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山本五十六の子孫はどんな人?現在の生活は?子供や孫の意外な人物像とは

山本五十六について詳しくは知らない人でも、ドラマや映画では名前を聞いたことがあるでしょう。第二次世界大戦で活躍した人というイメージが強いため、もしかすると戦犯として裁かれたのか、などと思われているかもしれませんね。

五十六の身長は160cmだったという

このように、私たちは五十六のほんの小さな部分しか知りません。彼はアメリカとの戦争が無謀なことをよくわかっていて、好んで戦争をしたわけではありませんでした。軍人としてのみ語られることが多かった五十六ですが、彼の死後、子孫は真の姿を伝えるためにコツコツと努力を重ねて来ました。

そこで今回は、山本五十六の子孫についてお伝えします。子孫の姿を知ることで、五十六の真の姿に少しでも近付けるはずです。

知らなかった!山本五十六の子どもたち

五十六と礼子の結婚式
ここから家族の歴史が始まった

山本五十六は1918年に妻・礼子と結婚しました。結婚後しばらくは子どもに恵まれませんでしたが、1922年に長男の義正が誕生するとその後には、次男・忠夫、長女・澄子、次女・正子と4人の子どもに恵まれました。

山本五十六について再確認

珍しいスーツ姿の山本五十六

山本五十六と言えば、第二次世界大戦と切っても切り離せない人物です。彼は日本海軍の軍人であり、連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を提案し、成功させたことで有名になりました。

最終的には1943年に前線を視察する際、飛行機事故で命を落とし、元帥海軍大将となりましたが、そのことは一層山本五十六の名声を高め、伝説の人物のようにしました。

しかし、五十六はアメリカとの戦争を無謀だということをよく承知していた頭の良い人物でした。彼にはアメリカへの留学経験があり、アメリカという国をよく知っていたのです。

【年表付】山本五十六とはどんな人?死因や名言、武勇伝まとめ

そして家庭生活では子どもの先行きを案じ、教育に心を配る良き父親でした。五十六の人間としての姿を知るには、彼の子孫を知ることが一番の近道です。

4人の子どもに恵まれた五十六

当時としては4人兄妹は普通のことだった?

結婚して5年目に生まれた、待望の長男が義正です。子どもが誕生した嬉しさとともに、五十六は大きな期待も持ったはずです。

現在でも子どもの受験のために引っ越しをする人はあまりいないでしょうが、昭和がまだ始まったばかりの時代に五十六はそれを実行します。五十六は義正を府立一中に入学させるために奔走するのです。

義正が生まれるとその後も順調に子どもたちが生まれたため、山本家は義正を筆頭に4人の子どもたちがいるにぎやかな家庭になりました。

4人の子どもたちのうち、義正以外の子どもたちについては詳しいことがわかっていません。また、五十六の死後も義正は長男として、父の真の姿を伝えるために努力を続けました。そこで、山本五十六の子孫について、最初に義正についてお伝えしたいと思います。

山本五十六の長男・義正とはどんな人だった?

山本五十六の長男・義正氏

長男の受験に心を配った五十六

わざわざ1年間だけ通った青南小学校の現在の姿

結婚した後、山本家は何度も引っ越しをしましたが、鎌倉から青山に移り住んだのは、義正の受験のためでした。府立一中への合格率が高かった、青南小学校に義正は6年生の一年間だけ通いました。

五十六は義正の受験や家を選ぶときには、子どもが受験をした経験のある友人からアドバイスをもらったようです。この行動は現在の私たちと変わらないように思えて、五十六に親しみがわきます。

無事に義正が府立一中に合格した後には、五十六が自ら父兄会の理事を勤めたといいますから、本当に義正の教育に心を砕いていたことがわかります。

なぜ、五十六は府立一中にこだわったのか?

府立一中の新校舎(竣工は1929年)

府立一中とは、現在の東京都立日比谷高等学校のことです。1878年に創立されたこの学校は戦前のエリートコースを歩むためには必ず進学したい学校でした。

当時、現在の文京区や千代田区にあたる地域には上流階級の家庭が多く、府立一中には自然と上流階級の子弟が集まりました。このため府立一中から第一高等学校を経て東京帝国大学(現在の東大)に進学するコースが自然と出来上がったと考えられます。

五十六は義正に、このエリートコースを歩ませたいと強く希望していたのです。五十六は義正を自分の跡を継ぐような軍人にしたいと思っていたのかもしれません。

父をお手本に海軍に入隊するが…

皇族でも華族でもないのに、国葬が行われたのは戦前では五十六のみ

義正は府立一中を卒業した後、軍人を目指して海軍兵学校入学を希望しましたが、近眼と肋膜炎のために旧制成蹊高等学校に進路を変更します。

高等学校在学中に父・五十六が戦死します。国葬が行われたときに、喪主を務めたのは義正でした。

このとき次男の忠夫は小学6年生、長女・澄子は高等女学校を卒業したばかり、次女・正子は女学校に在学中でした。母・礼子とともに幼い子どもたちが残されてしまったわけですから、先行きに不安もあったことでしょう。しかしこの後、義正は東京帝国大学の農学部に入学します。父の願いは叶えられたのです。

終戦・厚木の叛乱

叛乱を首謀した小園安名(こぞのやすな)

戦局が厳しくなってくると、義正は大学に籍を置いたまま再び軍人を志します。このときも近眼のために、海軍のパイロットにはなれずに、海軍整備予備学生となりました。

赴任した厚木第三〇二航空隊では、戦闘機の整備や防空壕掘りをしていましたが、わずか1カ月ほどで終戦を迎えます。ところが当時隊を率いていた小園安名は終戦を認めず、徹底抗戦を主張し、その準備を初めてしまいます。

小園の行動に疑問を感じた義正は自ら連絡係を希望して、海軍省へ出向きます。そこで、義正は事態を沈静化するために、丁寧に終戦の説明をするように求めたといいます。23歳の義正の行動には、父の姿を見てきたことから備わった冷静さと落ち着きがあったようです。

結局、小園がマラリア(マラリアというのは隔離するための方便だったとも言われています)にかかり、病院に隔離されたこともあって、事態は徐々に沈静化していきました。

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