棟方志功(むなかた しこう)は、1903年生まれの版画家です。20世紀の美術を代表する世界的アーティストの1人で、「わだ(我)ばゴッホになる!」という名言でも知られています。
棟方の作品というと、ふっくらとした真っ赤な頬の女性像を思い浮かべる人も多いことでしょう。実は彼は自身が感動した詩や伝説を版画にしたり、仏像に感銘を受けて作品を彫ったりしています。棟方にかかると詩や伝説、仏像もエネルギッシュで目が離せなくなるような迫力のある作品に豹変します。
棟方志功は画家になることを決意して21歳のときに上京、最初は油絵を描いていたのですが版画と出会ったことから方向転換し版画の道を突き進みます。棟方は極度の近視で分厚い眼鏡をかけていましたが、版木を彫るときには画面に顔をくっつけて彫っていました。その勢いといえば凄まじく「火のついたように彫っていた」という証言もあるほどです。
棟方の作品を見ていると「好き」ということのパワーに目を開かされます。ゴッホに憧れ、版画に目覚め、さまざまな詩人の作品に惚れ込み…棟方は「好き!」という気持ちを原動力に版画街道をまっしぐらに突き進みました。彼の作品がエネルギッシュでパワーに満ちているのはその気持ちに由来すると筆者は考えています。
この記事では、エネルギーに溢れる棟方志功の作品に元気をもらっている筆者が、彼の作品や生涯についてご紹介していきます。
棟方は表記にこだわっていた人で、1942年以降自分の版画は「板画」、作品は「柵」と書くようにしていました。ですからこの記事でも、1942年より後の作品には「板画」という表記を使っていきたいと思います。この表記へのこだわりの理由は、後ほど詳しくご紹介しますので楽しみにしていてください。
棟方志功とはどんな人物か
名前 | 棟方志功 |
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誕生日 | 1903年9月5日 |
没日 | 1975年9月13日(享年72歳) |
生地 | 青森県青森市 |
没地 | 東京都 |
配偶者 | 棟方チヤ |
埋葬場所 | 青森市三内霊園 |
棟方志功の生涯をハイライト
棟方志功は1903年、青森県青森市に生まれました。実家は鍛冶屋で、志功は15人兄弟の6番目で三男です。小さいころから美しいものに心惹かれる性分で、絵も得意な子どもだったといいます。
小学校を卒業してしばらくは実家の鍛冶屋で修行をしていたのですが、やがて裁判所の給仕の仕事を始めます。このころから街中で写生に励む棟方の姿が見られるようになりました。18歳の時にゴッホ「ひまわり」と出会い、油絵画家を志すようになります。
21歳で上京、展覧会に出品しますがなかなか受賞することはできませんでした。しかし徐々に版画へと興味が移っていき、33歳のときに版画『大和し美し版画巻』を出品したところ民芸運動家・柳宗悦らの目にとまります。棟方はここから仏教的な作品も制作するようになります。
35歳のときに『善知鳥版画巻』で初の特選受賞、ここから快進撃が始まります。1945年には富山に疎開、空襲で自宅や板木が燃えたこともありましたが、終戦後は海外の展覧会にも出品しました。特に1955年のサンパウロ・ビエンナーレでは最高賞を、1956年のヴェネチア・ビエンナーレでは国際版画大賞を受賞しています。
57歳ごろには眼病が悪化し、左目が失明してしまいましたが見えている右目で作品を作り続けました。海外での個展も多数開かれ、旅先に着想を得た作品も多く作っています。1975年、肝臓癌によって72歳で亡くなるまで「板画」の道を突き進み続けました。
小さいころから眼病を患っていた
棟方志功は極度に近視で、いつも瓶底のような分厚い眼鏡をかけてかじりつくように板木を彫っていました。この近視は小さいころ、囲炉裏の煤が目に入りやすい環境だったことからきているといわれています。小学校卒業後、裁判所の給仕として働き始めるまでは裸眼で過ごしていたようで、知人から眼鏡を譲られたときには世界の明るさに驚いたといいます。
57歳のときに左目が完全に失明し、右目のみ見える状態で板木を彫っていきました。それでも1970年、70歳で文化勲章を受勲したときには板画への情熱冷めやらぬこのようなコメントを出しています。
僕になんかくるはずのない勲章を頂いたのは、これから仕事をしろというご命令だと思っております。片目は完全に見えませんが、まだ片目が残っています。これが見えなくなるまで、精一杯仕事をします
1930年に結婚し4人の子供をもうけた
棟方志功は1930年、実家近くの善知鳥神社で赤城チヤと結婚式を挙げました。実はこのとき棟方は東京で仲間たちと共同生活を送っていて、とても新妻と一緒に上京できる状態ではありませんでした。そのためチヤは2年間青森で待ち、1932年に晴れて上京しました。
2人の間には2男2女、4人の子供がいます。このうち次男の棟方令明は、鎌倉市にあった棟方版画美術館の館長を務めていました。この美術館には多くの棟方作品が展示されていたのですが、2010年に青森市棟方志功記念館と合併したため閉館となりました。
ゴッホ『ひまわり』との運命的な出会い
棟方志功がゴッホを知ったのは、文芸誌『白樺』に掲載されていた『ひまわり』を見たときでした。その燃えるような筆致に魅せられた棟方は「わだばゴッホになる」と言い、油絵画家になることを決意します。一説には棟方は「ゴッホ」という言葉を「油絵」という意味だと思っていた、という話もあるほどまだこのころは油絵について何も知らない状態でした。
東京に出て油絵を展覧会に出品するのですが、なかなか入選しない状態が続きました。ある日、版画の展示を見ていたときに棟方は「ゴッホだって日本の浮世絵を勉強している!」と気がつきます。日本独自のことをやりたいと思っていた棟方にとって、浮世絵=版画が自分の尊敬するゴッホと結びついたのは天啓のようなひらめきでした。
棟方は油絵の制作と並行して版画を刷るようになります。
柳宗悦ら民芸運動家との出会い
1936年、『大和し美し版画巻』という7メートルもの長大な作品を国画会展に持ち込んだとき、棟方は柳宗悦ら民芸運動家と出会います。「民芸運動」とは、暮らしの中で日常的に使われてきた手仕事による日用品に「用の美」を見出して活用するという日本独自の運動です。柳はその代表的人物で、棟方と出会ったとき新しく開館する日本民藝館に展示する作品を探していました。
棟方の『大和し美し版画巻』は柳らに買い取られ、日本民藝館に展示されることになりました。ここから棟方は「民芸」の道に入っていくことになります。
柳らは棟方に仏教や禅を教え、作品にもアドバイスをしました。棟方の板画は紙の裏側から色がつけられているのですが、この「裏彩色」という技法を提案したのも柳です。棟方と柳の交流は柳が亡くなるまで続きました。
棟方志功の作品
大和し美し版画巻(1936年)
「大和し美し版画巻」は詩人・佐藤一英の詩『大和し美し』を棟方が版画にしたものです。この詩は『古事記』のヤマトタケルノミコトの一代記を描いたもので、棟方は3年がかりで全長7メートルもの作品に仕立てました。文字と絵が渾然一体となって迫ってくる画面はすごい迫力です。
善知鳥版画巻(1938年)
「善知鳥(ウトウ)」は北の方に生息している海鳥で、その捕まえにくさが描かれた伝説は謡曲にもなっています。棟方は自身の後援者からその伝説や謡曲について聞き、大きな感銘を受けて作品化しました。この作品は第2回新文展で特選を受賞し、棟方の名を世に知らしめるきっかけとなりました。
二菩薩釈迦十大弟子(1939年)
国内の展覧会をはじめ、1955年のサンパウロビエンナーレで版画部門最高賞を、1956年のベネチアビエンナーレでは国際版画大賞を受賞した作品です。東京・上野の博物館で見た興福寺の仏像に着想を得て、1年半の構想の後に1週間で彫り上げました。縦1メートルほどの版木を12枚、1週間で彫ったのですからそのスピードと集中力のほどがわかります。
門世の柵(1968年)
棟方志功といえば、このようなふっくらとした赤い頬の女性像を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか?タイトルの「門世」は棟方の造語で、四隅の「東西南北」の文字を門に見立ててつけられたものです。釈迦の「四門出遊」のエピソードを連想させるタイトルとなっています。
棟方志功の功績
功績1「日本の木版画の発展に貢献」
棟方志功が版画の世界で活躍を始める前、日本の近代画壇では版画は油絵より少し芸術性が劣るものとされていました。21歳で上京して油絵を描いていた棟方は「油絵だってヨーロッパの真似事だ」「日本独自の仕事がしたい」と考えるようになります。そこで出会ったのが版画でした。
棟方は自分が感動した詩や伝説を迫力たっぷりの板画にしたり、民芸運動の影響を受けた後は仏教のモチーフを板画化したりしました。晩年に書いた自伝には『板極道』というタイトルをつけるほど、板画の道を突き進んだ結果、日本の画壇での版画の地位は向上しました。
功績2「エネルギーのほとばしる作風で世界的に活躍」
結果的に日本画壇でも版画の芸術性は認められるようになったのですが、棟方の作品をより認めてくれたのはむしろ世界の方でした。1951年ごろから棟方は国際展にも出品するようになります。1952年には、スイスで催された第2回ルガノ国際版画展で日本人で初めての優秀賞を受章しています。
その後、サンパウロやヴェネチアでのビエンナーレで最高賞や国際版画大賞を受賞したり、海外での個展も増えていきました。アメリカで公開制作や講演をしたときには、その迫力に「通訳がなくても伝わる」と観覧者から言われたといいます。言語を超えて伝わるものが棟方の作品にはありました。
功績3「日本的なものを超え『原始の美』にたどり着く」
「海外で棟方の作品が評価されるのはオリエンタルな雰囲気を押し出しているからだ」とする意見もありました。確かに棟方の作品はエキゾチックな魅力があります。ヨーロッパやアメリカの人々の目には珍しく映ったでしょう。
けれども、決してそれだけでは棟方の作品の魅力を十分に語れたとはいえません。棟方の作品は「日本的」とされる範疇を超え、人々の心の奥底に存在する原始の記憶を呼び起こすものでした。いうなれば縄文土器の荒々しい美しさに似た魅力を、棟方の板画はもっているのです。
棟方志功の名言
わだばゴッホになる。
自伝のタイトルにもなった有名な言葉です。雑誌『白樺』に掲載されていたゴッホ『ひまわり』の図版を見て衝撃を受けたことからの発言だといわれています。ゴッホに魅了された棟方は、生涯をかけてゴッホを追いかけていきます。
板画自体、わたくしには本然とした宗教であります。
棟方は版画を制作するために板を使うのではなく、版木と向かい合い、板の魂を彫り出すことが制作になっていると考えていました。板は単なる道具ではなかったし、彫る行為は祈りにほかなりませんでした。彼の激しい制作行為の内側には、宗教的と呼べるほど厳粛な祈りが存在していたのです。
私が彫っているのではありません。仏様の手足となって、ただ転げ回っているのです。
「二菩薩釈迦十大弟子」についての言葉だといわれています。板木の中に存在する仏さまを彫り出すこと、それが棟方の役目でした。