第一次世界大戦が起きた原因とは?特徴から背景まで詳しく紹介

同盟関係の複雑化と対立

三国協商対三国同盟の構図
出典:Wikipedia

ヴィルヘルム2世による世界政策の展開によって各国間の対立が深まる中で、列強諸国同士の同盟関係は次第に複雑化していきました。この複雑化した同盟関係が、第一次世界大戦における対立構造に繋がるのです。

ここでは三国協商を中心とした連合国と、三国同盟を中心とした中央同盟国の2つの勢力について解説していきます。

三国協商を中心とする連合国

第一次世界大戦における連合国側とは、イギリス、ロシア、フランスによって構成された三国協商を中心とした連合国家です。

ビスマルク体制下において、ドイツ帝国は列強各国と同盟・協商関係を結び、敵対国であるフランスを孤立させながらヨーロッパの国際秩序を築き上げました。しかし、ヴィルヘルム2世が即位すると、ロシアとの独露再保障条約の更新を拒否。そして、ドイツとロシアの関係が悪化した結果、ロシアはフランスと露仏同盟を締結します。

それに続き、ドイツ帝国と対立していたイギリスも英仏協商を結びました。同時に、ロシアとも対立していたイギリスは、ロシアの極東進出を阻む目的で日本と日英同盟を結成します。しかし、ロシアが日露戦争において日本に敗北すると、イギリスはロシアに接近し、英露協商を結んだのです。その結果、イギリス、ロシア、フランスの3カ国による三国協商が成立しました。

また、日本は日英同盟の他、日露戦争後に日露協約、日仏協約も結んでいたため、三国協商側に立っていたのです。

三国同盟を中心とする中央同盟国

第一次世界大戦における中央同盟国とは、1882年に締結された秘密軍事同盟である三国同盟に、オスマン帝国とブルガリア王国を含めた同盟国家群です。

当初、三国同盟はフランスを仮想敵国としたドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアの3カ国による同盟であり、ビスマルク体制の一環として形成されました。しかし、ヴィルヘルム2世による帝国主義政策が展開されると、次第にロシアやイギリスに対抗する意図が強まっていったのです。その結果、三国同盟は三国協商と対立し、第一次世界大戦の主要な対立構造が出来上がりました。

また、ドイツとオーストリア=ハンガリーが同じゲルマン人国家として結束を深める一方で、イタリアは「未回収のイタリア」問題でオーストリアと対立していました。未回収のイタリアとは、オーストリア領内にある土地のうち、イタリアが領土と主張する地域です。この領土問題が未解決だった結果、イタリアは三国同盟から離脱し、三国協商側に転じることになりました。そのため、三国同盟は実質的に二国同盟だったのです。

第一次世界大戦頃のイタリアの地図

バルカン問題

バルカン問題とは、オスマン帝国が衰退した後のバルカン半島内で起こった諸民族間の領土問題です。この時代のバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれ、第一次世界大戦が起きた原因の1つとされています。

ヨーロッパの火薬庫と呼ばれていたバルカン問題の風刺画

かつてオスマン帝国によって支配されていたバルカン諸国は、1878年にビスマルクが主催したベルリン会議にて締結されたベルリン条約によって、新たに独立が認められました。

しかし、1908年にオスマン帝国において青年トルコ人革命と呼ばれる政変が発生し、オスマン帝国内が混乱に陥ると、それに乗じてオーストリア=ハンガリー帝国がバルカン諸国の1つであるボスニア=ヘルツェゴビナを併合したのです。

これに危機感を覚えたその他のバルカン諸国は、南下政策を目論むロシアの支援を受けて、バルカン同盟を結成しました。そして、汎スラブ主義を掲げるロシアの後ろ盾を得たバルカン同盟が、青年トルコ人革命以降に汎トルコ主義を掲げ始めたオスマン帝国と対立した結果、第一次バルカン戦争が勃発。この時、オーストリア=ハンガリー帝国はオスマン帝国を支援していました。

最終的に、この戦争はバルカン同盟側の勝利に終わります。

その後、ブルガリアの領土拡大を巡ってバルカン諸国間で対立が起こり、第二次バルカン戦争が発生。第二次バルカン戦争はブルガリアの敗北で終わりましたが、バルカン半島は深刻な領土問題を抱えたままとなり、不安定な状態が続いたのです。

バルカン戦争の対立図
出典:Wikipedia

サラエヴォ事件

サラエヴォ事件の現場写真

サラエヴォ事件とは、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、ボスニアの州都サラエヴォにおいて、ボスニア系セルビア人の青年によって殺害された事件です。この事件は、第一次世界大戦が勃発する直接的な原因となりました。

オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ=フェルディナンドと妻のゾフィーは、軍事演習の視察をするためにサラエヴォを訪れた際に、ガヴリロ・プリンツィプというテロリストによって射殺されたのです。このガヴリロという男の背後には、セルビア民族主義者らが結成した「黒手組」と呼ばれる組織が存在していました。彼らの目的は、反オーストリア的革命運動にあったのです。

皇太子夫妻を暗殺したガヴリロ・プリンツィプ

サラエヴォ事件を受けたオーストリア=ハンガリー帝国は、黒手組を支援しているとみられるセルビア王国政府に対して最後通牒を突き付けます。しかし、その内容は受け入れ不可能なものばかりであり、セルビア政府は一部を留保した上で同意しました。

その結果、最後通牒の一部留保に不満を持ったオーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国との国交を断絶し、1914年7月28日に宣戦布告したのです。その後、列強各国の同盟関係が連鎖し、ヨーロッパだけでなく世界を巻き込む大戦争へと発展し、第一次世界大戦となりました。

第一次世界大戦において進軍するドイツ兵

第一次世界大戦の原因に関するまとめ

今回は第一次世界大戦が起きた原因について解説しました。

第一次世界大戦は、ヨーロッパの列強各国による帝国主義政策によって複雑化した同盟・対立関係や、不安定な情勢が続いていたバルカン半島において発生したサラエヴォ事件など、様々な原因が絡み合ったことで勃発したのです。

この記事では第一次世界大戦が起きた原因について、その特徴から背景の歴史まで紹介しましたが、第一次世界大戦が起きた後の歴史について詳しく調べてみるのも面白いでしょう。

それでは長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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