桔梗紋の使用者は他にもいた
桔梗紋=明智光秀のイメージが強いのですが、歴史上、桔梗紋を使用したのは光秀とその本家と言われる土岐氏だけではありません。私達がよく知る歴史上の人物も、実は桔梗紋を使用してたのではないかとする説があるのです。ここでは、2人の桔梗紋を使用したとされる人物についてご紹介します。
加藤清正と桔梗紋
まず最初に紹介するのは、戦国〜江戸時代にかけての大名・加藤清正です。肥後に本拠地を置き堅牢な熊本城を築城したほか、豊臣政権下でも手腕を発揮したことで知られています。
加藤清正が桔梗紋を用いたのは、定紋ではなく替紋としてでした。清正の定紋は「蛇の目」と言われるもので、白の大きな円の真ん中に黒の円が描かれたシンプルな家紋でした。替紋として桔梗紋を持っていたのです。これは公式の記録にも残っています。
しかし、何故か桔梗紋を使った人間はなぜか不運に見舞われます。清正にも毒殺説がありますが、本当の不運は清正死後。改易の憂き目にあい、加藤家は没落していったのです。
あの龍馬も使っていた?子孫という噂も?
桔梗紋の使用者は、光秀の時代の前後だけではありませんでした。その1人に、かの有名な幕末の英雄・坂本龍馬がいます。
坂本龍馬は明智光秀の子孫という噂があります。同じ桔梗紋を使っていたことと、龍馬の名字が光秀の居城であった近江坂本城と同じであることから、明治16年に発表されました。当時発表された内容は以下のとおりです。
坂本龍馬其人の来歴を尋るに其祖先は明智左馬之助光俊が一類にして江州坂本落城の砌り遁れて姓を坂本と改め一旦美濃国関ヶ原の辺にありしが其後故ありて土佐国に下り遂に移住て郷士となり今も家の紋処は桔梗を用ゆる…
しかしこの説は現在ではほぼ否定されています。そんな龍馬もまた、志半ばで暗殺されるという最期を遂げました。
光秀と江戸幕府にまつわる噂
明智光秀の家紋にまつわる噂は数多く、ここでは紹介しきれないほどあります。一般に桔梗紋使用者の最期は不運に見舞われることが多いのですが、この桔梗紋をめぐるひとつの噂があります。それはどのような噂なのでしょうか。詳しく見ていきましょう。
日光東照宮の桔梗紋
その噂の出どころは日光東照宮。言わずと知れた江戸幕府の創始者・徳川家康を祀る神社です。
その日光東照宮のある建物にあしらわれた家紋の中に、桔梗紋と思しきものがあるのです。徳川家にゆかりがあり、かつ日光東照宮建造に関わったとされる大名たちの家紋が並ぶ中に、です。当然、この当時明智家はすでに没落しています。
では一体誰が何のために桔梗紋があしらわれているのでしょうか。探っていくとある謎の人物に行き着きます。
南光坊天海という謎の人物
謎の人物とは、徳川家3代に仕えた高僧・南光坊天海。草創期の江戸幕府の体制づくりに尽力した人物ですが、実は彼が明智光秀ではなかったのかとされているのです。
天海の生い立ちから江戸幕府のブレーンとして登用されるまでの期間は謎に包まれています。彼にまつわる史料を紐解いていくと、生まれ年はほぼ光秀と同じであることがわかります。これだけなら単なる偶然に過ぎませんが、日光東照宮にある滝の見える崖に「明智平」と名付けたり、光秀の出自とされている美濃一帯の有力者を登用したりと裏付けとなりそうな理由がいくつかあります。
そもそも光秀は天王山の戦い以降、首実検を秀吉がしなかったため明確に死んだと証明されていません。もし彼が生きていたとしても何ら不思議ではないのです。
噂の真相はどうなのか?
天海の功労から、彼が持っていた明智の家紋である桔梗紋が、日光東照宮にあしらわれていたとしても何ら不思議ではありません。しかし、残念ながらこの噂は信憑性が低いとされています。
理由はいくつかありますが、家康が光秀を重用する理由がないことがもっとも力のある理由になります。光秀は、当時の家康の同盟相手である信長を倒した敵。到底自分の政権中枢に採用するような人間ではないでしょう。面識がなかったのなら正体を隠しとおせばいいのでまだわかりますが、本能寺の変の前から両者には面識があります。バレないわけはありません。そのため、光秀=天海説は多くの学者により否定されています。
そもそも日光東照宮の桔梗紋についても、違うものではないかとする説が有力です。よく似た別の家紋とする話もありますが真相は謎のままです。
明智光秀家紋に関するまとめ
明智光秀の家紋について、由来や種類・使用者から噂までご紹介しました。光秀の死後、裏切り者のレッテルを貼られてしまった桔梗紋は戦国大名や江戸時代の武士からも避けられるようになります。そのため、使用者が珍しいという理由でさまざまな噂の出どころになったのでしょう。数奇な運命をたどったのは光秀だけではないのでした。
では、長い時間お付き合いいただきありがとうございました!