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インド大反乱とは?なぜ起きた?【原因や重要人物、影響についてわかりやすく紹介】

「インド大反乱ってどんな出来事?」
「インド大反乱が起こった原因は?」
「インド大反乱の全体像について簡単に知りたい」

この記事を読んでいるあなたはこのようなことを思っているのではないでしょうか。

インド大反乱とは、1857年に起きたインド人による反英運動です。当時インドはイギリスに支配されており、インド人はさまざまな不利益を被っていました。インド人が抱いていた不満は、東インド会社の傭兵が起こした反乱により爆発したのです。

本記事ではそんなインド大反乱について、わかりやすく解説します。原因や経過、重要人物、影響についても紹介しますので、ぜひ参考にしてください。

インド大反乱とは

インド大反乱はインドで起こった初めての独立戦争とも言われている

インド大反乱とは、東インド会社のインド人傭兵の反乱から、インド中に広まった反英運動です。東インド会社任せだったインドの統治を、イギリス本国の直接統治に転換させるきっかけとなりました。また、インド人による本格的な反英運動の出発点ともなった反乱です。

インド大反乱はいつ起きた?

1857年メーラトでインド大反乱が起こる

インド大反乱は1857年5月10日に起こりました。詳しい理由については後述しますが、発端はイギリスがインドを植民地化し、現地の資源を吸い取ったことが背景にあります。結果的にインド国内は極端なインフレ状態に陥って混乱し、綿工業は衰退してしまいました。

この過程で権力や財産、働く場所を失ってしまった人々が階級問わず多く存在しました。そのため、ほとんどのインド人がイギリスに対する不安を募らせ、反乱へと発展したのです。

シパーヒーの乱とは?

発端はインド人傭兵だったが、旧支配者や民衆を巻き込む民族的な反乱になる

実はインド大反乱と呼ばれているこの運動は、当初シパーヒーの乱と呼ばれていました。シパーヒーとは、インド人傭兵を表す言葉です。インド大反乱は、インド人傭兵がきっかけとなって起こったため、イギリスの支配者はシパーヒーの乱と名付けました。

しかし、イギリスの支配者がそう呼んだのには他にも理由があります。インド大反乱は結果的に、インド人という民族による反乱で、独立戦争でもありました。

イギリスは民族的な反乱であったことを隠したかったため、シパーヒーらによってたまたま起こった出来事であったと強調したかったのです。実際にはインド人の大半を含んだ反乱であったのに、シパーヒーの乱と呼んだのは、こういった事情があったからです。

セポイの乱とは?

国によってそれぞれの呼び方がされた

セポイの乱も、インド大反乱を差す言葉です。セポイとはペルシャ語で兵士を意味する言葉で、やはりインド人傭兵が反乱を起こしたため、このような呼び方をされました。こちらは主に日本で表記された言葉です。

当初はシパーヒーとセポイ、それぞれの言葉で呼ばれていました。しかし最終的に反乱を起こしたのはシパーヒーだけでなく、領主から農民まで参加した民族的な運動だったことを考慮し、インド大反乱と現代で呼ばれるようになりました。

インド大反乱の背景と原因

藩王国の取り潰し政策

写真は1909年のもの。イギリスが直接統治している地域はピンク、自治を認めた藩王国は黄色

藩王国取りつぶし政策とは、後継者がいない国をイギリス領に併合する政策のことです。

インドの植民地化を進めていたイギリスは、インドの諸王国に対し次の2つの政策を用いていました。

  • 従属を拒否した国を武力制圧
  • 友好関係を結んだ国の保護国化

この2つのうち、藩王国の取りつぶし政策に関わるのが2つ目の保護国化です。イギリスは友好関係を結んだインドの国を「藩王国」として、一定の自治を認めました。

一見寛容に思える政策ですが上述したように、後継者のいない国をイギリス領に併合するという取り決めを作ってしまったのです。

有無をいわさないイギリスの態度に、多くのインド人が強く反発しました。特に北インド最大の藩王国であったアワド藩王国の取りつぶしはシパーヒーらの反感を買いました。なぜなら、東インド会社のシパーヒーの3分の1はアワド出身だったからです。

さらに、アワド藩王国に使えていた貴族や役人、商人は取りつぶしによって職を失い、彼らを相手にしていた商人や手工業者も路頭に迷うこととなったのです。階級を問わず、多くのインド人が反乱に参加したのにはこういった事情がありました。

牛のあぶらと豚のあぶらが塗られた包み

銃に宗教上禁忌とされる獣脂が使われているという噂が反乱の原因となった。しかし、この噂がどこから流れたのか定かではない

1857年、インド大反乱が起こる直前、彼らには新式のエンフィールド銃が支給されることになっていました。しかし、支給された銃について、宗教上の問題となる噂が流れたのです。

噂の内容は、弾の装填に使う薬包に牛脂と豚脂が塗られているというものでした。

弾丸を銃に装填するためには、牛脂と豚脂の使われた薬包の端を歯で噛み切らなければ装填できません。もし噂が本当であれば、それは宗教的にやってはならないことを犯すことになってしまいます。

というのも、東インド会社のインド人傭兵(以降シパーヒー)は大半がヒンドゥー教徒とイスラーム教徒だったのです。ヒンドゥー教にとって牛は神聖な動物であり、イスラーム教にとって豚は不浄な動物でした。

シパーヒーたちは、イギリス人がこれをキリスト教への改宗を迫る策略とみなし、弾丸の受け取りを拒否しましたが、これは懲罰の対象になりました。イギリス人の配慮に欠ける行いに、シパーヒーらは不信感を募らせ、ついにインド大反乱へと踏み切ったのです。

イギリスによって生活の糧を失い、尊厳すらも奪われたインド人たち。インド大反乱が起こるのも分かりますね。

インド大反乱の重要人物

ラクシュミー・バーイー

ラクシュミー・バーイー。戦ったイギリス士官は彼女を「もっともすぐれた、もっとも勇敢なるもの」と評した

ラクシュミー・バーイーはインドの小さな藩王国の女王で、1857年にインド大反乱に加わった女性です。

なぜ女王である彼女がインド大反乱に加わったのか、それは前述した藩王国取りつぶし政策が理由でした。ラクシュミーは女王でしたが、子供がいませんでした。それを理由に、ラクシュミーの藩王国はイギリス領に併合されてしまったのです。

インド大反乱が起こるとラクシュミーは男たちと同じ格好をして反乱軍を指揮しました。最後までイギリスと戦ったラクシュミーでしたが、イギリス軍の総攻撃により、死去してしまいます。

志半ばで世を去ることになったラクシュミー。イギリスと最後まで戦った彼女の姿はインドのジャンヌ・ダルクと呼ばれ、今もなお人々の崇敬を集めています。

ナーナー・サーヒブ

ナーナー・サーヒブ

ナーナー・サーヒブはマラーター王国の最後の宰相バージー・ラーオ2世の養子です。若い頃に武将のターンティヤーなど優秀な部下を集め、上述のラクシュミーともこの頃に知り合ったそうです。

インド大反乱にも参加しており、理由としては藩王国取りつぶし制度があります。1851年にナーナーの養父バージーが死去したのですが、彼に支給されていた年額80万ルピーの年金が取りつぶし制度によって打ち切られました。

相続を否定されたことから、ナーナーはイギリスに恨みを持つようになります。そうしてインド大反乱が勃発すると、ナーナーは1500の兵を率いてカーンプルを6月に占拠しました。

しかし同年の7月に奪い返されてしまい、再奪還を企てますが失敗してしまいます。

バハードゥル・シャー2世

バハードゥル・シャー2世。彼が最高指導者となったことにより反乱に正当性が生まれた

バハードゥル2世はムガル帝国の最後の皇帝です。とはいえ、バハードゥルが即位した頃にはムガル帝国の権力はデリー周辺のみとかなり狭い範囲にしか及びませんでした。

バハードゥル2世はインド大反乱において最高指導者として祭り上げられました。しかし、彼はあまり反乱に協力的でなく、9月にデリーが占拠されるとすぐに降伏してしまいます。

すぐに白旗をあげたとはいえ、反乱の最高指導者です。イギリスは反乱が終結した1858年にバハードゥル2世をミャンマーの首都ラングーン(昔の首都)へ追放し、ムガル帝国の歴史は終わりました。

インド大反乱の経過

インド大反乱の発生と拡大

インド北部の都市でシパーヒーが蜂起

イギリス人を優遇する政策などで高まった不満が銃についての噂で爆発した

1857年5月10日、インド北部の都市メーラトでイギリス東インド会社に所属するシパーヒーが蜂起し、インド大反乱が始まりました。

反乱部隊は翌日の5月11日に、近隣の都市デリーに到着します。そして現地にいたシパーヒー部隊を味方につけ、同じく駐留していたイギリス軍を倒し、デリーの占拠に成功します。

デリー占拠に成功したシパーヒーたちはムガル帝国の皇帝バハードゥル2世を反乱軍の最高指導者に据え、皇帝復権を宣言。イギリスを相手に戦争を開始します。

シパーヒーらの反乱をきっかけに反英勢力が一斉蜂起

民族闘争になったインド大反乱だったが、反乱に参加しないインド人もいた

シパーヒーらの反乱をきっかけに、イギリスに対して不満を募らせていた旧王侯や地主、農民ら反英勢力は身分も宗教の壁も超えて、一斉に蜂起しました。

カーンプルではナーナー・サーヒブと武将のターンティヤーが立ち上がり、ジャーンシーでは王妃ラクシュミーが、そしてビハールではクンワルが反乱に加わりました。各国の指導者らは兵を率い、イギリス軍に抵抗します。

最大の藩王国であり、前年に併合されたばかりのアワドは特に反乱の勢いが激しかったようです。

各国の指導者らが立ち上がったインド大反乱。このまま上手くいくように思われましたが、8月に入ると陰りが見え始めました。結論から言ってしまうと、まとまりがなかったのです。

インド国内で内紛がありました。またシパーヒーの多くは戦略を立て、指揮をとる経験がない者がほとんどでした。そのためデリーは反乱開始からわずか4ヵ月で占拠されてしまい、シパーヒーの反乱はそこで終結します。

しかし、デリーが占拠されても反乱自体は1858年6月まで続きました。

イギリスの反撃

政治的工作で多くの藩王国を味方に

兵力不足を政治的な手段と他国の傭兵によって補ったイギリス

各地へと反乱が伝播した頃、イギリス東インド会社はシパーヒーらが離脱したことによって兵力不足となっていました。そこでイギリス東インド会社は、周辺の民族や旧支配階級を懐柔するなどの政治的工作を行います。

結果、イギリス東インド会社は大半の藩王国を味方につけ、反乱の準備を整えました。また、ネパール王国のグルカ兵(ネパールの山岳民族で構成された戦闘集団)などの傭兵を雇い、反乱勢力へと攻勢を仕掛けます。

大反乱の舞台は地方へ

赤い部分が北インド。ピンクは北インドの影響が強い地域

無事デリーを奪い返したイギリス。大反乱の舞台はデリーから地方へと移りました。反乱はインド北部が中心となっており、カーンプルやアワド、ビハールを相手に戦闘が起こりました。

特にジャーンシーやグワーリヤルは激戦地として有名です。インドのジャンヌ・ダルクと呼ばれた王妃ラクシュミーは特に抵抗が激しく、イギリスは苦戦しました。結果、1年後の1858年6月まで戦闘が続きました。

インド大反乱の終息

1年ほどでインド大反乱は終わりを迎えた

インド大反乱はインド側の統率力不足が敗因の1つとして数えられますが、他にもあります。大きく分けると次の2つが挙げられます。

  • エンフィールド銃の大量配備
  • 残虐な処刑

エンフィールド銃の大量配備

エンフィールド銃

イギリスはインド大反乱で、新式のエンフィールド銃を大量配備します。エンフィールド銃は、反乱軍が使っていた銃よりも高い命中力と長い射程を持っていました。

そのため、イギリス軍は射程外から安全に反乱軍を圧倒することに成功しました。

残虐な処刑

ヴェレシチャーギンが1884年に描いた処刑の様子

イギリスは見せしめとして、捕虜となった反乱軍兵士を残虐な方法で処刑しました。

その方法とは、大砲の砲口に反乱軍兵士を縛りつけ、木製の砲弾を発射するというものです。弾の出口に縛りつけられているため、砲弾が発射されれば体が四散します。

想像するだけでも恐ろしいこの処刑は、恐怖で反乱軍と民衆の士気を挫く目的で行われました。

武装の差、統率力や政治力の違いにより反乱軍は各個撃破され、消滅してしまいます。しかし1859年まで、バフトやターンティヤーといったゲリラ勢力の抵抗は続きました。

インド大反乱の影響

わずか1年ほどで鎮圧されたインド大反乱ですが、この出来事はインドとイギリスに大きな影響を与えました。

インド

インドの国旗

インド大反乱は、後世インド独立のための一歩となった、重要な出来事と言えます。

インド大反乱はシパーヒーらの突発的な蜂起によって始まった戦いでした。東インド会社の植民地支配に対して、シパーヒーだけでなくインド各地の領主や農民が戦いに挑みましたが、組織的な連携が取れず、鎮圧されてしまいました。

しかしこの出来事はインド人たちの民族的な自覚を目覚めさせ、インドの反英闘争の大きな一歩となります。イギリスの統治は90年続きましたが、その間に国民会議派が結成。第一次世界大戦後のガンディー独立運動によって、1947年にイギリスの植民地支配が終わりました。

イギリス

大反乱以後、イギリスはインドを分割統治し、再び反乱が起こらないようにした

インド大反乱は、東インド会社の統治能力の限界をイギリス本国に認識させた出来事でした。

これを重くみたイギリス本国は、インド大反乱を鎮圧してすぐの1858年に東インド会社を解散。代わりにインド総督を頂点にした本国の官僚や軍隊を派遣し、イギリス政府自ら統治することにしました。

1877年にはヴィクトリア女王を皇帝に据えインド帝国を樹立します。イギリスはインド帝国を重要視し、1947年まで植民地支配を続けました。

また、反乱時に多くの藩王国がイギリスに対して敵対的、または非好意的だったためイギリスは藩王国を傀儡勢力として保護し、子どもがいなくても養子を取れば相続が認められるようにしました。

インド大反乱に関するまとめ

インド大反乱について紹介しましたが、いかがでしたか?最後に簡単にまとめます。

  • インド大反乱は1857年に、新式の銃に宗教上問題のある獣脂が使われているという噂がシパーヒーに流れたのがきっかけで起こった。
  • インド大反乱の背景には、イギリスによる藩王国の取りつぶし政策があった。

インド大反乱は、今まで民族としてバラバラだったインド目に民族意識を芽生えさせた、歴史的に重要な出来事です。結果として反乱は失敗に終わりましたが、これ以降インドはたびたび独立運動を起こします。

ここまで悪者のように扱ってしまいましたが、イギリスによる植民地化は後の世でインドの経済発展に良い影響を与えているものもあります。先進国との意思疎通に欠かせない英語や鉄道といったインフラは現代のインドをIT大国へと押し上げました。

一見悪影響しか与えていないような出来事でも、後々になって社会を良い方向へ促すこともあります。違った視点で歴史を見ると、こういった発見があるかもしれません。

歴史について興味が出てきた、という方はぜひ他の記事もご覧ください!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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