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日宋貿易とは?いつどこで行われた?繁栄した港や輸出入品まで簡単に解説

「日宋貿易ってどんな貿易?」
「日宋貿易と平清盛ってどんな関係?」
「日宋貿易の輸出入品や宋銭についてもっと知りたい」

この記事をご覧のあなたはそのような疑問を持っているのではないでしょうか?日宋貿易とは、日本と中国(宋)との間で行われた貿易のことです。

瀬戸内海を中心とする瀬戸内海に勢力を持っていた平清盛は宋との貿易を活発に行いました。この貿易で日本にもたらされた宋銭は日本の流通や経済を大きく発展させます。宋が滅んだあと、日本と元は戦いながらも貿易関係を維持します。

今回は日宋貿易とは何か、日宋貿易と平清盛との関係、日宋貿易の輸出入品、宋銭の流入が日本にもたらした影響、日宋貿易後の日中関係などについてまとめます。

日宋貿易とは

日宋貿易が行われた時代

日本と中国の宋の間で行われた日宋貿易は12世紀前半から13世紀後半のおよそ150年にわたって続きます。日本では794年から続く平安時代の末期にあたります。摂関政治が衰え、地方政治が乱れた時代でした。

伊勢平氏の家紋である揚羽蝶

土地や財産を守る必要から地方では武士が生まれ、貴族たちが武士の力を用い始めた時代でもあります。その結果、有力武士団として源氏と平氏が成長しました。特に、近畿地方より西側の西国に勢力基盤を持った伊勢平氏は瀬戸内海の水運と深いかかわりを持ちます。

中国では経済的な繁栄を遂げていた宋(北宋)が金の攻撃により領土の北半分を奪われ、中国南部に南宋を建国していました。南宋は金と和平を結んだ後、国内の開発に力を入れ、北宋に勝るとも劣らない経済発展を遂げました。

日宋貿易の頃の日本と中国

貿易に積極的だった平氏

平安後期から末期にかけて、日本各地で武士団が成長しました。なかでも、伊勢平氏は白河上皇、鳥羽上皇が展開した院政に協力することで急成長を遂げます。

日宋貿易を開始した平忠盛

1129年、平忠盛は中国地方南部の山陽道と紀伊や四国を範囲とする南海道の海賊討伐を命じられました。忠盛はこのチャンスを見事ものにし、伊勢平氏の勢力拡大に成功します。また、忠盛は1135年に瀬戸内海の海賊討伐を命じられ、これにも成功します。

忠盛は降伏した海賊を家人として組織化します。さらに忠盛は肥前国神崎荘で独自に日宋貿易に参入し舶来品を手に入れました。こうして手に入れた舶来品を院や摂関家に配ること伊勢平氏の社会的地位の向上を図ります。貿易ルートである瀬戸内海の治安維持と独自の日宋貿易を行う平氏は豊かな富を手に入れました。

世界屈指の経済力を誇る南宋

南宋と周辺諸国の地図

北宋が成功の変でほろんだ時、北宋の皇族の一人が中国南部に逃れ南宋を建国しました。北宋時代に比べ領土は大きく縮小しましたが、領土の中心となった江南地域は開発余地がありました。そのため、南宋は江南地域の土地を開拓し農業生産力をアップさせます。

農業生産力の向上で米などの穀物が「売るほど」収穫できるようになると、商工業や手工業も大きな発展を見せました。中でも、南宋の陶磁器は当時最高水準のもので輸出先からも高く評価されます。こうして、南宋は北宋以上に劣らない経済発展を遂げました。

平清盛が日宋貿易を推進

日宋貿易を推進した平清盛

平清盛は平忠盛の子で、平氏の棟梁となった人物です。彼は崇徳上皇と後白河天皇が日本の支配権をめぐって争った保元の乱で後白河天皇に味方し、その勝利に貢献しました。これにより、播磨守と大宰大弐になります。

播磨守は現在の兵庫県南部を治める役職で、大宰大弐は日本の玄関口だった九州北部(大宰府や博多)を管轄する役職です。この2つの地域の支配権を得た平清盛は地の利を生かして父の忠盛以上に日宋貿易に力を注ぎます。

日宋貿易で繁栄した港

貿易の入り口となった博多

平清盛は大宰府のナンバー2で、実質的に大宰府を支配していた大宰大弐となると、現在の福岡市博多に人口の港を作りました。これが、博多港の始まりです。清盛がつくらせた人工港は「袖の湊」とよばれました。

博多どんたくで電飾飾りがつけられた電車

港が整備されたことにより、陶磁器などを積んだ宋の商船が博多に来航するようになりました。これらの品物は「物」とよばれ、瀬戸内海航路を通じて畿内に運ばれます。また、清盛の子である重盛が博多の町に恩恵をもたらしたことへの感謝が博多どんたくの始まりだとされ、博多と平氏の強い結びつきを思い起こさせます。

清盛の死後も博多は発展をつづけました。そのため、元寇の時は元軍の攻撃目標とされ焼打ちされてしまいます。しかし、その後すぐに復興しました。そして室町時代になると全国で有名な港とされる「三津七湊(さんしんしちそう)の筆頭として全国に名をとどろかせます。

清盛が整備した大輪田泊

博多港が日本の玄関口なら、清盛がもう一つ整備した大輪田泊は畿内の玄関口ということができます。大輪田泊は現在の神戸市兵庫区につくられた港で、現在の神戸港のもととなりました。鎌倉時代には兵庫湊とよばれます。

摂津五泊を設置したとされる行基

大輪田泊は清盛が整備する前から「摂津五泊」の一つとして栄えていました。彼は大輪田泊の重要性に気づき、多額の資金を投じて大修築をおこないます。その修築のかなめとなったのが人工島の建設でした。この島を作ることで港を南東風から守ることができるようになります。

太陽を招き返した平清盛を描いた月岡芳年の浮世絵

建設にあたって生まれた伝説の一つが、清盛が太陽を招き返したというものです。工事が佳境に入った時、ちょうど日没となってしまいました。これに対し、清盛は工事をもう少し続けさせるため太陽を招き返したというのです。

もう一つの伝説は、人口島建設がうまくいかなかったときに生まれます。人々は人柱を立てるよう清盛に進言しました。ところが、彼はこの意見を退け、かわりに一切経の書かせた石を沈めて基礎とします。そのため、人工島が経ヶ島とよばれるようになったというものです。似た伝説が広島県の音戸の瀬戸にも残されています。

日宋貿易の輸出入品

輸出品

日本から中国に輸出されたのは銅や金銀などの鉱産資源や周防(山口県)でとれる木材、硫黄、日本刀などです。鉱産資源のうち、銅は中国で作られる銅銭の原料となりました。日本刀は工芸品として価値が認められていたようです。

自然状態で硫黄が露出している知床硫黄山

硫黄は火薬の原料として中国に輸出されていました。中国では王朝末期の9世紀に火薬が発明され、硝石と硫黄、木炭粉を主原料とする黒色火薬が作られていました。国土の北半分を金に奪われ、硫黄の産出地を失った南宋は、硫黄資源が豊富な日本から輸入することで火薬を作ります。

輸入品

南宋時代に作られた龍泉窯の青磁

日本が中国から輸入したものの代表は陶磁器です。中国から輸入された陶磁器は「物」とよばれ、都の貴族たちに珍重されます。唐物の取引は日宋貿易を握っていた平氏に大きな富をもたらしました。

陶磁器以外の唐物としては中国特産の絹織物や書籍、文具、薬品、絵画などの美術品があります。どれも日宋貿易でしか手に入らない貴重品でした。そのため、唐物は上流階級ステータスを表す品物ともなります。

宋銭の流入と影響

日宋貿易で日本に最も大きなインパクトを与えた品物が宋銭でした。もともと、宋銭は日本で使用するためではなく、船のバランスを保つためのバラストとして船に積み込まれていました。輸出品の硫黄や銅、金銀などに比べ輸入品の陶磁器や絹織物が軽かったので、銅銭で船の重さを調整する必要があったからです。

鎌倉高徳院にある鎌倉大仏

バラストとして輸入された銅銭は、銭としてではなく鉱産資源の銅として再利用されます。銅銭を鋳つぶして作られたと考えられているのが鎌倉大仏です。なぜ、そのようにいえるかというと大仏の成分と宋銭の成分がほぼ一致したからです。

日本に輸入され、銭貨として流通した宋銭

平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて、各地で農業生産力や手工業生産力が向上すると、物々交換や絹を貨幣代わりに使う従来の取引では支障が出るようになりました。そこで、日本に大量に輸入されていた銅銭が貨幣として使用されるようになります。

朝廷は従来の形を守ろうと宋銭禁止令を出しますが、あまり効果がありませんでした。鎌倉時代から室町時代にかけて、年貢を宋銭や明銭で納める代銭納が盛んになります。こうして、宋銭は江戸幕府が独自の銅銭を鋳造するまで日本で流通する通貨となりました。

鎌倉時代の日中関係

日宋貿易をとりしきっていた平氏一門は源平合戦に敗れ、歴史の表舞台から姿を消します。しかし、日宋貿易は私貿易として継続しました。二度の元寇や南宋の滅亡など大事件が起きても日本と中国は関係を持ち続けます。

元寇

日本攻撃を命じた元の皇帝フビライ

モンゴル帝国(元)の第5代ハンとなったフビライは、南宋への攻撃を強化しました。この攻撃の最中、彼は日本に対し修好を求める使者を派遣しました。目的は南宋の背後にある日本との関係改善を行い、南宋攻撃を有利に進めるためでした。

ところが、鎌倉幕府は元の文章が高圧的で非礼であるとして返書を書かず無視する姿勢を取りました。フビライは朝鮮半島の高麗を屈服させると26,000の兵で日本を攻撃しました。この時、元軍が上陸したのが日宋貿易で栄えていた博多です。

文永の役を描いた『蒙古襲来絵詞』

鎌倉幕府は九州地方の御家人を動員し元軍に対抗しました。戦いは一日で終わり、元軍は速やかに引き上げます(文永の役)。元は南宋を完全に滅ぼすと、日本に対し降伏勧告の使者を派遣します。しかし、鎌倉幕府は使者を打ち首にして降伏しない姿勢を示しました。

1281年6月、フビライは合計14万にも及ぶ大軍で再び日本を攻めました。このことを予想していた鎌倉幕府は博多湾に防壁を築いていたため元軍は博多を攻め落とすことができません。そうこうしているうちに暴風が到来し元軍は壊滅的打撃を受け撤退しました。

建長寺船や天龍寺船の派遣

元寇後、日本と中国は正式な国交は結びませんでした。しかし、民間レベルでの貿易は継続します。鎌倉時代末期から南北朝時代初期にあたる14世紀前半、寺社の造営費用を得ることを目的とし、幕府が公認した貿易船が中国に派遣されていました。

建長寺船で再建された鎌倉の建長寺

これを寺社造営料唐船といいます。なかでも、建長寺船と天龍寺船が有名です。建長寺船は1325年に鎌倉幕府公認で派遣された民間の貿易船です。これは火災で建物を失った鎌倉の建長寺の造営費用を得るための貿易船でした。

天龍寺の大方丈と曹源池

もう一つの天龍寺船は、1339年に派遣された寺社造営唐船です。天龍寺は足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために立てた寺でした。その後、中国に新たに成立した明と室町幕府の間で日明貿易(勘合貿易)が行われると、寺社造営唐船は派遣されなくなります。

日宋貿易に関するまとめ

いかがでしたか?

今回は日宋貿易についてまとめました。日宋貿易とは平安時代末期から鎌倉時代にかけて行われた日本と宋(南宋)との貿易のことです。

日宋貿易の中心となったのは西国に勢力を広げた伊勢平氏でした。平清盛は、博多港や大輪田泊(神戸港)を整備して日宋貿易の振興に力を入れます。その結果、大量の銅銭が流入し、のちに日本の貨幣経済化の原動力となりました。

この記事を読んで日宋貿易とは何か、日宋貿易と平清盛との関係、日宋貿易の輸出入品、宋銭の流入が日本にもたらした影響、日宋貿易後の日中関係について「そうだったのか」と思っていただける時間を提供できたら幸いです。

長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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