アンネ・フランクの死因は?強制収容所の生活と共に最後の様子を紹介

アンネ・フランクは何によって殺害されたのか?

ナチ党とアドルフ・ヒトラー

アンネ・フランクの死因は発疹チフスです。しかしそれは結果であって、彼女を死に追いやったのは同じ人間が行った行動です。ドイツ国は第一次世界大戦の敗戦と多額の賠償金などで、心が追い詰められていました。そういう時にナチ党の「ユダヤ陰謀論」を聞き、ユダヤ人に憎悪を募らせるという「集団ヒステリー」の状態となりました。そして、恐ろしいシステムができあがってしまったのです。

ユダヤ人根絶の為に作られた強制収容所

アウシュビッツ強制収容所の選別の様子

ナチスが作った「ユダヤ人絶滅強制収容所」は、元々犯罪者を収監するための収容所を「ユダヤ人を絶滅させるため」に作り変えたものでした。通常の犯罪者と共に「ユダヤ人」という理由で収容されました。

ヨーロッパ中のユダヤ人を集めて収容所に送り、ガス室等で大量虐殺を行うのです。ガス殺を免れた人も軍需需要の奴隷労働者として、「労働を介した絶滅」を目的とした場所でした。「労働不能」とみなされた人は最初にガスで殺害され、「労働可能」とみなされた人も死ぬまで働かされたのです。

ベルゲン・ベルゼン強制収容所

ベルゲン・ベルゼン強制収容所の様子

ベルゲン・ベルゼン強制収容所は悪名高い、「アウシュビッツ強制収容所」よりも惨い収容所だったといわれています。アウシュビッツ強制収容所は生存者の話によると、「恐ろしく組織化された小綺麗な地獄」といわれていましたが、ベルゲン・ベルゼン強制収容所は不潔な収容所でした。

ベルゲン・ベルゼン強制収容所は、絶滅収容所ではなく病人や老人を集めた「休養収容所」だったといわれています。しかしその実態は非常に不衛生で医薬品も多くなく、伝染病が萬栄し恐ろしい死者数をだしています。死因として最も多かったのが食料不足による衰弱死、そしてその次が病死でした。アンネの死因の発疹チフス以外にも、結核・赤痢等も流行していたといいます。

劣悪な生活を強いられた

アウシュビッツの食事(ベルゲン・ベルゼンはもっと酷かったと推定される)

ベルゲン・ベルゼン強制収容所の不衛生さは凄まじく、バラックの中は常に糞尿にまみれていたといいます。病気になって動けなくなった人が多いためでした。そしてまた伝染病を誘発するという悪循環を招いていたといいます。

そしてドイツの敗戦が色濃くなってきた1945年ぐらいになると、元々少ない囚人の食事はなお減り続け、餓死と衰弱死を誘発されるような状況となっていました。アウシュビッツ強制収容所での食事を例を見ると、「朝食:約500ccのコーヒーと呼ばれる濁った飲み物(コーヒー豆から抽出されたものではない)。昼食:ほとんど具のないスープ。夕食:300gほどの黒パン、3グラムのマーガリンなど」とあります。

解放後にイギリス軍が撮影した餓死した囚人の写真

一日での食事量が極端に少ないのがわかります。ゲシュタポは死なない程度の最低限の食事しか与えず、ユダヤ人を強制労働させていました。ベルゲン・ベルゼンの正確な食事の資料は残っていませんが、衰弱死している人を見る限りこの食事より多くの食事を取っていたとは考えにくいです。

残忍な看守

死体の処理の様子を写真に取られたへスラー副所長

ベルゲン・ベルゼン強制収容所がイギリス軍によって解放された後、イギリス軍がドイツの看守たちに命じたことは多くの囚人の死体を埋葬することでした。副所長のへスラーは囚人にやつして身を隠していましたが、栄養状態が良いのですぐ見破られています。

また、ベルゲン・ベルゼンには恐ろしいことで有名なイルマ・グレーゼという女性看守がいました。乗馬用の鞭と革製の長靴で身を固め、女性ユダヤ人の囚人をいたぶったといいます。

イルマ・グレーゼ

彼女の罪状の例としては、400人の女性収容者を三日三晩部屋に閉じ込めて水も食料も与えずに、苦しみもがく収容者の姿を見て楽しんだり、大きな乳房を持つ成熟した女性を全裸にして鞭打ちして喜ぶ妙な癖があったといいます。前任地のアウシュビッツ・ビルケナウでは、人体実験やガス室送りの選別を手伝っていたようです。

これらの看守は1945年の9月に裁判が行われ、11人が絞首刑に処されました。その中にへスラー副所長やイルマ・グレーゼもいたそうです。

アンネ・フランクの死因に関するまとめ

いかがでしたでしょうか。アンネ・フランクという女性は公式には「病死」ですが、実際は劣悪な環境が彼女を殺したのです。強制収容所を見ていると、人はなぜ同じ人間にこんなに酷いことができるのかと思わず考えてしまいます。

ただし一つの救いは、アンネは日記の中に「私は死んでも生き続けたい」と書いていました。この夢は「アンネの日記」が後世で有名になることによって、収容所で名前を取り上げられ番号で呼ばれるようになった彼女が名前を取り戻すことが出来た大きな功績だと思います。この少女の死から何か感じとっていただけたら幸いに思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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