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米西戦争とは?なぜ起こった?【原因から結果、その後の影響までわかりやすく紹介】

米西戦争とは、アメリカ合衆国とスペインの間で起きた戦争です。大西洋を挟んで離れている両国の争いでしたが、アメリカ側にはスペインからの独立を目指すフィリピンやキューバの勢力も含まれていました。

アメリカ合衆国とスペインの間で起きた米西戦争

「米西戦争はなぜ起きたの?」
「米西戦争の原因やその後の影響を詳しく知りたい!」

この記事を見ているあなたはこのように思っているのではないでしょうか。そこで、米西戦争はなぜ起きたのか、また、米西戦争の原因やその後の影響などについて詳しく紹介していきます。

米西戦争の原因から結果、その後の影響まで迫っていきますので、ぜひ最後までご覧ください。

米西戦争とは

アメリカ合衆国とスペイン帝国による戦争

米西戦争とは、海外領土の拡大を目論むアメリカ合衆国と、15世紀から17世紀にかけて黄金時代を築き、「太陽の沈まない国」と呼ばれたスペイン帝国の間で発生した戦争です。

当時のアメリカ合衆国は、南北戦争の終結と奴隷解放宣言の発表により、国内の完全な分裂を回避した状況にありました。その後、鉄道網の発達と共に西部開拓時代が始まります。この時代に、アメリカ合衆国では鉄鋼業や石油業が繁栄し、経済の大きな発展を迎えたのです。

一方で、スペイン帝国は中南米やアジア、アフリカに植民地を保有し、世界中に領土を持つ大帝国へと成長しました。しかし、16世紀にスペインの無敵艦隊がイングランド海軍に敗北。植民地の支配は継続していましたが、海上覇権を握る史上最大の帝国の座はイギリスへと移っていました。

太陽の沈まない国と呼ばれたスペイン帝国の版図

米西戦争はいつ起きた?

米西戦争は1898年4月25日に始まり、同年の8月12日に終結しました。そして、同年の12月10日にはパリにおいて平和条約を締結することになります。

この時代、かつて大帝国を築いたスペイン帝国の国際的な地位は大きく下落し、スペイン帝国の支配下にあったキューバでは1868年から独立運動が起こっていました。同様に、フィリピンでも独立を目的とした闘争が発生していましたが、当時のスペイン帝国に植民地諸国の独立運動を抑える国力は残っていなかったのです。

アメリカ合衆国は、19世紀初頭にジェームズ・モンロー大統領が提唱したモンロー主義に従い、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を宣言していました。しかし、アメリカ合衆国の本当の狙いは、アメリカ大陸内での勢力拡大にあったのです。インディアンの掃討作戦が完了し、フロンティアの消滅を宣言したアメリカ合衆国は、太平洋へ進出していきます。

モンロー主義を提唱したアメリカ大統領ジェームズ・モンロー

米西戦争はどこで起きた?

1898年に勃発した米西戦争は、キューバのハバナ湾から始まり、フィリピンのマニラ湾、グアム島など、アメリカ大陸からアジア太平洋地域の広範囲を舞台に繰り広げられました。

米西戦争が行われた太平洋の地図

フィリピンで最初に起こった戦闘はマニラ湾海戦です。この戦いはアメリカ合衆国の完勝に終わり、スペインの太平洋艦隊は壊滅。アメリカ海軍がフィリピン周辺の制海権を掌握することになります。

また、キューバやプエルトリコでは海戦だけでなく、本土での戦いも巻き起こりました。この戦争で活躍した人物が、後にアメリカ合衆国大統領となり、中南米諸国に対して棍棒外交を展開したことで知られるセオドア・ルーズベルトです。

後にアメリカ大統領となったセオドア・ルーズベルト

米西戦争の原因

スペイン植民地による独立運動

米西戦争が勃発した原因の1つとして、スペイン帝国の植民地であるキューバやフィリピンにおいて独立運動が起こっていたことが挙げられます。

スペイン帝国はかつて黄金時代ともいわれ、世界中に植民地を持っていましたが、19世紀末にはその面影すら見られないほどに国力が弱体化していました。フィリピンやキューバ国内では革命家たちによってゲリラ戦争が展開されていましたが、衰退しつつあったスペイン帝国には反抗勢力に対抗する予算も人的資源も残っていなかったのです。

キューバ革命運動の指導者ホセ・マルティ

そこで、スペイン帝国は住民と独立軍を分断することで、キューバの独立運動に対する支援を滞らせる作戦に出ます。また、民衆に紛れている反逆者と疑わしい人々を次々と処刑していきました。

しかし、読者数を伸ばそうと企むアメリカの新聞は、スペインの分断作戦や処刑などの残虐行為を誇大に報道し、民衆の人道的感情を刺激したのです。その結果、アメリカ国民の間で反スペイン感情が高まり始めました。

アメリカ海軍が保有する戦艦の爆発事故

沈没するアメリカ海軍の戦艦メイン号

1898年2月15日、ハバナ湾に停泊していたアメリカ海軍の戦艦メイン号が爆発し、沈没する事故が発生しました。この事故により、アメリカ海軍は266人の乗組員を失ったのです。

その後、爆発の原因に関する決定的な証拠が無かったにもかかわらず、アメリカの主要メディアはこの爆発事故をスペインによる破壊工作であると報道しました。そして、アメリカ世論は戦争へと一気に傾いたのです。一方で、スペイン側は戦争に対して消極的な姿勢を見せていました。

その後、アメリカはキューバの自由と独立を求めた共同宣言を承認。スペインの撤退を要求するために、軍事力を行使することをキューバと約束します。その結果、スペインはアメリカとの外交関係を停止し、両国は交戦状態となりました。

米西戦争の結果

パリ条約締結

パリ条約とは、1898年にアメリカ合衆国とスペインの間で締結された米西戦争に関する平和条約です。米西戦争はアメリカ合衆国の勝利に終わり、アメリカ合衆国はこの条約において多くの利権を獲得することになります。

パリ条約の主な内容として、キューバの独立、フィリピン、グアム島、プエルトリコのアメリカへの割譲などがありました。また、フィリピンの割譲に対して、アメリカ合衆国はスペインに2,000万ドルを支払うことになります。

この条約により、アメリカ合衆国は成立以来初めて海外領土を保有することになりました。アメリカ帝国主義の始まりです。

スペイン帝国の崩壊

米西戦争の結果、大航海時代から繁栄してきたスペイン帝国は大きく衰退し、ヨーロッパからアジアにかけてスペインが築き上げてきた世界帝国の構図が崩壊へと向かいます。

パリ条約においてアメリカ合衆国は多くの利権を獲得しましたが、戦争に敗北したスペインは海外領土を失うことになりました。スペインにとって悲惨な結末となった米西戦争は、国内において大惨事を意味する「El Desastre」と呼ばれています。

そして、アメリカ合衆国はスペインに代わり太平洋広域に対して強い影響力を持つようになりました。その結果、アメリカ合衆国はヨーロッパの列強諸国と並ぶ国際的地位を獲得することになります。

アメリカ合衆国の国旗

米西戦争の影響

アメリカ合衆国内の変化

米西戦争が勃発した影響を受けて、アメリカ合衆国の北部と南部の関係が緩和しました。北部と南部は19世紀に起きた南北戦争によって、激しく対立していた過去を持っています。

スペインの存在は、1865年に終了した南北戦争以降に初めてできた、南北陣営にとって共通の敵です。米西戦争は北部と南部の政治家の結束を固める役割を果たしていたのです。

しかし、1890年代にアメリカ国内で起きた変化は良いことばかりではありませんでした。米西戦争において強い影響力を発揮した新聞などのメディアは、その後も事実報道よりも煽情的な報道で売り上げを伸ばすようになっていきます。また、国内では人種差別が再燃し、白人と黒人の分離が加速していきました。

当時設置されていた有色人種専用の水飲み場

キューバの独立

米西戦争後のパリ条約において独立が承認されたキューバは、1902年にキューバ共和国として独立を達成します。しかし、当時のアメリカ大統領であったセオドア・ルーズベルトは棍棒外交を展開し、キューバを始めとした中南米諸国に対して攻撃的な外交政策を展開していったのです。

セオドア・ルーズベルトが行った棍棒外交の風刺画

この時代のキューバ共和国は独立国でしたが、支配者がスペインからアメリカ合衆国に代わっただけであり、事実上アメリカ合衆国の保護国となっていました。また、キューバ国憲法に盛り込まれていたプラット修正条項には、アメリカ合衆国の内政干渉権や、キューバ国内にアメリカ合衆国の軍事基地を設置することなどが含まれていたのです。

その結果、キューバ共和国はアメリカ軍の管理下に置かれることになります。その後、数多くのアメリカ資本が流れ込み、キューバの資源産業はアメリカ企業によって支配されていきました。

米比戦争にまで至ったフィリピン

米比戦争とは、1899年に始まったアメリカ合衆国とフィリピンの間で行われた戦争です。米西戦争後にスペインの支配から脱したフィリピンでしたが、この戦争の後にアメリカ合衆国の植民地となってしまいます。

米西戦争の舞台ともなったフィリピンでは、キューバと同様に独立運動が行われていました。そこで、アメリカ合衆国はフィリピン独立運動の指導者であるエミリオ・アギナルドに対し、フィリピンの独立と引き換えにスペインとの戦いに協力するよう約束させます。

フィリピン独立運動の指導者エミリオ・アギナルド

しかし、アメリカ合衆国がエミリオ・アギナルドとの約束を守ることはなく、フィリピンを植民地とし、独立軍の掃討を開始しました。最終的に、フィリピン側は20万人から150万人もの犠牲者を出すことになったのです。

アメリカによるハワイ・グアムの領有

米西戦争後、アメリカ合衆国はハワイやグアムを領有し、スペインに代わって太平洋地域における影響力を高めました。

元々ハワイの真珠湾独占使用権を保有していたアメリカ合衆国は、米西戦争時にハワイを補給地として使用するために併合しました。それ以降、ハワイはアメリカ合衆国の太平洋上における軍事拠点となったのです。

アメリカ合衆国が軍事拠点としたハワイの真珠湾

スペインの植民地であったグアムは、米西戦争の後に調印されたパリ条約によって、アメリカ合衆国に割譲されました。アメリカ合衆国は現地の文化や風習を無視し、グアム植民地のアメリカ化を推し進めたのです。

現在はリゾート地として知られるグアム

米西戦争に関するまとめ

今回は米西戦争の歴史について解説しました。

米西戦争は、アメリカ合衆国がスペイン帝国を崩壊へと追い込み、新たな太平洋の支配者となる契機となった戦争でした。そして、太平洋上に展開されたアメリカ合衆国の軍事基地は、この後に起こる太平洋戦争において重要な拠点となるのです。

この記事では米西戦争の原因から結果、その後の影響まで紹介しましたが、その後のアメリカ合衆国が太平洋においてどのような歴史を築いていったのかについて詳しく調べてみるのも面白いでしょう。

それでは長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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