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独立国家共同体(CIS)とは?加盟国やロシアとの違いをわかりやすく解説

「独立国家共同体って何?」
「独立国家共同体に参加した国は?」
「独立国家共同体とロシアの違いについて知りたい」

この記事をご覧のあなたはそのような疑問を持っているのではないでしょうか?独立国家共同体とはソビエト連邦を構成していた国のうち11カ国が参加した国家連合のことです。

独立国家共同体は1991年12月8日にロシア、ウクライナ、ベラルーシの3共和国の首脳がおこなったベロベーシ合意によって生み出されました。当初はEUのような強い結びつきを目指しましたが、ジョージア(グルジア)やウクライナが離脱したことで弱い結びつきにとどまっています。

今回は独立国家共同体とは何か、独立国家共同体に参加した国々、独立国家共同体成立の背景やロシアとの違いなどについてまとめます。

独立国家共同体とは?

独立国家共同体の国々

独立国家共同体とは、1991年のベロベーシ合意によって生み出された国家連合です。ソビエト連邦を構成していた15の共和国のうち、11の共和国が参加しました。のちに、ジョージアも参加し、合計12カ国となりました。

この国家連合の略称はCISといいます。英語のCommonwealth of Independent Statesの頭文字をとったものでした。ロシア語はつづりが違うため、ロシア語略称はСНГとなります。当初はEUのような強い国家連合を目指していました。しかし、足並みがそろわず実現に至りません。

独立国家共同体の創設を宣言したベロベーシ合意では、ソビエト連邦の消滅も宣言します。これにより、ソ連大統領だったゴルバチョフは完全に無力な存在となり、ソ連大統領を辞任します。

独立国家共同体の加盟国

2008年に開かれた独立国家共同体諸国の指導者

独立国家共同体の中心となったのは

  • ロシア
  • ウクライナ
  • ベラルーシ

の3国です。この3国はベロベーシ合意を行い独立国家共同体の創設に同意した国々でした。

このほか、

  • カザフスタン
  • トルクメニスタン
  • ウズベキスタン
  • アルメニア
  • キルギス
  • タジキスタン
  • アゼルバイジャン
  • モルドバ

が独立国家共同体に加わりました。これらは旧ソ連の構成国でもあります。

これに対し、参加しなかったのはバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)とジョージアでした。ジョージアは1993年に加盟します。その後、ロシアとの対立が原因でウクライナとジョージアが離脱しました。

成立のきっかけは保守派クーデタ

ペレストロイカに対する保守派の不満

ペレストロイカでソ連を立て直そうとしたゴルバチョフ

ソ連の指導者ゴルバチョフ書記長は1980年代後半に社会主義体制を立て直す改革、いわゆるペレストロイカを実施しました。彼の目的は硬直化したソ連経済の立て直しです。同時にグラスノスチとよばれる情報公開を積極的に進めました。

ところが、ゴルバチョフの経済改革は市場経済の一部導入にとどまったため、かえってソ連経済は混乱してしまいました。これは、生産が滞り物価が高騰したためです。ゴルバチョフの改革に期待していた民衆は、ペレストロイカは失敗だと考えるようになり、強い失望感を抱きました。

こうした世論を背景に、保守派はゴルバチョフへの反発を強めます。また、ゴルバチョフの改革は社会主義体制を維持することが前提だったため、エリツィンなどの急進派は改革が不十分だとして批判しました。

バルト三国の独立宣言

独立を主張したバルト三国の位置

1940年にソ連に併合されたバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)は、ソ連による併合は非合法だったとして独立を宣言しました。そのきっかけとなったのは皮肉にもゴルバチョフが推し進めたグラスノスチです。

過去の情報が開示されるにつれ、バルト三国はドイツとソ連の密約(独ソ不可侵条約に付属した秘密議定書)により併合されたことが明らかになりました。それを知ったバルト三国の人々は三国の首都を人間の手でつなぐ「人間の絆」を実行しました。

こうして、1990年3月、三国はそれぞれ国民投票を実施し、ソ連からの独立を決議します。バルト三国内の保守派や親ソ連派は暴動を起こして独立を阻止しようとしましたが失敗します。保守派はソ連軍の介入を要請しました。

クーデタの決行と失敗

バルト三国の独立宣言を受け、ゴルバチョフは彼らに妥協した新連邦条約の作成に取り掛かります。これに強い危機感を覚えたのが保守派でした。彼らはゴルバチョフが休暇でモスクワを留守にした機会を利用してクーデタを決行しました。

クーデタの黒魔的存在だったクリュチコフKGB長官

クーデタの中心人物はヤナーエフ副大統領、クリュチコフKGB長官、パブロフ首相、ヤゾフ国防大臣などです。彼らはゴルバチョフを滞在中のクリミア半島の別荘に軟禁し、国家非常事態委員会の設置と権力掌握を宣言しました。

エリツィンが国家非常事態委員会を否定し、立て籠もった最高会議ビル

ところが、ロシア共和国(ソビエト連邦内の共和国で、現在のロシアとは異なる)の大統領だったエリツィンが猛反発。彼は記者会見で国家非常事態委員会を認めないといいきりました。そして、自ら戦車に飛び乗りクーデタへの反対を訴えました。

これにモスクワ市民たちが呼応します。10万人ともいわれる市民たちがエリツィンへの支持を叫び、彼のもとに集まりました。また、全国各地でゼネストが発生します。結局、クーデタは市民の支持を得られず失敗に終わりました。

独立国家共同体の創設を主導したのはエリツィン

エリツィンはロシア共和国大統領

保守派クーデタに立ち向かったエリツィン

エリツィンはソビエト連邦を構成する国で最大規模を誇るロシア共和国の大統領でした。ソビエト連邦はロシア共和国をはじめとする15の共和国による連邦国家です。そのため、ソビエト連邦の指導者のほかに各共和国の指導者もいました。

この当時、ソビエト連邦の指導者はソビエト連邦初代大統領となったゴルバチョフです。エリツィンはあくまでもロシア共和国だけの大統領でした。本来なら、連邦大統領よりも権限は下でゴルバチョフの指導の下、ロシア共和国での政治を行います。

そもそも、エリツィンはソ連共産党員でした。ゴルバチョフ政権下でモスクワ市第一書記となりますが、急進的な立場でゴルバチョフを批判し解任されます。1990年にソ連共産党を離党し、1991年6月のロシア連邦大統領選挙で当選しました。選挙で当選したエリツィンはロシアの民意を背景に保守派クーデタを鎮圧したのです。

3共和国がソ連の解体を宣言

ベロベーシでの合意内容にもとづき、独立国家共同体創設文書に署名する各国首脳

1991年12月8日、ロシアのエリツィン、ウクライナのクラフチュク、ベラルーシ(白ロシア)のシュシケビッチの3人がベラルーシ領のベロベーシの森に集まり、独立国家共同体の創設とソ連の解体を宣言しました。いわゆる、ベロベーシ合意です。

ソ連保守派のクーデタを事実上鎮圧したエリツィンはゴルバチョフに迫ってソ連共産党を解党させます。そして、3つの共和国はソビエト連邦からの離脱を宣言します。中核となっていた国が離脱したソ連は無力なものとなりました。万事休したゴルバチョフ大統領は12月25日に辞任します。こうして、ソ連は解体されてしまいました。

独立国家共同体とロシアの違いは?

ソビエト連邦に代わって成立した独立国家共同体とロシアは何が違うのでしょうか?一番の違いは領土です。独立国家共同体成立はあくまでも主権国家同士の緩やかな連合体です。かつてのソビエト連邦と異なり、ロシアが他の共和国を支配するという仕組みではありません。

ロシアと他の共和国はあくまでも別々の存在であり、政府や軍隊、立法組織などあらゆるものが別々です。したがって、他の共和国がロシアの指導に従わなければならないわけではありません。

ロシアは独立国家共同体の一部(というより、最強の国)ですが、独立国家共同体すべてがロシアの領土ではないのです。あくまでも、独立国家共同体は主権を持った国々が対等な立場で手を組む国家連合にすぎません。その点で、EUに近いと考えてよいでしょう。

独立国家共同体が弱体化した理由は?

ジョージア(グルジア)の脱退

ジョージアは南コーカサスにある独立国家です。2015年までグルジアとロシア読みで呼ばれていましたが、2015年以降、ジョージアと呼称するようになりました。ジョージアはソ連から独立した直後から国内の民族問題などが原因で内紛が絶えない国となります。

クーデタがおきた1991年以後、元ソ連外相のシュワルナゼが大統領の座につきます。それから2003年までは比較的安定していました。しかし、2003年に選挙の不正疑惑に端を発したバラ革命によってシュワルナゼは政権を追われます。その後も、ジョージアの政局は不安定でした。

戦闘で破壊されたジョージア軍の戦車

2008年、ロシアとの間で南オセチア紛争が勃発します。この戦いでジョージア軍はロシア軍に大敗し、首都トビリシ近郊のゴリまで攻め込まれました。この南オセチア紛争ぼっ発後、ジョージアは独立国家共同体から脱退しました。

ウクライナの脱退

オレンジ革命

ソ連崩壊後、ウクライナは独立国となりました。ウクライナでは親西欧派と親ロシア派が対立します。2004年の大統領選挙で親西欧派のユーシェンコと親ロシア派のヤヌコービッチが戦い、ヤヌコービッチが勝利しました。

不正選挙に抗議するウクライナ民衆

この結果に対し、野党は選挙に不正があったとして再選挙を要求します。勝利したヤヌコービッチとその後ろ盾となっていたロシア派強く反発しました。しかし、強い抗議行動に押され再選挙を認めます。再選挙の結果はユーシェンコの勝利となりました。

こうして、ウクライナで起きた政権交代は野党支持者が身にまとっていたマフラーの色からオレンジ革命とよばれます。革命後、ウクライナの新政権とロシアの関係は険悪化してしまいました。

クリミア危機

ロシアとウクライナ、クリミア半島の位置関係

ウクライナとロシアはクリミア半島の帰属をめぐって争っていました。2014年3月、ロシアは住民投票を強行し、ロシア系住民が多いクリミア半島をロシアに編入します。さらに翌月にはロシア系住民が多いウクライナ東部がウクライナからの分離独立を決定します。

当然、ウクライナ政府はクリミアのロシア編入も東部2州(ドネツク州とるルハーンシク州)の独立も認めません。そのため、ウクライナとロシアは戦争状態に突入しました。クリミア半島をめぐる対立をクリミア危機、東部2州関連の戦闘をウクライナ東部紛争と呼ぶことが多いです。

クリミア危機とウクライナ東部紛争はロシアとウクライナの関係を決定的に悪化させました。その影響で、ウクライナは独立国家共同体を離脱します。

独立国家共同体に関するまとめ

いかがでしたか?

今回は独立国家共同体についてまとめました。独立国家共同体は1991年12月にロシア、ウクライナ、ベラルーシの首脳がおこなったベロベーシ合意によって成立します。独立国家共同体の創設は同時にソ連の解体を意味しました。

創設のきっかけはソ連でおきた保守派のクーデタです。これをロシア共和国大統領のエリツィンが阻止したことで保守派が無力化し、ゴルバチョフの権威も低下しました。しかし、独立国家共同体はロシアとジョージア、ウクライナの対立により弱体化し、現在はあまり機能していません。

この記事を読んで、独立国家共同体とは何か、独立国家共同体に参加した国々、独立国家共同体成立の背景やロシアとの違いなどについて「そうだったのか」と思っていただける時間を提供できたら幸いです。

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