摂関政治とは?全盛期から院政との違いまでわかりやすく簡単に解説

摂関政治の全盛期

藤原良房は皇族以外で初の摂政となった

藤原良房の時に「摂政」となることでスタートした「摂関政治」は子供たちに引き継がれ、力を強めていきました。全盛期がどのようなものだったのかを見ていきます。

藤原基経の政治

藤原基経は光孝天皇の「関白」に就任した

藤原良房の死後、息子の基経が藤原氏長者になりました。そして孫の陽成天皇の外祖父として摂政となっています。しかし陽成天皇は「狂気の君」といわれる天皇であり、内裏で家臣を手打ちにするという前代未聞の時代を起こしてしまい2年で退位したために、従妹に当たる光孝天皇を即位させています。この時に基経は「関白」に就任されました。この時に関白が政治を掌握するという流れも確立されたのです。

そして宇多天皇の御代に事件が起こります。光孝天皇の息子の宇多天皇が藤原基経を任命するときに、「阿衡」という「良い位に入るけど仕えない人」という言葉を使ってしまったのです。これに対して基経が大激怒し、全ての政務を停めてしまいました。これにより政務は停滞してしまいます。

宇多天皇は菅原道真を登用し藤原氏を抑え込もうとした

これに慌てた宇多天皇は、菅原道真に頼んで基経の怒りを鎮めることに成功しますが、この時に「天皇家はもう藤原氏に逆らえない」という構図が出来上がっていたことを示すこととなってしまいました。この事件は「阿衡の紛議」といいます。

昌泰の変

菅原道真は大宰府に左遷された

宇多天皇は藤原氏を外戚としない天皇でしたので、藤原氏一家の独裁を阻むために「菅原道真」を重用します。そして関白を置かずに親政を行い、この時期を「寛平の治」と後にいわれる政治体制を築きました。しかしやはり面白くない基経の息子の藤原時平がクーデターを起こします。

謀反の罪を菅原道真につけて、大宰権帥に左遷され失脚しました。この事件を「昌泰の変」といいます。この事件で藤原氏は勢力を取り戻しました。その後、藤原時平は死去しますが、弟の藤原忠平に引き継がれ、朱雀天皇の摂政に就任しています。

藤原道長が登場

藤原道長によって「摂関政治」の全盛期が築かれた

菅原道真失脚後も、藤原氏はライバルとなる一族を一族総出で追い落としていきます。当時左大臣に就任しており、藤原氏と脅威になりうる勢力のあった源高明を失脚させました。これを「安和の変」といいます。

この事件以降は藤原氏を脅かす一族はいなくなり、ほぼ天皇の外戚は藤原氏で占められることとなります。そしてその中でも藤原道長の時代が、もっとも藤原氏が栄えた時代となりました。藤原道長は関白藤原兼家の三男で最初は兄たちが活躍し、遅咲きでしたが兄たちが亡くなった後に権力争いに勝ち左大臣と氏長者に就任しています。

有名な「望月の歌」が詠まれる栄華を極めた

そして娘の彰子を一条天皇に入内させ、皇子の誕生により外戚になり、三条天皇と後一条天皇の時に摂政に就任しました。藤原道長はその後も娘を天皇に入内させ、「一家三后」を成し遂げたことにより有名な

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることの なしと思へば」

という有名な歌を詠う栄華を極めたのでした。

摂関政治と院政の違いは?

摂関政治と院政は混乱しやすい

摂関政治と院政の違いは何か?混乱しやすい体制ですが、簡単にいうと「摂関政治」は藤原家が娘を天皇に嫁がせてその天皇の後見人になるというシステムで、「院政」は上皇が「治天の君」となり天皇の後見人となるシステムです。

藤原道長が死去して息子の藤原頼通の時代になると、徐々に摂関政治に陰りが見え始めます。そして藤原氏と関係が薄い「白河天皇」が即位すると、白河天皇は藤原摂関家の勢力を抑えるために「院政」というシステムを作り上げました。

上皇が天皇を補佐するのが「院政」

そもそも院政とはどんなシステムかというと、摂関家が天皇の後見人となるのではなく、上皇がいる「院庁」が天皇を後見するというものです。上皇は「院庁」に院近臣を置き、「院庁下文」という命令書を発行していました。この命令書は天皇の命令よりも効力があったといいます。

摂関政治の衰退と院政の台頭

後三条天皇は天皇親政の政治を目指した

摂関政治が衰退するきっかけは「後三条天皇」の即位でした。後三条天皇の母は皇族出身であり、藤原氏を外戚としなかったのです。摂関政治の大前提は、娘を入内させて生まれた子供を天皇にするということでした。

しかし生物学的なことに依存する限り無理があり、限界がきてしまいました。そのような経緯で藤原摂関家を外戚としない天皇が久々に誕生したのです。藤原家との関りが薄い天皇は醍醐天皇以来、170年ぶりのできごとでした。

荘園整理令が発令される

政治腐敗の原因「荘園」にメスが入れられた

藤原氏を外戚としない後三条天皇は、桓武天皇を政治の手本とし藤原氏を重要な役職から外し、村上源氏などの他家を登用していきました。そして藤原氏を弱体化させた後に、「延久の荘園整理令」を発令しました。この政策で藤原氏も朝廷の断りがあるもの以外は没収されてしまったのです。

院政が始まる

白河天皇は初めての「治天の君」となった
出典:Wikipedia

後三条天皇が親政を行っていましたが、天皇は40歳という若さで崩御してしまいました。その後に白河天皇が即位しますが、最初は藤原氏と協力して政治を行っていました。そして白河天皇の在位中に、藤原師通と藤原師実が相次いで病死しています。こうして天皇は自ら政治を行いますが、8歳の堀川天皇に譲位をしてしまいました。

天皇ではなく上皇であれば私有財産が持て、身分的にかなり自由になるのが理由だったと考えられています。身軽な立場となり幼い天皇を補佐することを可能にしました。この立場は「治天の君」と呼ばれるようになり、摂関政治から院政へと時代は移り変わっていったのです。

摂関政治に関するまとめ

この度摂関政治を読み解くこととなり、改めて調べてみると一族間で勢力争いを行う藤原一族も、他家に対しては「恐ろしい程の一致団結」で追い落として「摂関政治」を築いたんだなという印象です。自らが王になるのでは無く、王の親戚になるという発想は「万世一系」を基にする天皇家の属性を大いに利用した日本の風土に合うシステムだと感心します。

しかし生物学的なものに依存するところも大きく、長続きは難しいシステムでもありました。そして摂関家を外戚としない天皇が誕生し、院政へと流れていってしまっています。そして武士の時代へ変わっていったというのも感慨深く感じます。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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