藤原道長にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「紫式部は愛人だった!?」
紫式部は藤原道長の愛人だったという噂が昔からあります。根拠は後世に書かれた「尊卑分脈」という史書に、紫式部のことを「源氏物語作者」「道長妾」と記されているためです。紫式部の主人が中宮彰子ですので、藤原道長は主人の父です。
そのような立場の場合、女房に手を付けるということは頻繁に行われていたことではあります。この時代は雇い主が女房に言い寄れば、拒否権は無かったのです。真実は分かりませんが、その可能性は十分にあるということと、昔から愛人関係と認知されていたことは分かっています。
都市伝説・武勇伝2「光源氏のモデルの一人だったこと」
世界最古の長編物語の「源氏物語」、その主人公「光源氏の君」のモデルの一人が藤原道長だったといわれています。光源氏の君は数ある貴公子をモデルにして、理想の男性として仕上げられた主人公です。藤原道長がモデルと考えられている部分は、「後宮戦略に勝って権力の頂点に立った」という点だといわれています。
都市伝説・武勇伝3「肝試しも平気だったらしい」
花山天皇の御代に、怖い話で盛り上がったらしく、藤原三兄弟で肝試しをしています。花山天皇が「こんな夜更けにはいくら君たちだって怖くていけないだろう。」というと、二人の兄は「行けません。」といって断りますが、道長だけが「どこへでも行けますよ。」と返答します。
花山天皇は3兄弟それぞれに場所を指定します。二人の兄は怖くて途中で引き返してきましたが、道長だけが予め天皇から小刀を借りていて、なんともない様子で戻ってきて「大極殿の高御倉の裾の方の木を削ってきました。」といって木片を持ってきたといいます。天皇は驚いて、明くる日に蔵人を遣わしして確認させるとぴったりと一致したそうです。道長の気の強さが分かるエピソードです。
藤原道長の生涯年表
966年 – 0歳「京都で誕生する」
966年に藤原北家の藤原兼家を父に、藤原時姫を母として誕生しました。父の兼家は高い身分の妻がいない人でしたが、5人の子供を産んだ時姫が正妻格扱いを受けています。同母兄には後に関白となる道隆・道兼、同母姉には後に皇太后になる超子・詮子がいます。藤原北家の中でも道長達の九条流という家は、天皇の外戚となっていた家系であり、生まれながらに出世が約束された家系でした。
980年 – 15歳「従五位下に叙される」
15歳で従五位下に初叙されています。その後兵衛を経て右兵衛権佐となりました。そして、984年には円融天皇は花山天皇に譲位し、東宮には詮子の産んだか懐仁親王が立てられています。これにより、父兼家の出世は確かなものとなったのです。
寛和の変が起こる
兼ねてより懐仁親王の即位を望んでいた父兼家は、寵妃を失った花山天皇に退位・出家をさせる事件が起きました。事の経緯は、藤原道兼の勧めで天皇は内裏を出て山科の元慶寺へ向かい、皇太子の居所・凝華舎に三種の神器を移し内裏を閉鎖した状態で出家させたのです。
花山天皇の外祖父だった藤原義懐がそのことを知ったのは、天皇が出家した後だったといいます。この事実を知った義懐は、自身の政治的敗北を悟り、側近と共に元慶寺で出家しました。この事件により、一条天皇が即位し、父兼家が摂政に就任しています。
987年 – 22歳「父兼家が摂政就任のおかげで順調に出世する」
父兼家の摂政就任により、兼家は息子たちを急速に出世させました。987年には従三位に叙され、左京大夫を兼ねました。翌年には参議を経ずに権中納言に抜粋されています。
この頃に左大臣源雅信の娘、源倫子と結婚し、988年には長女彰子が誕生しています。続いて安和の変で失脚していた左大臣・源光明の娘、源明子とも結婚しています。名家の娘と結婚したことは、後の道長に良い影響を及ぼしました。
兄、藤原道隆が摂政となる
990年に父兼家が死去し、長男の藤原道隆が関白、次いで摂政となりました。同じ年に父の喪中にも関わらず、兄道隆は娘定子を入内させており、道長は兄のやり方を良しとせずに中宮定子の元に参内せず世間で賞賛されたといいます。
994年には甥の藤原伊周が道長を凌いで内大臣に任じられており、道隆の後継者と擬されるようになります。しかし995年に兄道隆は、日頃の大酒が原因で亡くなり、道隆は伊周への関白就任を天皇に願い出てますが、却下されています。その後に、道長のもう一人の兄の藤原道兼が関白となりましたが、道兼は就任僅か数日で病死してしまい、「七日関白」と呼ばれました。
その後誰を後継者にするかの問題で、伊周は自らが関白と欲し天皇もその意志がありました。しかし道長は伊周が関白になると世が乱れると考え、一条天皇の母后・詮子も資質は道長が遥かに上であると認めており、涙ながらに助言した為に天皇は道長の登用を決めたといわれています。
内覧となり、藤原氏長者となる
藤原道長は内覧に任命され、藤原氏長者となりました。翌年に藤原伊周とその弟の隆家を、女性関係で花山上皇に矢を射かけた事件と詮子への呪詛などの罪状により、兄伊周は大宰帥、弟の隆家は出雲権守に左遷させ失脚させています。そして同じ年に道長は左大臣に任命されました。
999年 – 33歳「娘の彰子を一条天皇に入内させる」
道長は左大臣に就任後も、摂政への昇進を辞退し続け、内覧の地位を持ち続けました。そして999年に娘の彰子を一条天皇に入内させています。入内は盛大なものであり、調度品の中には参議源俊賢を介して公卿たちの和歌を募り、能書家の藤原行成が筆を入れた4尺の屏風絵がありました。
しかしこの入内は一帝二后という前例のない事であったために、反発も少なからずありました。しかし中宮の定子が兄二人が左遷になったときに出家しており、神事を行うことが出来ないなどの理由で半ば強引に入内させています。
1008年 – 42歳「彰子が皇子敦成親王を出産する」
入内10年目に娘の彰子が敦成親王を出産し、翌年にも皇子を出産しました。待望の孫親王の誕生により、藤原道長の狂喜の様子が「紫式部日記」に詳しく書かれています。
1011年 – 45歳「一条天皇が崩御し、三条天皇が即位する」
1011年に一条天皇が崩御し、後を次いで三条天皇が即位しました。「権記」によると、道長・彰子と一条天皇の仲は良好だったといいますが、後に書かれた「古事談」「愚管抄」によると、道長と彰子が一条天皇の遺品を整理している際に、「王が正しい政治をするを欲するに、讒臣一族が国を乱してしまう」という手書を見つけ、道長が怒って破いてしまったという記載があります。
しかしどちらも後年に書かれたものであり、平安同時期の記録には残っていないので信憑性が疑われています。ただし、そういう噂は流れていたのでしょう。一条天皇の崩御の際、定子が産んだ「淳康親王」を時期東宮にしたいと側近に相談していましたが、側近は彰子が母の「敦成親王」を東宮に擁立するように助言をしたり、彰子自身も敦成親王を強引に東宮にする父の強引さを恨んだといいます。
三条天皇に娘・妍子を入内させる
三条天皇即位の際に、関白就任への打診がありましたが辞退しています。そして1012年に藤原道長は次女の妍子を入内させ、中宮にします。三条天皇と道長は叔父・甥の関係でしたが、早くに母后・超子を失っていた三条天皇と道長との連帯意識は薄く、次第に仲が悪化していきました。そして妍子が内親王を出産したことが助長させたといいます。
次第に道長は三条天皇の眼病を理由に譲位を迫り、遂に天皇も屈し自らの皇子「敦明親王」を東宮にすることを条件に譲位しました。
1016年 – 50歳「道長の孫、後一条天皇が即位する」
1016年に三条天皇が譲位し、藤原道長の孫敦成親王が「後一条天皇」として即位しました。その時に約束通り敦明親王を東宮にしています。この時に道長は摂政に任じられました。しかし翌1017年には摂政と藤原氏長者を長男の頼通に譲っています。
同じ年に三条天皇が崩御すると、敦明親王は自ら東宮を辞しています。道長は代わりに淳明親王に「准太上天皇」の位を与えました。そして自身の孫の敦良親王を東宮としています。この時に太政大臣に任じられ、人臣の位を極めましたが、すぐに辞しています。太政大臣を引き受けた理由は、元服した後一条天皇の加冠の役を務めるためでした。天皇の元服をするのは太政大臣と決まっていたのです。
1018年 – 52歳「後一条天皇に三女の威子を入内させる」
1018年に後一条天皇に娘威子を入内させ、中宮にしています。これにより「一家三后」となり、祝宴の時に有名な「この世をば…」の歌を詠んでいます。この時の事は、自身の日記「御堂関白記」には記されていませんが、道長に批判的な藤原実資の日記「小右記」に記され後世に伝わることとなりました。
しかし翌年には、病により剃髪し出家しています。半年後に受戒されました。法名は行覚です。一線を退いた道長は法成寺の建立に心血を注ぎ込みました。道長はこの寺の造設により、自身の権威を知らしめる意図と同時に当時広まっていた「末法思想」の中で「極楽浄土」を願う人たちに仏の結縁を与えるという目的もあったといいます。
1028年 – 62歳「無量寿院で死去」
1028年に死去しました。享年62歳でした。死の原因は、背中にできた腫れ物で苦しんだといわれ、皮膚がんか持病の糖尿病による感染症と見られています。死期を悟った道長は法成寺の東の五大塔から東橋を渡ってさらに中島、さらに西橋を渡り、西の九体阿弥陀堂に入り九体の阿弥陀如来の手と自身の手に糸を繋ぎ、釈迦の涅槃と同様に北枕西向きに横たわりました。僧侶たちの読経の中自身も念仏を唱え、西方浄土を願いながら往生したといわれています。
藤原道長の関連作品
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藤原道長の過酷な政務や、部下を掌握する術が描かれた本です。今まで自信家な面ばかり強調されていた藤原道長のイメージを覆すおすすめの一冊です。現在の上に立つ人も参考になります。
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漫画で読める日本の歴史の藤原道長です。子供向けですが、大人が読んでも楽しめます。子供さんに歴史を触れさせるのに良い一冊です。
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藤原道長の自筆の「御堂関白記」を読み解いた一冊です。一般的なイメージの藤原道長像を見ることができます。批判的な内容が目立ちますが、色々な史書を見比べて書いてあるので、非常に読み応えがある一冊です。
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あの人は何を食べてきたか 第1回 藤原道長の「とっておき」
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おすすめドラマ
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源氏物語がどの様に作られたのかを描いたドキュメンタリーです。源氏物語が出来た経緯を語るには藤原道長は外せず、重要な役で出演しています。
関連外部リンク
藤原道長についてのまとめ
いかがでしたでしょうか?筆者は個人的に藤原道長が好きで、自信家のイメージだけでなく部下への配慮も優れていた面を記事にすることができて凄く嬉しく思っています。国風文化の中心にいた藤原道長を書いた史料や文学は多く、平安時代では多くの事が分かっている人物です。
確かに自信過剰で傲慢だったようですが、道長の日記を読んでいると職務に忠実で他の人に心配りをする部分も見えてきます。個性に合わせて、執筆を勧めたりすることは「個性を活かす」という事のさきがけのように感じました。そんな藤原道長の魅力を少しでも感じていただけたらこの上なく嬉しく思います。最後までお読みいただきありがとうございました。
わっる
まあね
道長が出家したのは1919じゃなく、1019ですか?
>NO NAMEさま
ご指摘ありがとうございます。
大変失礼いたしました。
修正致します。
よくわかりました\(^o^)/
道長のことをあまり良い人とはおもってなかったので
これから分かるようになって行こうと思います(笑)
ありがとうございました♡