インド大反乱とは?なぜ起きた?【原因や重要人物、影響についてわかりやすく紹介】

インド大反乱の経過

インド大反乱の発生と拡大

インド北部の都市でシパーヒーが蜂起

イギリス人を優遇する政策などで高まった不満が銃についての噂で爆発した

1857年5月10日、インド北部の都市メーラトでイギリス東インド会社に所属するシパーヒーが蜂起し、インド大反乱が始まりました。

反乱部隊は翌日の5月11日に、近隣の都市デリーに到着します。そして現地にいたシパーヒー部隊を味方につけ、同じく駐留していたイギリス軍を倒し、デリーの占拠に成功します。

デリー占拠に成功したシパーヒーたちはムガル帝国の皇帝バハードゥル2世を反乱軍の最高指導者に据え、皇帝復権を宣言。イギリスを相手に戦争を開始します。

シパーヒーらの反乱をきっかけに反英勢力が一斉蜂起

民族闘争になったインド大反乱だったが、反乱に参加しないインド人もいた

シパーヒーらの反乱をきっかけに、イギリスに対して不満を募らせていた旧王侯や地主、農民ら反英勢力は身分も宗教の壁も超えて、一斉に蜂起しました。

カーンプルではナーナー・サーヒブと武将のターンティヤーが立ち上がり、ジャーンシーでは王妃ラクシュミーが、そしてビハールではクンワルが反乱に加わりました。各国の指導者らは兵を率い、イギリス軍に抵抗します。

最大の藩王国であり、前年に併合されたばかりのアワドは特に反乱の勢いが激しかったようです。

各国の指導者らが立ち上がったインド大反乱。このまま上手くいくように思われましたが、8月に入ると陰りが見え始めました。結論から言ってしまうと、まとまりがなかったのです。

インド国内で内紛がありました。またシパーヒーの多くは戦略を立て、指揮をとる経験がない者がほとんどでした。そのためデリーは反乱開始からわずか4ヵ月で占拠されてしまい、シパーヒーの反乱はそこで終結します。

しかし、デリーが占拠されても反乱自体は1858年6月まで続きました。

イギリスの反撃

政治的工作で多くの藩王国を味方に

兵力不足を政治的な手段と他国の傭兵によって補ったイギリス

各地へと反乱が伝播した頃、イギリス東インド会社はシパーヒーらが離脱したことによって兵力不足となっていました。そこでイギリス東インド会社は、周辺の民族や旧支配階級を懐柔するなどの政治的工作を行います。

結果、イギリス東インド会社は大半の藩王国を味方につけ、反乱の準備を整えました。また、ネパール王国のグルカ兵(ネパールの山岳民族で構成された戦闘集団)などの傭兵を雇い、反乱勢力へと攻勢を仕掛けます。

大反乱の舞台は地方へ

赤い部分が北インド。ピンクは北インドの影響が強い地域

無事デリーを奪い返したイギリス。大反乱の舞台はデリーから地方へと移りました。反乱はインド北部が中心となっており、カーンプルやアワド、ビハールを相手に戦闘が起こりました。

特にジャーンシーやグワーリヤルは激戦地として有名です。インドのジャンヌ・ダルクと呼ばれた王妃ラクシュミーは特に抵抗が激しく、イギリスは苦戦しました。結果、1年後の1858年6月まで戦闘が続きました。

インド大反乱の終息

1年ほどでインド大反乱は終わりを迎えた

インド大反乱はインド側の統率力不足が敗因の1つとして数えられますが、他にもあります。大きく分けると次の2つが挙げられます。

  • エンフィールド銃の大量配備
  • 残虐な処刑

エンフィールド銃の大量配備

エンフィールド銃

イギリスはインド大反乱で、新式のエンフィールド銃を大量配備します。エンフィールド銃は、反乱軍が使っていた銃よりも高い命中力と長い射程を持っていました。

そのため、イギリス軍は射程外から安全に反乱軍を圧倒することに成功しました。

残虐な処刑

ヴェレシチャーギンが1884年に描いた処刑の様子

イギリスは見せしめとして、捕虜となった反乱軍兵士を残虐な方法で処刑しました。

その方法とは、大砲の砲口に反乱軍兵士を縛りつけ、木製の砲弾を発射するというものです。弾の出口に縛りつけられているため、砲弾が発射されれば体が四散します。

想像するだけでも恐ろしいこの処刑は、恐怖で反乱軍と民衆の士気を挫く目的で行われました。

武装の差、統率力や政治力の違いにより反乱軍は各個撃破され、消滅してしまいます。しかし1859年まで、バフトやターンティヤーといったゲリラ勢力の抵抗は続きました。

インド大反乱の影響

わずか1年ほどで鎮圧されたインド大反乱ですが、この出来事はインドとイギリスに大きな影響を与えました。

インド

インドの国旗

インド大反乱は、後世インド独立のための一歩となった、重要な出来事と言えます。

インド大反乱はシパーヒーらの突発的な蜂起によって始まった戦いでした。東インド会社の植民地支配に対して、シパーヒーだけでなくインド各地の領主や農民が戦いに挑みましたが、組織的な連携が取れず、鎮圧されてしまいました。

しかしこの出来事はインド人たちの民族的な自覚を目覚めさせ、インドの反英闘争の大きな一歩となります。イギリスの統治は90年続きましたが、その間に国民会議派が結成。第一次世界大戦後のガンディー独立運動によって、1947年にイギリスの植民地支配が終わりました。

イギリス

大反乱以後、イギリスはインドを分割統治し、再び反乱が起こらないようにした

インド大反乱は、東インド会社の統治能力の限界をイギリス本国に認識させた出来事でした。

これを重くみたイギリス本国は、インド大反乱を鎮圧してすぐの1858年に東インド会社を解散。代わりにインド総督を頂点にした本国の官僚や軍隊を派遣し、イギリス政府自ら統治することにしました。

1877年にはヴィクトリア女王を皇帝に据えインド帝国を樹立します。イギリスはインド帝国を重要視し、1947年まで植民地支配を続けました。

また、反乱時に多くの藩王国がイギリスに対して敵対的、または非好意的だったためイギリスは藩王国を傀儡勢力として保護し、子どもがいなくても養子を取れば相続が認められるようにしました。

インド大反乱に関するまとめ

インド大反乱について紹介しましたが、いかがでしたか?最後に簡単にまとめます。

  • インド大反乱は1857年に、新式の銃に宗教上問題のある獣脂が使われているという噂がシパーヒーに流れたのがきっかけで起こった。
  • インド大反乱の背景には、イギリスによる藩王国の取りつぶし政策があった。

インド大反乱は、今まで民族としてバラバラだったインド目に民族意識を芽生えさせた、歴史的に重要な出来事です。結果として反乱は失敗に終わりましたが、これ以降インドはたびたび独立運動を起こします。

ここまで悪者のように扱ってしまいましたが、イギリスによる植民地化は後の世でインドの経済発展に良い影響を与えているものもあります。先進国との意思疎通に欠かせない英語や鉄道といったインフラは現代のインドをIT大国へと押し上げました。

一見悪影響しか与えていないような出来事でも、後々になって社会を良い方向へ促すこともあります。違った視点で歴史を見ると、こういった発見があるかもしれません。

歴史について興味が出てきた、という方はぜひ他の記事もご覧ください!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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