東学党の乱(甲午農民戦争)とは?原因や影響まで分かりやすく解説

「東学党の乱をわかりやすく知りたい」
「甲午農民戦争とは何か違うの?」
「東学党の乱と日清戦争の関係は?」

東学党の乱に関して、以上のような疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか?東学党の乱は19世紀末に朝鮮半島で起こった反乱であり、後に発生する日清戦争に大きな影響を与えました。また、現在では「甲午農民戦争」と呼ばれることもあります。しかし、重要な事件である一方で、その内容はあまり知られておらず、乱の存在そのものも決して有名ではありません。

そんな東学党の乱とは一体どんな戦いだったのか?東学党の乱と甲午農民戦争との厳密な違いはなんなのか?乱が起こった背景は?日清戦争に与えた影響は?など、東学党の乱に関してわかりやすくお伝えしていきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

東学党の乱とは?

東学党の乱の始まりとともに広まった全琫準(ぜんほうじゅん)の檄文

東学党の乱を簡単に言うと、「当時の朝鮮政府の腐敗に対し、在地の農民が起こした反乱事件」です。東学党の乱が起こったことにより、日清戦争勃発の大きな引き金となりました。「東学(とうがく)」とは、西暦1860年に朝鮮半島 慶州出身の崔済愚(さい せいぐ)が起こした新宗教で、当時の朝鮮の一般民衆(農民層)に広く支持されていました。この東学の信徒が、反乱者の中に多く含まれていたため「東学党の乱」と呼ばれています。

甲午農民戦争=東学党の乱

数万人に達した農民軍

冒頭で説明した通り、現在では「東学党の乱」ではなく「甲午農民戦争」と呼ばれることが多くなっています。ただし、「東学党の乱」と「甲午農民戦争」は呼称が違うだけで、中身は全く同じです。東学という宗教はあったものの、党が存在していたわけではなかったこと、また農民が主体となって戦ったことなどから、現在では「甲午農民戦争」と言われるようになりました。なお、「甲午農民戦争」という呼び方は朝鮮側の呼称とも言われています。

なお、本記事では従来の通り「東学党の乱」で統一します。

起こった時代や場所は?

朝鮮政府を掌握していた閔妃(びんひ)

東学党の乱は朝鮮半島を舞台とし、明治27年(1894年)1月11日に発生、明治28年(1895年)3月29日に終焉しました。

当時の朝鮮政府を掌握していた閔妃(びんひ)政権(李氏朝鮮)の腐敗に対する不満は、東学党の乱以前から噴出しており、明治16年(1883年)頃から各地で農民が反乱を起こしていました。このような中、明治27年(1894年)に役人の税金横領が発覚、横領に異を唱えた農民が逮捕されてしまいました。こうして、大衆の閔妃政権への不満は頂点に達し、東学の二代目教祖「崔時亨」が武力蜂起、「全琫準(ぜんほうじゅん)」という人物を中心とし、東学党の乱が勃発しました。そして、明治28年(1895年)に、朝鮮に出兵した日本軍によって鎮圧されました。

日清戦争の関連性は?

日清戦争の様子

東学党の乱が日清戦争に大きく関わっていることはすでに述べた通りです。その関連性を簡単に言うと「日本と清による朝鮮半島をめぐる戦い」となります。しかしその背景には、日本と清の考え方の違い、北方の強国ロシアの存在など、関係各国の置かれた状況が複雑に絡み合っていました。以下より、各国の思惑や状況を見て行きましょう。

南下を目論むロシア

当時の情勢を描いた風刺画(日本と清が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている)

当時は欧米列強による植民地政策全盛の時代。列強のひとつであるロシアも南への支配拡大を狙っていました。またロシアの冬は極寒であり、冬季になると海が凍り付いてしまいます。つまりロシアとしては、冬でも使える港「不凍港」が、なんとしても欲しかったのです。ゆえにロシアは南への進出を狙っていました。

そして、ロシアが南下した先にある国こそ、清であり朝鮮であり日本です。特に日本と朝鮮は海を挟んでいるとは言え隣国です。もし、朝鮮半島がロシアの手に落ちた場合、日本はロシアと真正面から対峙しなければなりません。しかし、この時の朝鮮は清の属国であり、近代化もしていません。当然ロシアに敵うはずがありません。このような状況のだったため、日本としては朝鮮を清から独立、近代化させ、ともにロシアに立ち向かってもらわねばならなかったのです。

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