする場合です。そのため、辮髪を嫌って出家をする人もいたそうです。長い間辮髪を受け入れていたとは言え、清朝も終わりに近づくと、辮髪に疑問を持つ人が増えたのでしょう。
1911年、辛亥革命が成功して清朝が終わると辮髪も徐々に廃れていきます。清朝の終わりとともに誕生した台湾では、日本の統治下に入ったことをきっかけに辮髪を止めようという動きが起き、「断髪不改装会」が結成されました。
断髪不改装会では、辮髪は時代に合っておらず、さらに不衛生で不便だから切ってしまおうと呼びかけました。台湾では中国本土よりも、積極的に辮髪は廃止されたようです。
辮髪は人々にとって義務ではなく、古い悪しき習俗になってしまったのでしょう。また、かつてちょんまげを止めた経験のある日本が関わっていたことも関係があったのかもしれません。辮髪とちょんまげには、こんな関係もあったのだと思うと感慨深いものがあります。
魯迅の作品に描かれた辮髪
20世紀を代表する中国の作家・魯迅は辮髪に関する文章を残しています。その中では漢民族がいかに辮髪に抵抗し、満州族に弾圧を受けたかを語っています。しかし、どうにか漢民族が辮髪を受け入れた頃に、皮肉にも太平天国の乱が起こりました。
辮髪のままでは反乱軍に殺され、辮髪を止めれば官兵に殺される、板挟みにされる一般市民の苦しみがそこにはありました。まさに髪の毛に人々が翻弄されたのです。
髪の毛を剃るのは、命や体の一部を切り落とされるのに比べると、大した事のない罰だと魯迅は言っています。しかし髪の毛で人生を台無しにされた人もたくさんいるのだとも言っています。
髪の毛は漢民族の宝であり、仇であるという言葉には大切なメッセージが込められているようです。髪型の強要は小さなことかもしれません。ですが、それを考えもなしに受け入れていると、気付かぬうちに誰かに支配されかねません。そこに注意をするようにと魯迅は私たちに教えてくれているのではないでしょうか。
辮髪に関するまとめ
中国の伝統的な髪型・辮髪が生まれてから消えるまでの歴史を解説してきました。伝統が消えていくのは寂しいことかもしれませんが、辮髪には同じ国の中での支配関係が絡んでいます。
どんなに優れた髪型だったとしても、それを国の支配者に押し付けられるのはやはりあってはならないことです。髪型というのはとてもプライベートなものです。それに介入してくるのは、自分たちを支配しようとしていることにほかなりません。
そして一度支配されることに慣れてしまうと、そこから抜け出すのも大変なのです。この大切なことを私たちは辮髪の存在で理解できたのかもしれません。
もしかすると、これから先も私たちに辮髪を強要するような政治家が出てこないとは限らないです。常にしっかりと自分の頭で考え、何者にも支配されないために、私たちは辮髪の存在を忘れないようにしなければなりません。