「インド大反乱ってどんな出来事?」
「インド大反乱が起こった原因は?」
「インド大反乱の全体像について簡単に知りたい」
この記事を読んでいるあなたはこのようなことを思っているのではないでしょうか。
インド大反乱とは、1857年に起きたインド人による反英運動です。当時インドはイギリスに支配されており、インド人はさまざまな不利益を被っていました。インド人が抱いていた不満は、東インド会社の傭兵が起こした反乱により爆発したのです。
本記事ではそんなインド大反乱について、わかりやすく解説します。原因や経過、重要人物、影響についても紹介しますので、ぜひ参考にしてください。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
インド大反乱とは
インド大反乱とは、東インド会社のインド人傭兵の反乱から、インド中に広まった反英運動です。東インド会社任せだったインドの統治を、イギリス本国の直接統治に転換させるきっかけとなりました。また、インド人による本格的な反英運動の出発点ともなった反乱です。
インド大反乱はいつ起きた?
インド大反乱は1857年5月10日に起こりました。詳しい理由については後述しますが、発端はイギリスがインドを植民地化し、現地の資源を吸い取ったことが背景にあります。結果的にインド国内は極端なインフレ状態に陥って混乱し、綿工業は衰退してしまいました。
この過程で権力や財産、働く場所を失ってしまった人々が階級問わず多く存在しました。そのため、ほとんどのインド人がイギリスに対する不安を募らせ、反乱へと発展したのです。
シパーヒーの乱とは?
実はインド大反乱と呼ばれているこの運動は、当初シパーヒーの乱と呼ばれていました。シパーヒーとは、インド人傭兵を表す言葉です。インド大反乱は、インド人傭兵がきっかけとなって起こったため、イギリスの支配者はシパーヒーの乱と名付けました。
しかし、イギリスの支配者がそう呼んだのには他にも理由があります。インド大反乱は結果的に、インド人という民族による反乱で、独立戦争でもありました。
イギリスは民族的な反乱であったことを隠したかったため、シパーヒーらによってたまたま起こった出来事であったと強調したかったのです。実際にはインド人の大半を含んだ反乱であったのに、シパーヒーの乱と呼んだのは、こういった事情があったからです。
セポイの乱とは?
セポイの乱も、インド大反乱を差す言葉です。セポイとはペルシャ語で兵士を意味する言葉で、やはりインド人傭兵が反乱を起こしたため、このような呼び方をされました。こちらは主に日本で表記された言葉です。
当初はシパーヒーとセポイ、それぞれの言葉で呼ばれていました。しかし最終的に反乱を起こしたのはシパーヒーだけでなく、領主から農民まで参加した民族的な運動だったことを考慮し、インド大反乱と現代で呼ばれるようになりました。
インド大反乱の背景と原因
藩王国の取り潰し政策
藩王国取りつぶし政策とは、後継者がいない国をイギリス領に併合する政策のことです。
インドの植民地化を進めていたイギリスは、インドの諸王国に対し次の2つの政策を用いていました。
- 従属を拒否した国を武力制圧
- 友好関係を結んだ国の保護国化
この2つのうち、藩王国の取りつぶし政策に関わるのが2つ目の保護国化です。イギリスは友好関係を結んだインドの国を「藩王国」として、一定の自治を認めました。
一見寛容に思える政策ですが上述したように、後継者のいない国をイギリス領に併合するという取り決めを作ってしまったのです。
有無をいわさないイギリスの態度に、多くのインド人が強く反発しました。特に北インド最大の藩王国であったアワド藩王国の取りつぶしはシパーヒーらの反感を買いました。なぜなら、東インド会社のシパーヒーの3分の1はアワド出身だったからです。
さらに、アワド藩王国に使えていた貴族や役人、商人は取りつぶしによって職を失い、彼らを相手にしていた商人や手工業者も路頭に迷うこととなったのです。階級を問わず、多くのインド人が反乱に参加したのにはこういった事情がありました。
牛のあぶらと豚のあぶらが塗られた包み
1857年、インド大反乱が起こる直前、彼らには新式のエンフィールド銃が支給されることになっていました。しかし、支給された銃について、宗教上の問題となる噂が流れたのです。
噂の内容は、弾の装填に使う薬包に牛脂と豚脂が塗られているというものでした。
弾丸を銃に装填するためには、牛脂と豚脂の使われた薬包の端を歯で噛み切らなければ装填できません。もし噂が本当であれば、それは宗教的にやってはならないことを犯すことになってしまいます。
というのも、東インド会社のインド人傭兵(以降シパーヒー)は大半がヒンドゥー教徒とイスラーム教徒だったのです。ヒンドゥー教にとって牛は神聖な動物であり、イスラーム教にとって豚は不浄な動物でした。
シパーヒーたちは、イギリス人がこれをキリスト教への改宗を迫る策略とみなし、弾丸の受け取りを拒否しましたが、これは懲罰の対象になりました。イギリス人の配慮に欠ける行いに、シパーヒーらは不信感を募らせ、ついにインド大反乱へと踏み切ったのです。
イギリスによって生活の糧を失い、尊厳すらも奪われたインド人たち。インド大反乱が起こるのも分かりますね。
インド大反乱の重要人物
ラクシュミー・バーイー
ラクシュミー・バーイーはインドの小さな藩王国の女王で、1857年にインド大反乱に加わった女性です。
なぜ女王である彼女がインド大反乱に加わったのか、それは前述した藩王国取りつぶし政策が理由でした。ラクシュミーは女王でしたが、子供がいませんでした。それを理由に、ラクシュミーの藩王国はイギリス領に併合されてしまったのです。
インド大反乱が起こるとラクシュミーは男たちと同じ格好をして反乱軍を指揮しました。最後までイギリスと戦ったラクシュミーでしたが、イギリス軍の総攻撃により、死去してしまいます。
志半ばで世を去ることになったラクシュミー。イギリスと最後まで戦った彼女の姿はインドのジャンヌ・ダルクと呼ばれ、今もなお人々の崇敬を集めています。
ナーナー・サーヒブ
ナーナー・サーヒブはマラーター王国の最後の宰相バージー・ラーオ2世の養子です。若い頃に武将のターンティヤーなど優秀な部下を集め、上述のラクシュミーともこの頃に知り合ったそうです。
インド大反乱にも参加しており、理由としては藩王国取りつぶし制度があります。1851年にナーナーの養父バージーが死去したのですが、彼に支給されていた年額80万ルピーの年金が取りつぶし制度によって打ち切られました。
相続を否定されたことから、ナーナーはイギリスに恨みを持つようになります。そうしてインド大反乱が勃発すると、ナーナーは1500の兵を率いてカーンプルを6月に占拠しました。
しかし同年の7月に奪い返されてしまい、再奪還を企てますが失敗してしまいます。
バハードゥル・シャー2世
バハードゥル2世はムガル帝国の最後の皇帝です。とはいえ、バハードゥルが即位した頃にはムガル帝国の権力はデリー周辺のみとかなり狭い範囲にしか及びませんでした。
バハードゥル2世はインド大反乱において最高指導者として祭り上げられました。しかし、彼はあまり反乱に協力的でなく、9月にデリーが占拠されるとすぐに降伏してしまいます。
すぐに白旗をあげたとはいえ、反乱の最高指導者です。イギリスは反乱が終結した1858年にバハードゥル2世をミャンマーの首都ラングーン(昔の首都)へ追放し、ムガル帝国の歴史は終わりました。