ウィーン体制とは?背景や目的、崩壊の理由について詳しく紹介

ウィーン体制に関わった国

ウィーン体制は、国際会議の開催国であるオーストリアを中心に、ヨーロッパ中の多くの国家に影響を与えました。この体制下においては国家間の協調が重視されたため、特に主要国である列強諸国は関わらざるを得なかったのです。

ウィーン体制が敷かれた後、イギリス連合王国、オーストリア帝国、プロイセン王国、ロシア帝国が四国同盟を結成。この同盟は軍事同盟であり、フランス革命の再発防止やヨーロッパの国際秩序を安定させるためには武力行使も許されるという内容が定められていました。その後、フランスの復古王政が安定すると、四国同盟にフランス王国も加えられ、五国同盟となったのです。

また、ロシア皇帝アレクサンドル1世はオーストリア皇帝、プロイセン国王と共に神聖同盟を発足させます。神聖同盟とは、キリスト教的な正義・隣人愛の精神に基づいた君主の間による盟約であり、最終的にはローマ教皇、オスマン帝国皇帝、イギリス国王を除くすべてのヨーロッパの君主がこの同盟に参加しました。

神聖同盟を提唱したロシア皇帝アレクサンドル1世

ウィーン体制はなぜ崩壊した?

ウィーン体制は、各国内で発生していた抵抗運動や大国間における利害関係の複雑化などの影響を受け、自由主義・国民主義を抑圧する機能が維持できなくなった結果、崩壊してしまうことになります。

ウィーン体制崩壊のきっかけは1848年革命にありました。1848年革命は「諸国民の春」とも呼ばれており、その影響を受けて各大国の支配領域に先鋭化したナショナリズムが波及した結果、自由主義や国民主義の台頭を抑え込むことができなくなったのです。

また、ウィーン体制下では2つの基本原則を軸とする諸国間の協調が重要視されてきましたが、同盟国同士が自国の利益を追求するようになり、列強間の平和を維持することが困難な状況となっていました。その結果、イギリスとロシアの対立やナポレオン3世によるクーデターが発生し、最終的に大規模なクリミア戦争へと発展してしまいます。

フランス第2帝政の皇帝ナポレオン3世

ウィーン体制の背景

フランス革命

フランス革命当時の身分格差を描いた風刺画

フランス革命とは、権力を独占する貴族や聖職者が倒され、ブルジョワジーと呼ばれる商工業者や金融業者が権力を握ることになった、自由・平等・友愛を目的とした市民革命です。

この革命により、それまでの王政や旧体制は破壊され、封建的諸特権も撤廃されることになりました。そして、憲法が制定されて共和政も実現しましたが、新生のフランス共和国は革命の波及を恐れる周辺の大国による干渉戦争を受けることになります。

フランス革命戦争と呼ばれたこの干渉戦争において、対仏大同盟と戦って2度の勝利を収めたフランス革命政府は、国際的な承認と大幅な領土拡大を手にしました。また、この戦争で勝利に貢献し、最高権力を掌握するまでに至った人物が、後にフランス第一帝政下において皇帝となったナポレオン・ボナパルトだったのです。

ナポレオン戦争

フランス皇帝に即位するナポレオン・ボナパルト

ナポレオン戦争とは、1799年から1815年までの期間において、フランスの実権を握っていたナポレオン・ボナパルトが起こした対外戦争の総称です。

フランス革命後、軍人として活躍したナポレオン・ボナパルトは、フランス共和国において権力を掌握して軍事独裁政権を築いた後、国民投票により皇帝に即位しました。この期間に行われた一連の戦争において、強力な軍隊を率いたナポレオンは勝利を重ね、イギリス、ロシア、オスマン帝国を除くヨーロッパの大部分を支配したのです。

しかし、1812年に行われたロシア遠征での敗走を境に、ナポレオン率いるフランス軍は次第に劣勢へと追い込まれていきました。最終的に、対仏大同盟がパリを攻め落とし、ナポレオンは退位することになります。そして、ナポレオンがイタリア半島の北西に浮かぶエルバ島に追放された後、各国の代表が集結してウィーン会議が開催されたのです。

ウィーン体制の影響

ヨーロッパに到来した安定期

ウィーン会議後のヨーロッパの地図

勢力均衡と正統主義を基本原則として国際的な協調を目指したウィーン体制は、ヨーロッパの各国間に平和な時代をもたらしました。その安定期はおよそ30年に及んだのです。

18世紀末から19世紀初頭にかけて発生したフランス革命やナポレオン戦争は、既存の国際秩序を大きく乱しました。そして、新たに形成された国際秩序であるウィーン体制は反動で保守的な体制となり、各国が協調的な外交を展開して諸問題の解決に当たりました。その結果、ヨーロッパの国家間における戦争は激減し、外交上の安定期が到来したのです。

しかし、ウィーン体制の本質は、フランス革命をきっかけに全ヨーロッパへと拡大した自由主義・国民主義の思想を抑圧することにあったため、各国内における民衆の反感は次第に高まっていきました。

ウィーン体制下で起きた動揺

ウィーン体制は、各国間の争いを防いだ上で国際秩序の再建を実現しましたが、それと同時に、各国内ではナショナリズムに目覚めた民衆による抵抗運動が起きていました。

ナショナリズムとは、国家を自己の所属する民族の下に形成することを理想とした政治思想です。この思想に基づいた抵抗運動は、王政の抑圧から解放されたフランス革命をきっかけに全ヨーロッパに波及しました。その結果、自由と国民的統合を求める民衆は、自由主義とナショナリズムを抑制しようとするウィーン体制と真っ向から対立することになったのです。

そして、1830年にフランスの復古王政が七月革命によって倒されると、反乱は全ヨーロッパへと拡大。1848年には二月革命が発生し、フランスに第二共和政が成立します。その後、ベルリンとウィーンで三月革命が起こり、ウィーン体制の中心的存在であったメッテルニヒが失脚。そこへ各国間の利害関係の悪化も重なり、ウィーン体制は崩壊へと向かいました。

ウィーン体制を象徴する政治家メッテルニヒ

ウィーン体制に関するまとめ

今回はウィーン体制について解説しました。

ウィーン体制は、国際秩序の再建を目指して展開されましたが、最終的には自由主義とナショナリズムの台頭を抑えきれずに崩壊。その後、ヨーロッパの列強諸国は、自国の利益を追求する帝国主義時代へと突入していきます。

この記事ではウィーン体制について成立から崩壊まで紹介しましたが、その後展開された帝国主義時代について詳しく調べてみるのも面白いでしょう。

それでは長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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