日宋貿易とは?いつどこで行われた?繁栄した港や輸出入品まで簡単に解説

日宋貿易の輸出入品

輸出品

日本から中国に輸出されたのは銅や金銀などの鉱産資源や周防(山口県)でとれる木材、硫黄、日本刀などです。鉱産資源のうち、銅は中国で作られる銅銭の原料となりました。日本刀は工芸品として価値が認められていたようです。

自然状態で硫黄が露出している知床硫黄山

硫黄は火薬の原料として中国に輸出されていました。中国では唐王朝末期の9世紀に火薬が発明され、硝石と硫黄、木炭粉を主原料とする黒色火薬が作られていました。国土の北半分を金に奪われ、硫黄の産出地を失った南宋は、硫黄資源が豊富な日本から輸入することで火薬を作ります。

輸入品

南宋時代に作られた龍泉窯の青磁

日本が中国から輸入したものの代表は陶磁器です。中国から輸入された陶磁器は「唐物」とよばれ、都の貴族たちに珍重されます。唐物の取引は日宋貿易を握っていた平氏に大きな富をもたらしました。

陶磁器以外の唐物としては中国特産の絹織物や書籍、文具、薬品、絵画などの美術品があります。どれも日宋貿易でしか手に入らない貴重品でした。そのため、唐物は上流階級ステータスを表す品物ともなります。

宋銭の流入と影響

日宋貿易で日本に最も大きなインパクトを与えた品物が宋銭でした。もともと、宋銭は日本で使用するためではなく、船のバランスを保つためのバラストとして船に積み込まれていました。輸出品の硫黄や銅、金銀などに比べ輸入品の陶磁器や絹織物が軽かったので、銅銭で船の重さを調整する必要があったからです。

鎌倉高徳院にある鎌倉大仏

バラストとして輸入された銅銭は、銭としてではなく鉱産資源の銅として再利用されます。銅銭を鋳つぶして作られたと考えられているのが鎌倉大仏です。なぜ、そのようにいえるかというと大仏の成分と宋銭の成分がほぼ一致したからです。

日本に輸入され、銭貨として流通した宋銭
出典:Wikipedia

平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて、各地で農業生産力や手工業生産力が向上すると、物々交換や絹を貨幣代わりに使う従来の取引では支障が出るようになりました。そこで、日本に大量に輸入されていた銅銭が貨幣として使用されるようになります。

朝廷は従来の形を守ろうと宋銭禁止令を出しますが、あまり効果がありませんでした。鎌倉時代から室町時代にかけて、年貢を宋銭や明銭で納める代銭納が盛んになります。こうして、宋銭は江戸幕府が独自の銅銭を鋳造するまで日本で流通する通貨となりました。

鎌倉時代の日中関係

日宋貿易をとりしきっていた平氏一門は源平合戦に敗れ、歴史の表舞台から姿を消します。しかし、日宋貿易は私貿易として継続しました。二度の元寇や南宋の滅亡など大事件が起きても日本と中国は関係を持ち続けます。

元寇

日本攻撃を命じた元の皇帝フビライ

モンゴル帝国(元)の第5代ハンとなったフビライは、南宋への攻撃を強化しました。この攻撃の最中、彼は日本に対し修好を求める使者を派遣しました。目的は南宋の背後にある日本との関係改善を行い、南宋攻撃を有利に進めるためでした。

ところが、鎌倉幕府は元の文章が高圧的で非礼であるとして返書を書かず無視する姿勢を取りました。フビライは朝鮮半島の高麗を屈服させると26,000の兵で日本を攻撃しました。この時、元軍が上陸したのが日宋貿易で栄えていた博多です。

文永の役を描いた『蒙古襲来絵詞』

鎌倉幕府は九州地方の御家人を動員し元軍に対抗しました。戦いは一日で終わり、元軍は速やかに引き上げます(文永の役)。元は南宋を完全に滅ぼすと、日本に対し降伏勧告の使者を派遣します。しかし、鎌倉幕府は使者を打ち首にして降伏しない姿勢を示しました。

1281年6月、フビライは合計14万にも及ぶ大軍で再び日本を攻めました。このことを予想していた鎌倉幕府は博多湾に防壁を築いていたため元軍は博多を攻め落とすことができません。そうこうしているうちに暴風が到来し元軍は壊滅的打撃を受け撤退しました。

建長寺船や天龍寺船の派遣

元寇後、日本と中国は正式な国交は結びませんでした。しかし、民間レベルでの貿易は継続します。鎌倉時代末期から南北朝時代初期にあたる14世紀前半、寺社の造営費用を得ることを目的とし、幕府が公認した貿易船が中国に派遣されていました。

建長寺船で再建された鎌倉の建長寺

これを寺社造営料唐船といいます。なかでも、建長寺船と天龍寺船が有名です。建長寺船は1325年に鎌倉幕府公認で派遣された民間の貿易船です。これは火災で建物を失った鎌倉の建長寺の造営費用を得るための貿易船でした。

天龍寺の大方丈と曹源池

もう一つの天龍寺船は、1339年に派遣された寺社造営唐船です。天龍寺は足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために立てた寺でした。その後、中国に新たに成立した明と室町幕府の間で日明貿易(勘合貿易)が行われると、寺社造営唐船は派遣されなくなります。

日宋貿易に関するまとめ

いかがでしたか?

今回は日宋貿易についてまとめました。日宋貿易とは平安時代末期から鎌倉時代にかけて行われた日本と宋(南宋)との貿易のことです。

日宋貿易の中心となったのは西国に勢力を広げた伊勢平氏でした。平清盛は、博多港や大輪田泊(神戸港)を整備して日宋貿易の振興に力を入れます。その結果、大量の銅銭が流入し、のちに日本の貨幣経済化の原動力となりました。

この記事を読んで日宋貿易とは何か、日宋貿易と平清盛との関係、日宋貿易の輸出入品、宋銭の流入が日本にもたらした影響、日宋貿易後の日中関係について「そうだったのか」と思っていただける時間を提供できたら幸いです。

長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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