「日宋貿易ってどんな貿易?」
「日宋貿易と平清盛ってどんな関係?」
「日宋貿易の輸出入品や宋銭についてもっと知りたい」
この記事をご覧のあなたはそのような疑問を持っているのではないでしょうか?日宋貿易とは、日本と中国(宋)との間で行われた貿易のことです。
瀬戸内海を中心とする瀬戸内海に勢力を持っていた平清盛は宋との貿易を活発に行いました。この貿易で日本にもたらされた宋銭は日本の流通や経済を大きく発展させます。宋が滅んだあと、日本と元は戦いながらも貿易関係を維持します。
今回は日宋貿易とは何か、日宋貿易と平清盛との関係、日宋貿易の輸出入品、宋銭の流入が日本にもたらした影響、日宋貿易後の日中関係などについてまとめます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
日宋貿易とは
日宋貿易が行われた時代
日本と中国の宋の間で行われた日宋貿易は12世紀前半から13世紀後半のおよそ150年にわたって続きます。日本では794年から続く平安時代の末期にあたります。摂関政治が衰え、地方政治が乱れた時代でした。
土地や財産を守る必要から地方では武士が生まれ、貴族たちが武士の力を用い始めた時代でもあります。その結果、有力武士団として源氏と平氏が成長しました。特に、近畿地方より西側の西国に勢力基盤を持った伊勢平氏は瀬戸内海の水運と深いかかわりを持ちます。
中国では経済的な繁栄を遂げていた宋(北宋)が金の攻撃により領土の北半分を奪われ、中国南部に南宋を建国していました。南宋は金と和平を結んだ後、国内の開発に力を入れ、北宋に勝るとも劣らない経済発展を遂げました。
日宋貿易の頃の日本と中国
貿易に積極的だった平氏
平安後期から末期にかけて、日本各地で武士団が成長しました。なかでも、伊勢平氏は白河上皇、鳥羽上皇が展開した院政に協力することで急成長を遂げます。
1129年、平忠盛は中国地方南部の山陽道と紀伊や四国を範囲とする南海道の海賊討伐を命じられました。忠盛はこのチャンスを見事ものにし、伊勢平氏の勢力拡大に成功します。また、忠盛は1135年に瀬戸内海の海賊討伐を命じられ、これにも成功します。
忠盛は降伏した海賊を家人として組織化します。さらに忠盛は肥前国神崎荘で独自に日宋貿易に参入し舶来品を手に入れました。こうして手に入れた舶来品を院や摂関家に配ること伊勢平氏の社会的地位の向上を図ります。貿易ルートである瀬戸内海の治安維持と独自の日宋貿易を行う平氏は豊かな富を手に入れました。
世界屈指の経済力を誇る南宋
北宋が成功の変でほろんだ時、北宋の皇族の一人が中国南部に逃れ南宋を建国しました。北宋時代に比べ領土は大きく縮小しましたが、領土の中心となった江南地域は開発余地がありました。そのため、南宋は江南地域の土地を開拓し農業生産力をアップさせます。
農業生産力の向上で米などの穀物が「売るほど」収穫できるようになると、商工業や手工業も大きな発展を見せました。中でも、南宋の陶磁器は当時最高水準のもので輸出先からも高く評価されます。こうして、南宋は北宋以上に劣らない経済発展を遂げました。
平清盛が日宋貿易を推進
平清盛は平忠盛の子で、平氏の棟梁となった人物です。彼は崇徳上皇と後白河天皇が日本の支配権をめぐって争った保元の乱で後白河天皇に味方し、その勝利に貢献しました。これにより、播磨守と大宰大弐になります。
播磨守は現在の兵庫県南部を治める役職で、大宰大弐は日本の玄関口だった九州北部(大宰府や博多)を管轄する役職です。この2つの地域の支配権を得た平清盛は地の利を生かして父の忠盛以上に日宋貿易に力を注ぎます。
日宋貿易で繁栄した港
貿易の入り口となった博多
平清盛は大宰府のナンバー2で、実質的に大宰府を支配していた大宰大弐となると、現在の福岡市博多に人口の港を作りました。これが、博多港の始まりです。清盛がつくらせた人工港は「袖の湊」とよばれました。
港が整備されたことにより、陶磁器などを積んだ宋の商船が博多に来航するようになりました。これらの品物は「唐物」とよばれ、瀬戸内海航路を通じて畿内に運ばれます。また、清盛の子である重盛が博多の町に恩恵をもたらしたことへの感謝が博多どんたくの始まりだとされ、博多と平氏の強い結びつきを思い起こさせます。
清盛の死後も博多は発展をつづけました。そのため、元寇の時は元軍の攻撃目標とされ焼打ちされてしまいます。しかし、その後すぐに復興しました。そして室町時代になると全国で有名な港とされる「三津七湊(さんしんしちそう)の筆頭として全国に名をとどろかせます。
清盛が整備した大輪田泊
博多港が日本の玄関口なら、清盛がもう一つ整備した大輪田泊は畿内の玄関口ということができます。大輪田泊は現在の神戸市兵庫区につくられた港で、現在の神戸港のもととなりました。鎌倉時代には兵庫湊とよばれます。
大輪田泊は清盛が整備する前から「摂津五泊」の一つとして栄えていました。彼は大輪田泊の重要性に気づき、多額の資金を投じて大修築をおこないます。その修築のかなめとなったのが人工島の建設でした。この島を作ることで港を南東風から守ることができるようになります。
建設にあたって生まれた伝説の一つが、清盛が太陽を招き返したというものです。工事が佳境に入った時、ちょうど日没となってしまいました。これに対し、清盛は工事をもう少し続けさせるため太陽を招き返したというのです。
もう一つの伝説は、人口島建設がうまくいかなかったときに生まれます。人々は人柱を立てるよう清盛に進言しました。ところが、彼はこの意見を退け、かわりに一切経の書かせた石を沈めて基礎とします。そのため、人工島が経ヶ島とよばれるようになったというものです。似た伝説が広島県の音戸の瀬戸にも残されています。