オルメカ文明とは?マヤ文明との違いや文化、信仰についてもわかりやすく解説

オルメカ文明とマヤ文明の違いとは

オルメカ文明の遺跡が多く残されているラ・ベンタ遺跡

オルメカ文明はメソアメリカにとって最古の文明ですが、次に登場したマヤ文明の方が広く人々に知られていますね。マヤ文明はユカタン半島を中心として9世紀頃まで栄えた文明です。

マヤ文明の方が有名な原因としては、情報が少ないことが挙げられるでしょう。冒頭でも述べたように、オルメカ文明は紀元前400年から200年頃に突然消えてしまったので、謎が多いのです。

しかし、現在の情報からでもオルメカ文明とマヤ文明には似ている点や異なる点を多く見つけられます。特に異なる点に目を向けてみると、メソアメリカの文明の移り変わりがよく分かりますよ!

文字の有無

マヤ文字

オルメカ文明の時代には文字といえば、絵文字しかありませんでした。しかし、マヤ文明に時代が移り変わると「マヤ文字」が発明されます。

ただし、現在の文字とは異なり、マヤ文字はオルメカ時代の絵文字のようなものを組み合わせて作られた文字です。

オルメカ文明の絵文字からマヤ文明で文字にまで発展し、言葉だけでなく文字でやりとりできるようになりました。

天文学や数学の発達

マヤ文明時代の天文台(エル・カラコル)

オルメカ文明において太陽はとても神聖なものでしたが、太陽は天文学の暦法においても非常に大切なものなのです。暦法とは太陽などの惑星の動きによって時間の流れを年月などに定める方法のことを指します。

オルメカ文明の時代にはすでに暦法が完成しており、いくつかの種類がありました。1周期が365日という太陽暦に近いものや1周期が260日である「ツォルキン」と呼ばれる暦法が存在しています。

この暦法はマヤ文明でも使用されていますが、マヤ文明では天文学の知識がさらに発達しました。天文台が建設されたり、太陽の動きを正確に把握しているピラミッドまで作られたのです。

マヤ数字

それだけなく、マヤ文明ではオルメカ文明のゼロの概念を利用して20を基準として数を表現した二十進法が生み出されます。

マヤ文明のマヤ数字は点を1とし、横棒を5として使いました。マヤ文明ではオルメカ文明の文化をもとに、現代に通じる数学の知識が築かれていたのです。

建築技術の発展

マヤ文明時代の神殿(ティカル2号神殿)

あまり知られていませんが、オルメカ文明においても遺跡は存在しています。ただしそれは、石の柱を組み合わせて作られた墓地や祭殿、人頭像など簡素なものばかりです。

しかし、マヤ文明になると建築技術が著しく向上しました。頂点に神殿があるピラミッドなどがセメントやレンガなどを使用して作られるようになったのです。

オルメカ文明の影響

アステカ文明における生贄の儀式

最後に、オルメカ文明が後々の文明に与えた影響について紹介しましょう。マヤ文明との違いでも説明したように、オルメカ文明はメソアメリカ文明の基礎を築いた文明です。

例えば、生贄の儀式に使用された球技はマヤ文明にも引き継がれています。それだけでなく、「生贄を捧げる」という行為自体が南アメリカ大陸の文明に広まっていったのです。

マヤ文明では生贄を得るために戦争を起こし、捕虜を拷問して生贄としていました。生贄の儀式で紹介した斬首による血しぶきの様子も、彫刻に描かれているほどです。

ペルーで栄えていたモチェ文化では生贄の血を飲み、血を流すことで雨を降らそうとしたと言われています。とても悲しい儀式ですが、当時では生贄に選ばれたことは非常に名誉であるとされていました。

オルメカ文明から人々の主食であったトウモロコシ

しかしながら、何も生贄の儀式だけが他の文明に与えた影響ではありません。オルメカ文明は食生活の面でも他の文明に影響を与えました。

オルメカ文明の頃からトウモロコシは人々にとって大切な食糧でした。その証拠にオルメカ文明の遺物である翡翠の石斧に描かれている王の頭には、トウモロコシを表した飾りがつけられています。

トウモロコシを主食とした食文化はマヤ文明やアステカ文明にも引き継がれていきました。

オルメカ文明に関するまとめ

オルメカ文明の祭殿

いかがでしたでしょうか?この記事では、オルメカ文明の文化や信仰、マヤ文明との違いについて紹介しました。

オルメカ文明はジャングルの中で生まれた文明らしく、ジャガーを神として信仰していたり、権力を誇示するために巨大な人頭像や石斧を作ったりといった独特の文化があります。後のマヤ文明と違う部分も見受けられましたね。

中には生贄の儀式といった暗い一面もありますが、これら全てが後世の文明に受け継がれていきました。オルメカ文明が存在しなかったら、私たちの生活は現在とは全く違ったものになっていたでしょう。

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