「摂関政治ってどんな政治?」
「摂関政治と院政はどういう風に違うの?」
「摂関政治を簡単に知りたい」
平安時代の全盛時代に行われた政治形態である「摂関政治」。必ず覚えるワードであるのにも関わらず、どういった政治形態なのかはなんとなくしか分からない人が多いシステムです。摂関政治は藤原氏が権力を得るために考えられたものでした。
日本人の考え方を突いて的確に権力を掌握していった藤原一族の手腕は見事といえるでしょう。そんな「摂関政治」の始まりから終わりまでや院政との違いまで解説していきます。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
摂関政治とは?
「摂関政治」とは、藤原氏が「摂政」や「関白」となって政治を独占し続ける政治形態をいいます。藤原氏は自家の女性を次々に嫁がせて権力を拡大していきました。平安前期から平安中期まで200年以上藤原氏は「摂関政治」で権力を掌握し続けたのです。
摂政と関白はどんな役職?
そもそも「摂政」と「関白」はどういった役職なのかを見ていきます。摂政というのは、幼い天皇や病弱の天皇に代わって政治を行う役職です。この役職を最初に就任したのは「聖徳太子」です。天皇が女性であったために補佐として就いたのが始まりでした。近年では病弱な大正天皇の補佐として「裕仁親王(後の昭和天皇)」が摂政に就いています。
もう一方の「関白」は、成人した天皇をサポートするための役職です。関白に就任して有名なのは「豊臣秀吉」です。秀吉はこの関白の役職を利用して権力を持ちました。このように摂政・関白は天皇の補佐として非常に強い権力を持つ役職だったのです。
摂関政治の始まり
平安時代に藤原一族の権力を不動のものとした摂関政治とは、どの様に始まっていったのかを見ていきます。
藤原北家の台頭
平安時代初期に、藤原氏は「北家」「南家」「式家」「京家」とありましたが、この中で頭角を現したのが「藤原北家」でした。藤原北家の足がかりを作ったのが「藤原冬嗣」という人物で、才能と度量があり、温和な性格でもあったので天皇の信頼を得ることに成功し、左大臣まで昇進することに成功しています。
息子の藤原良房になると、自身の甥である「道康親王」を皇太子にたてることに成功し、道康親王が即位すると天皇の補佐のために摂政に任命されています。この形態が後の「摂関政治」に引き継がれることになりました。
独裁化が進む藤原北家
天皇の祖父となり、補佐をするという名目で「摂政」として任命されるようになった藤原氏は、多大な権力を持つようになります。その中でも特に権力を掌握したのが、藤原北家でした。藤原良房の時代に、「応天門の変」が起こり伴(大伴)氏など他家を失脚させることに成功します。
そして他家を排除した良房は、皇族以外で初の「摂政」に就任することができ、藤原氏の摂関政治が本格的にスタートすることとなりました。