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東学党の乱(甲午農民戦争)とは?原因や影響まで分かりやすく解説

「東学党の乱をわかりやすく知りたい」
「甲午農民戦争とは何か違うの?」
「東学党の乱と日清戦争の関係は?」

東学党の乱に関して、以上のような疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか?東学党の乱は19世紀末に朝鮮半島で起こった反乱であり、後に発生する日清戦争に大きな影響を与えました。また、現在では「甲午農民戦争」と呼ばれることもあります。しかし、重要な事件である一方で、その内容はあまり知られておらず、乱の存在そのものも決して有名ではありません。

そんな東学党の乱とは一体どんな戦いだったのか?東学党の乱と甲午農民戦争との厳密な違いはなんなのか?乱が起こった背景は?日清戦争に与えた影響は?など、東学党の乱に関してわかりやすくお伝えしていきます。

東学党の乱とは?

東学党の乱の始まりとともに広まった全琫準(ぜんほうじゅん)の檄文

東学党の乱を簡単に言うと、「当時の朝鮮政府の腐敗に対し、在地の農民が起こした反乱事件」です。東学党の乱が起こったことにより、日清戦争勃発の大きな引き金となりました。「東学(とうがく)」とは、西暦1860年に朝鮮半島 慶州出身の崔済愚(さい せいぐ)が起こした新宗教で、当時の朝鮮の一般民衆(農民層)に広く支持されていました。この東学の信徒が、反乱者の中に多く含まれていたため「東学党の乱」と呼ばれています。

甲午農民戦争=東学党の乱

数万人に達した農民軍

冒頭で説明した通り、現在では「東学党の乱」ではなく「甲午農民戦争」と呼ばれることが多くなっています。ただし、「東学党の乱」と「甲午農民戦争」は呼称が違うだけで、中身は全く同じです。東学という宗教はあったものの、党が存在していたわけではなかったこと、また農民が主体となって戦ったことなどから、現在では「甲午農民戦争」と言われるようになりました。なお、「甲午農民戦争」という呼び方は朝鮮側の呼称とも言われています。

なお、本記事では従来の通り「東学党の乱」で統一します。

起こった時代や場所は?

朝鮮政府を掌握していた閔妃(びんひ)

東学党の乱は朝鮮半島を舞台とし、明治27年(1894年)1月11日に発生、明治28年(1895年)3月29日に終焉しました。

当時の朝鮮政府を掌握していた閔妃(びんひ)政権(李氏朝鮮)の腐敗に対する不満は、東学党の乱以前から噴出しており、明治16年(1883年)頃から各地で農民が反乱を起こしていました。このような中、明治27年(1894年)に役人の税金横領が発覚、横領に異を唱えた農民が逮捕されてしまいました。こうして、大衆の閔妃政権への不満は頂点に達し、東学の二代目教祖「崔時亨」が武力蜂起、「全琫準(ぜんほうじゅん)」という人物を中心とし、東学党の乱が勃発しました。そして、明治28年(1895年)に、朝鮮に出兵した日本軍によって鎮圧されました。

日清戦争の関連性は?

日清戦争の様子

東学党の乱が日清戦争に大きく関わっていることはすでに述べた通りです。その関連性を簡単に言うと「日本と清による朝鮮半島をめぐる戦い」となります。しかしその背景には、日本と清の考え方の違い、北方の強国ロシアの存在など、関係各国の置かれた状況が複雑に絡み合っていました。以下より、各国の思惑や状況を見て行きましょう。

南下を目論むロシア

当時の情勢を描いた風刺画(日本と清が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている)

当時は欧米列強による植民地政策全盛の時代。列強のひとつであるロシアも南への支配拡大を狙っていました。またロシアの冬は極寒であり、冬季になると海が凍り付いてしまいます。つまりロシアとしては、冬でも使える港「不凍港」が、なんとしても欲しかったのです。ゆえにロシアは南への進出を狙っていました。

そして、ロシアが南下した先にある国こそ、清であり朝鮮であり日本です。特に日本と朝鮮は海を挟んでいるとは言え隣国です。もし、朝鮮半島がロシアの手に落ちた場合、日本はロシアと真正面から対峙しなければなりません。しかし、この時の朝鮮は清の属国であり、近代化もしていません。当然ロシアに敵うはずがありません。このような状況のだったため、日本としては朝鮮を清から独立、近代化させ、ともにロシアに立ち向かってもらわねばならなかったのです。

朝鮮半島を巡る日本と清

当時の清政権を掌握していた西太后(せいたいごう)

上記のような状況の中、なんとか朝鮮を独立国家にしたかった日本ですが、清の思惑は全く違っていました。この時の清は、全盛期の勢いは失われていたものの、大国であることには変わりが有りません。また、列強の植民地支配が拡大していく中にあっても、古い体制のまま変わろうとしない勢力が存在していました。

また「清は朝鮮の宗主国である」という自負やプライドもあり、朝鮮の独立を認めようとしませんでした。迫りくるロシアの脅威にどう対応するのか?国を強くして列強に立ち向かうことを選んだ日本と、旧来のまま変わらず列強に飲み込まれるのを待つだけの清。この日本と清の朝鮮半島への対応の違いが、日清戦争の火種となっていくのです。

天津条約の締結

天津条約の交渉にあたった伊藤博文

東学党の乱が発生する前段階として、朝鮮半島では明治15年(1882年)に「壬午軍乱(じんごぐんらん)」(壬午事変とも)と呼ばれる朝鮮政府内の権力争いが起こっています。そして明治17年(1884年)には、腐敗する朝鮮政府に対して、改革を目指す人物たちが起こした反乱「甲申政変(こうしんせいへん)」が起こっています。これらの事件に対し宗主国の清が介入。壬午軍乱は清に取り込まれた「閔妃(びんひ)」が権力争いに勝利、甲申政変ではまたも清の介入によって、クーデターは失敗に終わっています。

このような朝鮮半島の混乱状態の中、清の介入を懸念した日本は、明治18年(1885年)清との間に「天津条約」を締結させました。天津条約では、「日本と清の両国は朝鮮へ勝手に軍隊を派遣しないこと、派遣する場合は互いに事前通告すること」を取り決めました。

日清戦争勃発

日清戦争を描いた木版画

当時の朝鮮政府は「閔妃(びんひ)」という朝鮮国王の妃が牛耳っていたのですが、壬午軍乱や甲申政変へ何も対処することができませんでした。それどころか、閔妃によって朝鮮政府はどんどん腐敗していきました。こうして東学の信徒たちが大いに不満を募らせていき、反乱へと発展していきます。これが「東学党の乱」です。

東学党の乱勃発に驚いた閔妃は、清に援軍を要請。こうして清は朝鮮半島への出兵を実行、天津条約は破られました。そして、条約を反故にした清に対抗すべく日本も軍を半島へ派遣。こうして日清戦争へと突入していくのです。

1度目の蜂起

東学党の乱を指揮した「全琫準」

東学党の乱は全琫準(ぜんほうじゅん)という人物を中心とし、数万の大軍を形成。その勢いは留まるところを知らず、政府軍を次々と撃破していきました。この事態に焦った閔妃が、清に援軍を要請したことはすでに述べました。ところが、清が半島に進軍してきたことで天津条約違反となり、日本も軍を派兵。東学党の乱が起こる最中で、日本と清が睨み合う状況となってしまったのです。

またまた焦った閔妃は、反乱軍の提案を受け入れ和約を締結したと言われています(諸説あり)。これにより、朝鮮半島南部の全羅道に農民権力による自治が確立し、一旦は反乱が終息しました。

2度目の蜂起

逮捕された全琫準

1度は終息した東学党の乱ですが、中心人物の全琫準は2度目の蜂起を画策していました。1度目は腐敗した閔妃政権の打倒を目指したものでしたが、今度は日本軍が標的となりました。日本としては、朝鮮の独立を実現させるために清と戦っていましたが(日清戦争)、朝鮮にとっては日本の半島侵略戦争に他なりませんでした。こうして反乱軍は、半島に駐留していた日本軍との戦いに突入していったのです。

しかし、明治維新以来、欧米列強に負けない国づくり(富国強兵)を実施してきた日本軍に敵うはずもなく、反乱軍はあえなく敗北。日本軍は乱を指揮していた全琫準を捕縛しました。なお、日本軍の圧倒的勝利に終ったこの戦いは、牛禁峙の戦い(ぎゅうきんじのたたかい)と呼ばれています。

乱の鎮圧

全琫準の助命を要請した「井上馨」

牛禁峙の戦いに敗れ捕縛された全琫準は明治28年初頭に漢城(現在のソウル)で処刑されました。この時に日本公使を務めていた井上馨(いのうえかおる)は、全琫準の人格に大いに共感、朝鮮政府に処刑しないように要請していました。しかし、井上馨が日本に帰国している間に、朝鮮政府によって全琫準は処刑されてしまいました。

こうして東学党の乱は完全に終結、日清戦争も日本の勝利で終わり、歴史は日露戦争へと突入していくことになるのです。

東学党の乱に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?東学党の乱とは、朝鮮政府内部の腐敗による農民軍の大規模反乱であり、日清戦争勃発のキッカケでもありました。そして、欧米列強による植民地支配、とくにロシアの南下に翻弄された東アジア各国の思惑がぶつかり合った出来事でもありました。

日本の歴史を振り返る時、どうしても朝鮮半島との関係を無視するわけにはいきません。各時代ごとに日本と朝鮮半島は様々な関わり合いをしてきました。そして、それは今現在も変わりがありません。日本が韓国や北朝鮮とどう向き合うべきか?どのような態度で臨むべきか?歴史にはそのヒントが示されているのかもしれませんね。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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