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藤原道長とはどんな人?生涯・年表まとめ【摂関政治や和歌も紹介】

「藤原道長ってどんな人?」
「望月の歌をうたった人だよね?」
「自信家なイメージが強いな。」

藤原道長は平安期の政治家で、摂関政治の全盛を築いた人物です。藤原道長というと「望月の歌」を歌った自信家なイメージが強いですが、実は多方面に対して非常に優れた人物です。イメージ先行で好感度があまり高くないらしく、あまりどういった人物か知られていませんが、現在の私たちにも見習いたいところが多くあります。

藤原道長

藤原道長は非常に文化面に貢献のある人で、彼がいなかったら多くの古典文学作品が残っていなかっただろうといわれています。また政治家としても、政敵を容赦しない冷酷さも備えていますが、実は部下思いの一面も見せる上司だったのです。

この記事では従来のイメージを定着させる和歌の紹介や、藤原道長のイメージを覆すようなエピソードや功績などをご紹介します。この記事を読んだころにはきっと藤原道長の凄さを知っていただけると思います。

藤原道長とはどんな人物か

名前藤原道長
誕生日966年
没日1028年1月3日
生地京都
没地京都
配偶者孝司殿・高松殿・源簾子・源重光娘など
埋葬場所無量寿院

藤原道長の生涯をハイライト

紫式部日記絵巻の藤原道長

藤原道長の生涯をダイジェストします。

  • 966年:京都で生まれる
  • 980年:従五位下に処される
  • 986年:寛和の変が起こる
  • 986年:左大臣・源雅道娘の倫子と結婚する
  • 986年:源高明の娘、明子と結婚する
  • 995年:兄の道隆と道兼が死去し、内覧・右大臣に任じられる
  • 999年:娘彰子を入内させる
  • 1008年:彰子が皇子を出産する
  • 1016年:摂政に任じられる
  • 1017年:摂政と藤原氏長者を息子の頼通に譲る
  • 1018年:娘の威子が立后し、一家三后を成し遂げる
  • 1919年:病により出家する
  • 1028年:腫れ物により死去

道長が行った摂関政治とは?

非常に大きな権力を有していた藤原摂関家

藤原道長というと「摂関政治」の全盛を築いた人という認識を持たれています。しかし、実は藤原道長が関白に就任していません。摂関政治とは「摂政」+「関白」を行うことをいいます。

摂政とは、天皇が年少だったり女性だったりしたときに、代わりに政治を政治を行う役職で、「関白」は成人後も政治を補佐する役職です。関白への就任は道長は長く辞退していました。理由は左大臣という役職が、「人事決定権」があるからといいます。

内覧は陰の実力者だった

そして内覧という役職に付いて権力を持っていました。内覧は天皇に奉ずる文書や、天皇から発される文書に予め目を通すのが仕事でした。そして気に入らない意見書は握りつぶすことが可能なのです。

一方「摂政」「関白」は天皇に対する具体的な権限が無かったのですが、「人事」と「文書」を握っておくことで天皇に有利な立場になることを狙っていたと考えられています。藤原道長は「名より実を取る」で、摂政・関白にならずに、左大臣・内覧に留まっていたのです。

道長の歌「この世をば…」の意味は?

満月の空を見て有名な歌を詠んだ

藤原道長の歌というと、

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることの なしと思へば」

の歌が有名です。和歌の訳は、「この世は私の世のように感じてしまうよ、あの満月のように。何処も欠けているところがないのだから。」というものです。この歌は道長の邸宅で、一家三后が実現した日の夜に祝宴を開かれたときに読んでいます。

藤原実資は小右記を残している

この歌を聞いた藤原実資は丁重に返歌を辞退し、その代わりに一同がこの歌を詠うことを提案し一同は何度も詠ったと「小右記」に記されています。このエピソードは、道長の大胆不敵で自信家な一面が強く出たエピソードとして後年伝えられることとなりました。

藤原道長の性格が分かるエピソード

非常に自信家で負けん気の強い性格だった

望月の歌のイメージが先行する藤原道長ですが、もちろん非常に自信家で負けん気が強いところもあるけれども、部下に心遣いを見せることも出来る人物でした。そんな藤原道長の性格が分かるエピソードを紹介いたします。

伊周との弓比べの様子

兄道隆の邸宅で甥の伊周と弓比べとした

藤原道長は、後の政敵となる「藤原伊周」と弓比べをしています。時の関白は藤原道隆だったため、周りは伊周を勝たせようとするのですが、「わが娘が后になるなら当たれ。」と言って弓を射ると見事に命中し、伊周は外してしまいます。

続けて道長は「我が摂関に至らば当たれ。」と言って弓矢を射ると当たり、伊周はまた外してしまいます。これを見て兄道隆は喜ばず、弓比べを中止しました。その当時関白だった兄と、その甥のお披露目の時に顔を潰したのです。道長の並々ならぬ気概を感じてしまうエピソードです。

宴会の時に機転で場を収めたこと

平安時代の娯楽は宴会だった

道長は当時貴族の楽しみの一つだった宴会をよく開きました。宴会にはかつて政敵だった「藤原隆家」も招いたりしています。藤原道隆は気骨のある人物で、道長にもこびへつらわない人物でその為に場の空気を凍り付かせたりします。

そういう時には、道長自らが取りなし場を収めたりしています。反抗的な人物にも、叩き潰すわけではなく、うまく流して宴会を盛り上げる手腕を持っていました。このエピソードは、藤原道長がどんな人物でもうまく取りなして、部下の面倒見も良いのが分かるエピソードです。

藤原道長の死因は?

糖尿病は恐ろしい症状が出てくる

藤原道長は死の数日前に、背中に「大きな腫れ物」が出来死去したといいます。原因は癌、もしくは持病の糖尿病による感染症ではないかと考えられています。

藤原道長は記録に残る日本最古の糖尿病患者といわれています。道長は自身で日記をつけていましたが、そこに書かれている症状から「糖尿病」だと推定されています。内容は、

日記によると水を常に飲んでいたという
  • 喉が乾いて大量に水を飲む
  • 痩せてきて体力がなくなった
  • 目が見えなくなった
  • 背中に腫れ物が出来た

糖尿病は大量に水を飲むために平安時代は「飲水病」と呼ばれていました。平安時代の貴族は、朝廷の激務によるストレス・塩分の多い食事・室内暮らしの常に運動不足で糖尿病になりやすい環境でした。また、道長以外にも同じような症状で亡くなった親族もおり、遺伝もあったと考えられています。

藤原道長の功績

功績1「藤原摂関政治の全盛期を築いたこと」

藤原道長の孫「後一条天皇」

藤原道長自身は、僅かな期間しか摂政になっていませんが、間違いなく公家社会の全盛期を築いています。兄二人が関白になってからの、遅咲きの権力掌握でしたが、元々持っていたカリスマ性と天皇に嫁いだ娘が皇子を産むという幸運も重なり、「一家三后」を達成し「望月の歌」に現れる絶対的な権力を手に入れました。

この権力は、摂政の地位を一年で息子の頼通に受け継ぐ事により、道長の家の地位を不動の物とすることに成功しています。後には自身の孫が天皇に即位することにより、天皇の外戚として権力を掌握するという藤原家の手法を駆使して、3人の孫を天皇にすることに成功します。そして天皇の外戚として摂政となり、藤原氏が一番権力を持った時代を築くことになったのです。

功績2「多くの文学作品を残すことに貢献したこと」

紫式部と藤原道長

藤原道長は非常に文学を愛好した為に、紫式部や和泉式部などの女流文学者を擁護していました。また内裏の作文会に出席するばかりでなく、自邸でも作文会や歌会を行っています。紫式部のパトロン的な存在であり、「源氏物語」は書かれました。

定期的に紙を送ったりと、援護しています。現在「源氏物語」が日本最古の長編物語として残っているのも、藤原道長の尽力があったことも大きく関係しています。

功績3「才能がある人を見出し、重用したこと 」

和泉式部は娘彰子の女房をしていた

藤原道長は政治に関しては他者の追随を許さない性格でしたが、その他の文学などでは才能がある人物を積極的に支援しています。「和泉式部日記」を書いた和泉式部は、「恋多き女性」として藤原道長から行動の注意を受けています。しかしその一方で「その体験を日記にしてみてはどうか?」と勧められて日記を書き始めたと考えられているのです。

安倍晴明は道長のお抱え陰陽師だった

和泉式部のエピソードも、面倒見の良い道長の性格が伺えます。紫式部の「源氏物語」の執筆にも積極的に支援し、陰陽道でいうと安倍晴明を信頼し重用しました。これらの人物は、後世まで名を残す才能あふれる人物たちであり、藤原道長は能力を見抜き支援をしていたのです。

藤原道長の名言と和歌

藤原公任は歌人としても名高かった

「公任の影どころか面を踏んでやりますよ。」

父に対しての道長の返答です。父・兼家が息子3人に「藤原公任は頭が良い。官としての腕はあるし、学もあるし歌もうまい。お前たちはあの公任の影さえ踏めないだろう。」といいます。すると二人の兄はしょんぼりしている中、道長だけが気丈に答えたという鼻っ柱の強さが垣間見える発言です。

公任の便りを鶯に例えている

また「望月の歌」ばかり有名な藤原道長ですが趣味が「文学」という人でしたので、沢山の和歌を残しています。

谷の戸をとぢやはてつる鶯の待つに音せで春の暮れぬる

訳は「鶯はすっかり谷の戸をしめてしまったんだろうか。声を聴くのを楽しみにしていたのに、すっかり春も過ぎてしまったよ。」という意味です。昇進への不満に隠居してしまっていた藤原公任に送った歌といわれています。鶯を公任とし、自室に籠ってしまった公任の便りが無いといっています。

春の色の衣装は非常に煌びやかな物だったろう

衣花のたもとにぬぎかへよ我こそ春の色はたちつれ

訳は「私が贈った夏の美しい衣裳に着替えなさいよ。私の方といえば、花やかな春の色の服を着るのは、もうやめてしまったけれども。」という意味です。娘の彰子に送った歌で、自身は出家したので法衣を着ているための歌です。「たち」に着物を絶つと服を裁つを掛けています。

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