ウィーン体制とは?背景や目的、崩壊の理由について詳しく紹介

ウィーン体制とは、絶対王政の復活と自由主義・ナショナリズムの抑制を目的とした、19世紀前半のヨーロッパにおける国際秩序です。

ウィーン体制下のヨーロッパの地図

「ウィーン体制とは何?」
「ウィーン体制の目的について詳しく知りたい!」

この記事を見ているあなたはこのように思っているのではないでしょうか。そこで、ウィーン体制とはどのような体制なのか、また、ウィーン体制の目的について詳しく紹介していきます。

ウィーン体制の目的から崩壊の理由まで迫っていきますので、ぜひ最後までご覧ください。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

ウィーン体制とは

ウィーン体制はいつ始まった?

ウィーン会議が行われたオーストリアの首都ウィーンの位置

ウィーン体制は、1814年から1815年に開かれたウィーン会議によって締結されたウィーン議定書に基づいて始まった国際秩序です。この体制は、19世紀の半ばに崩壊するまで続きます。

ウィーン会議とは、オスマン帝国を除く全ヨーロッパ各国の代表が、オーストリア帝国の首都であるウィーンに集結して開催された国際会議です。この会議は、オーストリアの外相であるメッテルニヒが議長を務め、ヨーロッパをフランス革命・ナポレオン戦争以前の体制に戻そうという正統主義を原則として始まりました。

しかし、各国の利害関係が衝突し、何か月経っても会議は前へと進まなかったため、「会議は踊る、されど進まず」と皮肉な評価をされていたのです。

その後、停滞していたウィーン会議は、イタリア半島の北西に位置するエルバ島に追放されていたはずのナポレオンが帰還したという報告を受けました。そして、これに危機感を抱いた各国の間において妥協が続々と成立し始め、今後のヨーロッパにおける国際秩序を定めるウィーン議定書が締結されたのです。

ウィーン会議の様子を描いた絵画

ウィーン体制の基本原則

勢力均衡

ウィーン体制を定めたウィーン会議において、重要視された基本原則の1つが「勢力均衡」です。

勢力均衡とは、ヨーロッパなど特定の地域における国際秩序を維持するために、各国間の軍事力を均等にすることで、大きな脅威が生まれないように抑圧する社会システムです。

この勢力均衡というシステムの起源は、17世紀に締結されたウェストファリア条約にあります。その後、ウィーン体制へ引き継がれることになった勢力均衡体制は、再び安全保障の主流となったのです。

正統主義

ウィーン体制におけるもう1つの基本原則が「正統主義」です。この正統主義は、フランス代表としてウィーン会議に参加した政治家のタレーランが提唱しました。

フランスの政治家タレーラン

正統主義とは、18世紀末に起こったフランス革命や、その後のナポレオン戦争の影響を受けて混沌としたヨーロッパ世界を、それ以前の絶対王政に戻そうという思想です。かつて各国を支配した正統な統治者を復活させ、旧体制の再現を目指しました。

しかし、ウィーン体制において従来の絶対王政が理想とされた結果、フランス革命をきっかけにヨーロッパ中に拡大された自由・平等の思想は抑圧され、国民主義的な運動をする民衆は弾圧されるようになったのです。

ウィーン体制の目的は?

ウィーン会議で定められた条約

ウィーン体制の目的は、大国同士による勢力均衡と正統主義を基本原則としたウィーン会議に基づいた、フランス革命とナポレオン戦争後のヨーロッパにおける国際秩序の再建にありました。また、ヨーロッパ諸国間の協調も目的の1つです。

しかし、ウィーン体制下における秩序再建の本質とは、フランス革命以前の絶対王政の時代に戻すということを指していたのです。フランス革命を発端とした一連の大きな時代の変化は、ヨーロッパ社会の秩序を大きく乱しました。そのため、ウィーン体制は保守反動体制とも言えるのです。

その結果、保守反動体制という本質を持つウィーン体制は、フランス革命やナポレオンの活躍の影響を受けて盛り上がったヨーロッパ諸国による自由主義やナショナリズムの台頭を抑圧する役割を担いました。

全ヨーロッパに自由主義を広めたナポレオン
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