棟方志功にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「『板画』『柵』表記へのこだわり」
棟方志功は自分が制作するいわゆる「版画」を「板画」と表記していました。「版画」という言葉の「木を彫って刷った絵」というニュアンスではなく、板の性質を大切にして木の魂を彫り出す、という意味を込めた「板画」という言葉を使ったのです。棟方にとって彼の作品は「木に彫らせてもらうもの」でした。
また、1943年ごろから、棟方は自分の作品に「○○の柵」とタイトルをつけるようになりました。これは昔四国八十八カ所をめぐるお遍路さんが、お寺の壁に納札を打ち付けていたことに由来しています。お遍路さんが願いを込めて札を打ち付けるように、棟方も板画という「柵」を祈りながら彫っていたのです。
都市伝説・武勇伝2「落書きの雪隠観音に見物客」
毎日作品を作っていても、棟方には絵に対するエネルギーがあり余っていました。30代のころ、借りていた家のふすまにたくさんのタコが泳ぎ回る絵を描き、大家さんからひどく怒られたというエピソードがあります。
怒られた棟方は「人に見えない場所へ」と思ったのか、今度はトイレに観音菩薩の絵を描いたそうです。大家さんはさぞ怒ったでしょうがこの雪隠観音、評判になって見物客を呼ぶようになりました。大家さんもまんざらでもなかったかもしれませんね。
棟方志功の年表
1903年 – 0歳「青森県青森市に生まれる」
鍛冶屋の三男として誕生
棟方志功は1903年、青森県青森市の鍛冶屋の三男として生まれました。15人兄弟の6番目という大家族です。父・幸吉は腕のいい鍛冶職人で、母・サダは当時24歳ながら休みなく働く人だったといいます。
青森は寒さの厳しい土地のため、囲炉裏で暖をとることがよくありました。その囲炉裏の煤で棟方は眼病になってしまい、極度の近視でした。
少年期の棟方はやはり美しいものに心惹かれる性質だったようで、青森市のほとんどが焼けた大火事のときにも、兄の背中で恐怖を感じ念仏を唱えながら炎の美しさを感じていたといいます。また、家の近くの善知鳥(うとう)神社の絵灯篭や青森のねぶた、津軽凧の絵などに惹かれ、小さいころから友達に絵を描いてくれと頼まれていました。
小学校卒業後は鍛冶屋で修行を始める
1916年に小学校を卒業したその日から、棟方は鍛冶職人としての修行を始めました。2人の兄と仕事をしていたのですが、兄たちは別に仕事を見つけて鍛冶を辞めてしまいます。
仕事の滞ってしまった棟方に、同級生の父親が紹介してくれたのは裁判所の給仕の仕事でした。さらに彼は棟方に眼鏡を与えてくれました。それまでは極度の近視ながら裸眼だったのです。
世界が明るくなった棟方は、仕事の合間に街に出て写生に励むようになります。
1921年 – 18歳「ゴッホ『ひまわり』に出会う」
『ひまわり』に感動
1921年ごろ、棟方志功は文芸雑誌『白樺』に掲載されていたフィンセント・ファン・ゴッホの『ひまわり』に心を奪われます。「わだばゴッホになる」、ゴッホになりたいと言い始めたのもこのころのことです。ゴッホの燃えるような色彩と筆致は棟方の心をとらえ、当時の棟方の絵は赤色に埋め尽くされていたといいます。
さらに棟方はこの作品の図版を画家志望の図画教師・小野忠明からもらい、大切にしていました。しかし戦争で焼失してしまい、今は残っていません。
初めての展覧会
同じころ、1921年に棟方は芸術を志す友人4人と「青光画会」というグループを結成しました。初めて展覧会を開き、このころは地元の新聞に好意的に取り上げられています。
1924年 – 21歳「上京」
帝展に油絵を出品するが落選の日々
1924年、棟方志功は東京に拠点を移しました。帝国美術院が主催していた権威ある官展・帝展に入選するまでは青森に帰らない、という決意での上京です。けれども棟方はデッサンなどを勉強してきたわけではなく、さらに師匠にもつかずに独自の画業を突き進んでいたので、写実画が重んじられる帝展への入選は厳しいものでした。
1928年、ついに油絵『雑園』が帝展に入選、25歳になった棟方は4年越しの夢を叶えます。しかしその後は再び落選の日々が続きました。
版画に目覚める
ゴッホを目指して油絵ばかり描いてきた棟方でしたが、帝展入選のころから油絵に飽き足らないものを感じていました。ある日、日本創作版画協会の展示で古川龍生や川上澄生の版画を見て、棟方は気づきます。「ゴッホだって日本の浮世絵を勉強しているじゃないか!」
棟方は帝展に油絵を出品しながら、版画の制作を始めました。公募展の版画部門で徐々に入選をはじめ、1930年には昭和期の有力美術団体・国画会の展覧会に『貴女裳を引く』など4点が入選しました。翌年には初めての版画集『星座の花嫁』を出版しました。
赤城チヤと結婚
1930年の4月、棟方志功は赤城チヤという女性と青森の実家近くにある善知鳥神社で結婚しました。けれどもこのころの棟方は東京で仲間と共同生活をする身、新妻のチヤは2年間青森で待つことになります。2人が東京で一緒に暮らし始めたのは1932年、棟方29歳のときのことです。
1936年 – 33歳「『大和し美し版画巻』を描く」
佐藤一英の詩を版画化
1932年、棟方は愛知県生まれの詩人・佐藤一英(いちえい)の詩「大和し美し」と出会います。古事記のヤマトタケルノミコトの一代記を描いたこの詩に魅了された棟方は、つてをたどって佐藤を訪ね、版画にする許可を得ました。そして3年がかりで完成した超大作が『大和し美し版画巻』です。
柳宗悦ら民芸運動家と知り合う
完成した『大和し美し版画巻』を国画会展に持ち込んだところ、7メートルもある作品は展示できないと断られてしまいます。困っていたところに、ちょうど会場に来ていた柳宗悦と濱田庄司の2人が現れました。2人は棟方のこのダイナミックな作品に惚れこんでいたのです。
2人のおかげで『大和し美し版画巻』は2段に分けて展示することができるようになりました。さらに2人は日本民藝館の開館準備をしていたところで、棟方のこの作品を民藝館に展示するため買い取ってくれました。この出会いから棟方は柳ら民芸運動のメンバーとともに歩むようになります。
仏教・禅に関心をもち始める
この年の夏、棟方は柳から紹介された民芸運動のメンバー・河井寛次郎のいる京都を訪ねました。40日ほどの滞在で、棟方は河合と京都の寺社仏閣を見学し、仏教や禅に関する講義を受けました。仏教の教えに深く感銘を受けた棟方は、仏教的なものをテーマに描きたいものを膨らませていきます。
ここから『華厳譜』『東北経鬼門譜』などの仏教を扱った作品が増えていきました。どんどん作品は生まれていったのですが、このころの画壇はヨーロッパの写実主義に重きを置いていて、棟方の作品はなかなか評価されませんでした。貧しいながらも作品を作り続ける棟方を応援しようと、民芸運動のメンバーに近かった水谷良一らは彼の後援会を作り、生活を支えました。
1938年 – 35歳「『善知鳥版画巻』が新文展で特選を受賞」
念願の特選受賞
1938年、棟方志功は第2回新文展(以前の「帝展」)に『善知鳥版画巻』を出品、見事特選を獲得しました。後援会を作ってくれた水谷良一から聞いた謡曲『善知鳥(うとう)』に題材を得た作品で、32枚の作品のうち9枚を出品していました。この特選受賞は版画としても初めてのことで、それまで「芸術性が低い」とされてきた版画の地位向上にまた1歩踏み出せた快挙でした。
1945年 – 42歳「富山県福光町に疎開」
代々木の自宅は焼失
1945年、激しくなってきた戦争によって棟方一家は富山県福光町(現在の南砺市の一部)に疎開しました。疎開先でも棟方は作品の制作を続け、また光徳寺というお寺から頼まれて襖絵を描いています。疎開当初、棟方は自分の絵をつけた笠をかぶりアイヌの刺子が施されたはんてんを着て歩いていたので、街の人からはだいぶ奇妙な目で見られたようです。
けれども徐々に人々にも馴染み、東京・代々木の自宅も空襲で焼けてしまったので棟方は1951年まで福光町に住んでいました。棟方が亡くなった後、2001年に疎開中に住んでいた家「鯉雨画齋(りうがさい)」が移築され、棟方志功記念館とともにファンが訪れるスポットとなっています。
不敬罪に問われかけた
疎開する前、1943年に国画会展に棟方が出品した『神祭板画巻』に天皇が描かれているとして、主催者から撤去されたことがありました。当時は現人神であった天皇を作品にするというのは不敬にあたるとされていたのです。
そうかと思うと、日本の物事を題材としている棟方の作品は戦意高揚に使われやすいものでもありました。戦争中は日本的なものをなにかと持ち上げる時代で、棟方も「大和民族が復活するためには必要な男だ」とまで評されています。美術家も戦況に振り回される時代でした。
1952年 – 49歳 「海外進出」
アメリカで初めての海外個展
1952年、棟方志功はアメリカ・ニューヨークのウイラード・ギャラリーで初めての海外個展を開きました。またこの年には、スイスで行われた第2回ルガノ国際版画展で同じく日本から出品した駒井哲郎とともに優秀賞を受賞しています。この受賞は、戦後初めて日本美術が海外に認められたともいえる記念すべきものでした。
2つのビエンナーレで受賞
1955年、棟方志功は第3回サンパウロ・ビエンナーレの版画部門で最高賞を受賞しました。第1回から出品していたのですが、受賞したのは初めてです。また翌年には第28回ヴェネチア・ビエンナーレの国際版画大賞を受賞しています。
初めて海外へ行く
1959年、56歳のときに初めての海外旅行に出発します。行く先はアメリカとヨーロッパ、ロックフェラー財団とジャパン・ソサエティに招かれての半年間に及ぶ長旅でした。船の上でも棟方は板から離れることはなく、せっせと制作に励んでいたといいます。
アメリカでは講演や公開制作などをし、大変な人気でした。けれども棟方の最大のお目当ては、若いころから尊敬してやまなかったゴッホの墓参りをすること。パリから車で1時間ほどの村にあるゴッホの墓を訪れた棟方は、妻・チヤの眉墨を使って碑文の拓本をとったそうです。
1970年 – 67歳「文化勲章を受章」
「半分はチヤのもの」と妻を称えた
1970年、棟方志功は文化勲章を受章しました。この10年前ごろから棟方の左目は完全に失明していて、見えている右目だけで制作をしていました。受章コメントではそのことに触れ「これが見えなくなるまで、精一杯仕事をします」と述べています。
また、長年棟方を支え続けていた妻・チヤを称え、「この勲章の半分はチヤのもの」とも述べたといわれています。2人の仲のよさが伝わるエピソードです。
1975年 – 72歳「肝臓がんで死去」
墓石はゴッホのものと同じデザインに
1975年9月13日、棟方志功は72歳でその生涯を閉じました。その前年、棟方は自身の墓を設計し、墓碑銘を書きました。尊敬するゴッホの墓と同じ形、同じデザインに作った墓には夫婦の名を刻み「∞(無限大)」のマークが彫られています。
棟方志功の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
棟方志功―わだばゴッホになる
1975年に出版された棟方の自伝『わだばゴッホになる』を改題したものです。貧しかった幼少期の話やゴッホとの出会いが棟方の独特な文体で描かれています。ユーモアあふれる語り口は、ゴッホに出会って周りの景色が燃えるように見えた棟方の視点を私たちにも見せてくれます。
棟方志功 いのちを彫る (アートセレクション)
小学館のアートセレクションシリーズの1冊で、棟方志功美術館が監修しています。カラー図版が豊富で棟方の写真もたくさん収録されているので楽しく読めます。マイナーな作品も掲載されているのが嬉しいです。
言霊の人 棟方志功
棟方志功の孫で棟方研究の第一人者である石井頼子が、棟方が影響を受けた文学者について書き表した本です。棟方は美術家でありながら画壇との交流が薄く、むしろ文学者との関わりが多い人でした。この本では特に近代詩人にスポットが当てられています。
おすすめの動画
3分でわかる棟方志功(人から分かる3分美術史39)
棟方志功の生涯と作品について3分間で解説している動画です。淡々とした語り口と豊富な図版でわかりやすく解説しています。美術史入門にはぴったりの動画です。
おすすめドラマ
我はゴッホになる! ~愛を彫った男・棟方志功とその妻~
棟方志功を劇団ひとりが、その妻・チヤを香椎由宇が演じたドラマです。棟方の自伝『板極道』が原作になっています。DVD化されていないので現在観ることができないのですが、いつかまた放送されることがあったらと思い、ご紹介しました。
棟方志功についてのまとめ
日本を代表する板画家、棟方志功についてご紹介してきました。棟方志功という男とその作品の魅力が伝わりましたでしょうか。
ぜひ1度、作品を生で見てみてください。その迫力に圧倒され、元気がもらえること間違いありません。棟方が作品に込めた祈りが今もなお息づいていることを感じられるはずです。
この記事がそのきっかけになればとても嬉しいです!