アンネ・フランクの死因は?強制収容所の生活と共に最後の様子を紹介

アンネ・フランクの死因は何?」
アンネ・フランクの最後の様子はどうだったの?」

アンネ・フランクは「アンネの日記」の著書で有名なユダヤ系ドイツ人です。アンネの日記を読んだことがある人も、アンネが15歳という若さで亡くなったことは知っていても、どういった最後を迎えたのかを知らない人も多いと思います。

アンネ・フランク

アンネは「反ユダヤ主義」の被害者であり、多くのユダヤ人もアンネと同じように命を落としていきました。アンネの死から、現在の私たちに投げかけてくる人間の狂気を見ることができます。そこでこの記事では、アンネの死因を焦点に解説していきます。

この記事を書いた人

フリーランスライター

高田 里美

フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。

アンネ・フランクの死因は何だったのか?

注意!

この記事では事実を正確にお伝えするために、残酷な表現や写真が登場します。苦手な方は次のトピックを見る等の自衛をお願いいたします。

アンネ・フランク

アンネ・フランクは、オランダの隠れ家でゲシュタポに逮捕されてから、ユダヤ人絶滅収容所の「アウシュビッツ強制収容所」に送られています。その後にベルゲン・ベルゼン強制収容所に送られて、そこで若干15歳で短い一生を終えました。アンネの死因は何だったのか?見ていきたいと思います。

発疹チフスにかかり死去

強制収容所内のバラック(このような所でアンネは生活していた)

アンネ・フランクの死因は「発疹チフス」です。発疹チフスは不衛生な地で多く見られる病気で、ユダヤ人強制収容所で非常に流行しました。衣服につくノミやシラミから媒体し、戦争や収容所などで流行することから「戦争熱」「飢饉熱」の別称があります。

そしてアンネが収監されたアウシュビッツのあるポーランドは歴史的に発疹チフスが流行する土地でした。発疹チフスの症状は、「発熱」「頭痛」「悪寒」「手足の疼痛」といわれています。また発疹が全身に現れるという特徴があり、精神錯乱も併発するといわれています。

全身に発疹がでる特徴がある

20代以下だと死亡率は5%未満と言われていますが、劣悪な環境と、栄養失調に犯されていたアンネは病魔に勝てなかったと推察されます。

アンネ・フランクの最後の様子

マルゴット・フランク

アンネ・フランクの最後の様子は、生存者の証言を元にある程度分かっています。アンネは姉のマルゴット・フランク(以降マルゴー)と共にベルゲン・ベルゼン強制収容所に収監されていました。アンネとマルゴーがアウシュビッツからベルゲン・ベルゼンに移送されたのは、アウシュビッツに迫ってきていたソ連軍からの「緊急退去」といわれています。

アンネとマルゴーは、アウシュビッツ以上に不潔な環境だったベルゲン・ベルゼンで体調を悪化させていきました。アンネとマルゴーは発疹チフスにかかり、先に姉のマルゴーが寝台から転落してそのまま意識が戻らずに死亡しました。その後にアンネもマルゴーの死に気を落とし、後を追うように翌日息を引き取ったといいます。赤十字の死亡日は3月31日となっていますが、実際は2月下旬から3月上旬くらいと推定されています。

生存者の証言の記録

ベルゲン・ベルゼン強制収容所の死体の様子
出典:Wikipedia

アンネ・フランクの収容所内の様子を、生存者の証言で知ることが出来ます。アンネを知る者の証言を紹介します。とある生存者はこのように証言しています。

「死体がいつも傍にある。寝床の上、バラック棟の間、道端にも死体が転がっていました。」
「アウシュヴィッツービルケナウでは人間が殺害されました 」「 ベルゲン・ベルゼンでは、ただ朽ちはてるにまかせたのです」
「 ベルゲン・ベルゼン強制収容所、それ自体が腐りかけている死体の山でした」

解放後のベルゲン・ベルゼン強制収容所の写真

そして、アンネの事を知る人は、

「 厳しい冬の日、アンネが最後の日を迎える少し前、アンネが毛布にくるまって私の前に立ちました。彼女は衣服についているシラミなどの小動物が非常に恐ろしかったので、衣服は全て捨てたと言いました 」
「彼女は残った最後の一枚の毛布にくるまっていました」
「私は、そこらじゅうから衣服を集めてアンネに渡しました」
「アンネに私たちのパンの割り当て分から少し与えました」
「アンネは、高熱で苦しむ姉のマルゴーを看病しながら言いました」
「マルゴーがよく眠っていれば、私も身体を休めることができるわ」
「翌日、寝棚から石床に落ちて危篤状態のマルゴーを見ながアンネが言いました」
「 二人で横たわって一緒に死ねればそれでいいの」
「翌日訪れた時、バラックの後方に放置された二人の亡骸を見つけました」
「マルゴーが死んた翌日にアンネも死んだのです」
「私たちは時間の概念を失っていたので、それは二日後だったかも知れません。でも死の三日前に、アンネが発疹チフスによるひどい不安と妄想の中で、全ての衣服を引きずりおろしたことは覚えています」
「痩せ細ったアンネとマルゴーの亡骸を、毛布でくるんであげました」
「それが私たちに出来る全てのことでした。すべては解放目前のことでした」

アンネ・フランク最後の7か月
アンネとマルゴーの墓(ベルゲン・ベルゼン強制収容所跡地)

アンネやマルゴーと一緒に収監されていたラーヒェル・ファン・アメロンヘンさんの証言によると、

「フランク家の二人の少女はひどく痩せ、顔にはポツポツと穴が開き、骨の上に皮膚があるだけでした。彼女らの寝る下段の棚は、バラックの中でも最悪の開閉ドアの傍らだったのでひどく凍えていました。いつも、「ドアをしめて」と悲痛な叫び声を出していましたが、いつしか声もか細くなり、やがて聞こえなくなりました。数日後、二人が他の人たちと一緒に死んでいるのを目撃しました」

痛みの強い皮膚病から疥癬に悩まされていた二人に、発疹チフスの症状が現れていたと証言しています。

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もう、こうなったら | 日本近世文学者「板坂耀子」

[…] 萩原葉子の『蕁麻の家』が友人の誰か(森茉莉じゃないよなあ)から、「じんまのいえ」を連想して身体がかゆくなると言われてたことだの、アウシュビッツで亡くなったアンネ・フランクとマルゴットの姉妹が最後は疥癬にかかって苦しんでいたことだの、いろいろ思い出しながらどうしようかと思っていたら、今日は幸いかなりよくなっていた。調べても原因不明のことが多いそうだから、病院に行くのはやめといた。 […]

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