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アンネ・フランクの死因は?強制収容所の生活と共に最後の様子を紹介

アンネ・フランクの死因は何?」
アンネ・フランクの最後の様子はどうだったの?」

アンネ・フランクは「アンネの日記」の著書で有名なユダヤ系ドイツ人です。アンネの日記を読んだことがある人も、アンネが15歳という若さで亡くなったことは知っていても、どういった最後を迎えたのかを知らない人も多いと思います。

アンネ・フランク

アンネは「反ユダヤ主義」の被害者であり、多くのユダヤ人もアンネと同じように命を落としていきました。アンネの死から、現在の私たちに投げかけてくる人間の狂気を見ることができます。そこでこの記事では、アンネの死因を焦点に解説していきます。

アンネ・フランクの死因は何だったのか?

注意!

この記事では事実を正確にお伝えするために、残酷な表現や写真が登場します。苦手な方は次のトピックを見る等の自衛をお願いいたします。

アンネ・フランク

アンネ・フランクは、オランダの隠れ家でゲシュタポに逮捕されてから、ユダヤ人絶滅収容所の「アウシュビッツ強制収容所」に送られています。その後にベルゲン・ベルゼン強制収容所に送られて、そこで若干15歳で短い一生を終えました。アンネの死因は何だったのか?見ていきたいと思います。

発疹チフスにかかり死去

強制収容所内のバラック(このような所でアンネは生活していた)

アンネ・フランクの死因は「発疹チフス」です。発疹チフスは不衛生な地で多く見られる病気で、ユダヤ人強制収容所で非常に流行しました。衣服につくノミやシラミから媒体し、戦争や収容所などで流行することから「戦争熱」「飢饉熱」の別称があります。

そしてアンネが収監されたアウシュビッツのあるポーランドは歴史的に発疹チフスが流行する土地でした。発疹チフスの症状は、「発熱」「頭痛」「悪寒」「手足の疼痛」といわれています。また発疹が全身に現れるという特徴があり、精神錯乱も併発するといわれています。

全身に発疹がでる特徴がある

20代以下だと死亡率は5%未満と言われていますが、劣悪な環境と、栄養失調に犯されていたアンネは病魔に勝てなかったと推察されます。

アンネ・フランクの最後の様子

マルゴット・フランク

アンネ・フランクの最後の様子は、生存者の証言を元にある程度分かっています。アンネは姉のマルゴット・フランク(以降マルゴー)と共にベルゲン・ベルゼン強制収容所に収監されていました。アンネとマルゴーがアウシュビッツからベルゲン・ベルゼンに移送されたのは、アウシュビッツに迫ってきていたソ連軍からの「緊急退去」といわれています。

アンネとマルゴーは、アウシュビッツ以上に不潔な環境だったベルゲン・ベルゼンで体調を悪化させていきました。アンネとマルゴーは発疹チフスにかかり、先に姉のマルゴーが寝台から転落してそのまま意識が戻らずに死亡しました。その後にアンネもマルゴーの死に気を落とし、後を追うように翌日息を引き取ったといいます。赤十字の死亡日は3月31日となっていますが、実際は2月下旬から3月上旬くらいと推定されています。

生存者の証言の記録

ベルゲン・ベルゼン強制収容所の死体の様子

アンネ・フランクの収容所内の様子を、生存者の証言で知ることが出来ます。アンネを知る者の証言を紹介します。とある生存者はこのように証言しています。

「死体がいつも傍にある。寝床の上、バラック棟の間、道端にも死体が転がっていました。」
「アウシュヴィッツービルケナウでは人間が殺害されました 」「 ベルゲン・ベルゼンでは、ただ朽ちはてるにまかせたのです」
「 ベルゲン・ベルゼン強制収容所、それ自体が腐りかけている死体の山でした」

解放後のベルゲン・ベルゼン強制収容所の写真

そして、アンネの事を知る人は、

「 厳しい冬の日、アンネが最後の日を迎える少し前、アンネが毛布にくるまって私の前に立ちました。彼女は衣服についているシラミなどの小動物が非常に恐ろしかったので、衣服は全て捨てたと言いました 」
「彼女は残った最後の一枚の毛布にくるまっていました」
「私は、そこらじゅうから衣服を集めてアンネに渡しました」
「アンネに私たちのパンの割り当て分から少し与えました」
「アンネは、高熱で苦しむ姉のマルゴーを看病しながら言いました」
「マルゴーがよく眠っていれば、私も身体を休めることができるわ」
「翌日、寝棚から石床に落ちて危篤状態のマルゴーを見ながアンネが言いました」
「 二人で横たわって一緒に死ねればそれでいいの」
「翌日訪れた時、バラックの後方に放置された二人の亡骸を見つけました」
「マルゴーが死んた翌日にアンネも死んだのです」
「私たちは時間の概念を失っていたので、それは二日後だったかも知れません。でも死の三日前に、アンネが発疹チフスによるひどい不安と妄想の中で、全ての衣服を引きずりおろしたことは覚えています」
「痩せ細ったアンネとマルゴーの亡骸を、毛布でくるんであげました」
「それが私たちに出来る全てのことでした。すべては解放目前のことでした」

アンネ・フランク最後の7か月
アンネとマルゴーの墓(ベルゲン・ベルゼン強制収容所跡地)

アンネやマルゴーと一緒に収監されていたラーヒェル・ファン・アメロンヘンさんの証言によると、

「フランク家の二人の少女はひどく痩せ、顔にはポツポツと穴が開き、骨の上に皮膚があるだけでした。彼女らの寝る下段の棚は、バラックの中でも最悪の開閉ドアの傍らだったのでひどく凍えていました。いつも、「ドアをしめて」と悲痛な叫び声を出していましたが、いつしか声もか細くなり、やがて聞こえなくなりました。数日後、二人が他の人たちと一緒に死んでいるのを目撃しました」

痛みの強い皮膚病から疥癬に悩まされていた二人に、発疹チフスの症状が現れていたと証言しています。

アンネ・フランクは何によって殺害されたのか?

ナチ党とアドルフ・ヒトラー

アンネ・フランクの死因は発疹チフスです。しかしそれは結果であって、彼女を死に追いやったのは同じ人間が行った行動です。ドイツ国は第一次世界大戦の敗戦と多額の賠償金などで、心が追い詰められていました。そういう時にナチ党の「ユダヤ陰謀論」を聞き、ユダヤ人に憎悪を募らせるという「集団ヒステリー」の状態となりました。そして、恐ろしいシステムができあがってしまったのです。

ユダヤ人根絶の為に作られた強制収容所

アウシュビッツ強制収容所の選別の様子

ナチスが作った「ユダヤ人絶滅強制収容所」は、元々犯罪者を収監するための収容所を「ユダヤ人を絶滅させるため」に作り変えたものでした。通常の犯罪者と共に「ユダヤ人」という理由で収容されました。

ヨーロッパ中のユダヤ人を集めて収容所に送り、ガス室等で大量虐殺を行うのです。ガス殺を免れた人も軍需需要の奴隷労働者として、「労働を介した絶滅」を目的とした場所でした。「労働不能」とみなされた人は最初にガスで殺害され、「労働可能」とみなされた人も死ぬまで働かされたのです。

ベルゲン・ベルゼン強制収容所

ベルゲン・ベルゼン強制収容所の様子

ベルゲン・ベルゼン強制収容所は悪名高い、「アウシュビッツ強制収容所」よりも惨い収容所だったといわれています。アウシュビッツ強制収容所は生存者の話によると、「恐ろしく組織化された小綺麗な地獄」といわれていましたが、ベルゲン・ベルゼン強制収容所は不潔な収容所でした。

ベルゲン・ベルゼン強制収容所は、絶滅収容所ではなく病人や老人を集めた「休養収容所」だったといわれています。しかしその実態は非常に不衛生で医薬品も多くなく、伝染病が萬栄し恐ろしい死者数をだしています。死因として最も多かったのが食料不足による衰弱死、そしてその次が病死でした。アンネの死因の発疹チフス以外にも、結核・赤痢等も流行していたといいます。

劣悪な生活を強いられた

アウシュビッツの食事(ベルゲン・ベルゼンはもっと酷かったと推定される)

ベルゲン・ベルゼン強制収容所の不衛生さは凄まじく、バラックの中は常に糞尿にまみれていたといいます。病気になって動けなくなった人が多いためでした。そしてまた伝染病を誘発するという悪循環を招いていたといいます。

そしてドイツの敗戦が色濃くなってきた1945年ぐらいになると、元々少ない囚人の食事はなお減り続け、餓死と衰弱死を誘発されるような状況となっていました。アウシュビッツ強制収容所での食事を例を見ると、「朝食:約500ccのコーヒーと呼ばれる濁った飲み物(コーヒー豆から抽出されたものではない)。昼食:ほとんど具のないスープ。夕食:300gほどの黒パン、3グラムのマーガリンなど」とあります。

解放後にイギリス軍が撮影した餓死した囚人の写真

一日での食事量が極端に少ないのがわかります。ゲシュタポは死なない程度の最低限の食事しか与えず、ユダヤ人を強制労働させていました。ベルゲン・ベルゼンの正確な食事の資料は残っていませんが、衰弱死している人を見る限りこの食事より多くの食事を取っていたとは考えにくいです。

残忍な看守

死体の処理の様子を写真に取られたへスラー副所長

ベルゲン・ベルゼン強制収容所がイギリス軍によって解放された後、イギリス軍がドイツの看守たちに命じたことは多くの囚人の死体を埋葬することでした。副所長のへスラーは囚人にやつして身を隠していましたが、栄養状態が良いのですぐ見破られています。

また、ベルゲン・ベルゼンには恐ろしいことで有名なイルマ・グレーゼという女性看守がいました。乗馬用の鞭と革製の長靴で身を固め、女性ユダヤ人の囚人をいたぶったといいます。

イルマ・グレーゼ

彼女の罪状の例としては、400人の女性収容者を三日三晩部屋に閉じ込めて水も食料も与えずに、苦しみもがく収容者の姿を見て楽しんだり、大きな乳房を持つ成熟した女性を全裸にして鞭打ちして喜ぶ妙な癖があったといいます。前任地のアウシュビッツ・ビルケナウでは、人体実験やガス室送りの選別を手伝っていたようです。

これらの看守は1945年の9月に裁判が行われ、11人が絞首刑に処されました。その中にへスラー副所長やイルマ・グレーゼもいたそうです。

アンネ・フランクの死因に関するまとめ

いかがでしたでしょうか。アンネ・フランクという女性は公式には「病死」ですが、実際は劣悪な環境が彼女を殺したのです。強制収容所を見ていると、人はなぜ同じ人間にこんなに酷いことができるのかと思わず考えてしまいます。

ただし一つの救いは、アンネは日記の中に「私は死んでも生き続けたい」と書いていました。この夢は「アンネの日記」が後世で有名になることによって、収容所で名前を取り上げられ番号で呼ばれるようになった彼女が名前を取り戻すことが出来た大きな功績だと思います。この少女の死から何か感じとっていただけたら幸いに思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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