戦後の生活
終戦後、義正は大学に復帰しました。そして東大の大学院を経て製紙会社に就職しました。普通の人生を歩んだように思える義正ですが、父についての著書もあります。
五十六が戦死した後、その生家の跡を神社にするという計画がありました。父を間近に見てきた義正は、父の軍人としての面だけが人々に知られることに危機感にも似たものを持っていたのではないでしょうか。その危機感が義正に本を書かせたのかもしれません。
アメリカとの戦争にはあくまでも反対だった父の姿を知らせたいという使命感が義正にはあったと思われます。
また、父を失った山本家では、母の礼子が五十六の部下が興した会社に役員待遇で迎えられました。しかし、これはあまり業績が良い会社ではなかったようです。日本中がそうでしたが、山本家でも大変な時代だったのです。
山本五十六の子孫の今!実は孫が健在
義正もまた結婚して、息子に恵まれました。五十六にとっての孫が現在も健在で、自分の務めを果たしています。この孫についても説明したいと思います。
孫の名前の由来とは
義正の息子の名前は源太郎といいます。義正は父が懇意にしていた山下源太郎という海軍大将の名前を付けたのです。
山下源太郎と山本五十六にどのような付き合いがあったのかはわかりませんが、山下源太郎の娘婿・知彦と五十六の妻・礼子がいとこ同士だったそうです。遠縁ということで特別な親しみが湧いて、深い繋がりが生まれたのかもしれません。
山下源太郎が亡くなったのは1931年、義正の息子の源太郎は1961年生まれです。義正が30年経っても、息子に源太郎という名前を付けたことには、父たちへの尊敬の念を感じます。
現在孫が果たしている役割
毎年、山本五十六の命日である4月18日には山本記念公園で法要が行われています。五十六の孫である源太郎は、この法要には必ず出席しているそうです。また、山本五十六が関連する書籍・映画の公開などにはメディアに登場して、山本家の真実を伝えています。
源太郎本人は五十六とは実際に会ったこともないでしょうが、父の義正が五十六に関する著書を出版していることもあり、五十六の真実の姿を伝えようとしていたことも承知していたはずです。義正の思いは源太郎に引き継がれたと言っても良いでしょう。父の思いを引き継いだ立場から、源太郎は後世に五十六の姿を語り継ごうとしているようです。
山本五十六の子孫に関するまとめ
今回は山本五十六の子孫、息子の義正氏と孫の源太郎氏についてお伝えしました。
父の真の姿を伝えようとした義正の姿からは、五十六に対する深い愛情が伝わってきます。それを見て育った源太郎にも、義務感や使命感とともに、愛情が伝わったのではないでしょうか。ですから今でも源太郎は五十六の法要に出かけ、五十六の代わりに平和を祈願しているように思われます。
五十六自身もそうでしたが、義正も源太郎も父親の年齢が高いことが共通しています(五十六は父親が56歳のとき、義正は父親が40歳、源太郎は39歳のときの子ども)。このため、山本五十六の孫がまだ健在なわけですから、本当に世の中、何が幸いするかはわかりません。
どうかこの先も、源太郎氏には五十六の真の姿を伝え、平和のために貢献していただきたいと思います。
孫どころか、もっと続いています。
私は直系の御子孫と一緒に仕事をしていました。
ちゃんと取材して文相にして下さいね。
山本五十六の孫なのに「山下」源太郎さんなの??無責任なコラム?は控えるべきかと
山下源太郎さんは山本五十六さんが懇意にしていた方の名前ですね。
「義正の息子の名前は源太郎と言います」と書いてありますよ。
確かに一瞬自分も混乱しましたがちゃんと読めばわかりますよ。もっと本読んで勉強しましょうね^_^
ヒットマン 山本 五十六