「独立国家共同体って何?」
「独立国家共同体に参加した国は?」
「独立国家共同体とロシアの違いについて知りたい」
この記事をご覧のあなたはそのような疑問を持っているのではないでしょうか?独立国家共同体とはソビエト連邦を構成していた国のうち11カ国が参加した国家連合のことです。
独立国家共同体は1991年12月8日にロシア、ウクライナ、ベラルーシの3共和国の首脳がおこなったベロベーシ合意によって生み出されました。当初はEUのような強い結びつきを目指しましたが、ジョージア(グルジア)やウクライナが離脱したことで弱い結びつきにとどまっています。
今回は独立国家共同体とは何か、独立国家共同体に参加した国々、独立国家共同体成立の背景やロシアとの違いなどについてまとめます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
独立国家共同体とは?
独立国家共同体とは、1991年のベロベーシ合意によって生み出された国家連合です。ソビエト連邦を構成していた15の共和国のうち、11の共和国が参加しました。のちに、ジョージアも参加し、合計12カ国となりました。
この国家連合の略称はCISといいます。英語のCommonwealth of Independent Statesの頭文字をとったものでした。ロシア語はつづりが違うため、ロシア語略称はСНГとなります。当初はEUのような強い国家連合を目指していました。しかし、足並みがそろわず実現に至りません。
独立国家共同体の創設を宣言したベロベーシ合意では、ソビエト連邦の消滅も宣言します。これにより、ソ連大統領だったゴルバチョフは完全に無力な存在となり、ソ連大統領を辞任します。
独立国家共同体の加盟国
独立国家共同体の中心となったのは
- ロシア
- ウクライナ
- ベラルーシ
の3国です。この3国はベロベーシ合意を行い独立国家共同体の創設に同意した国々でした。
このほか、
- カザフスタン
- トルクメニスタン
- ウズベキスタン
- アルメニア
- キルギス
- タジキスタン
- アゼルバイジャン
- モルドバ
が独立国家共同体に加わりました。これらは旧ソ連の構成国でもあります。
これに対し、参加しなかったのはバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)とジョージアでした。ジョージアは1993年に加盟します。その後、ロシアとの対立が原因でウクライナとジョージアが離脱しました。
成立のきっかけは保守派クーデタ
ペレストロイカに対する保守派の不満
ソ連の指導者ゴルバチョフ書記長は1980年代後半に社会主義体制を立て直す改革、いわゆるペレストロイカを実施しました。彼の目的は硬直化したソ連経済の立て直しです。同時にグラスノスチとよばれる情報公開を積極的に進めました。
ところが、ゴルバチョフの経済改革は市場経済の一部導入にとどまったため、かえってソ連経済は混乱してしまいました。これは、生産が滞り物価が高騰したためです。ゴルバチョフの改革に期待していた民衆は、ペレストロイカは失敗だと考えるようになり、強い失望感を抱きました。
こうした世論を背景に、保守派はゴルバチョフへの反発を強めます。また、ゴルバチョフの改革は社会主義体制を維持することが前提だったため、エリツィンなどの急進派は改革が不十分だとして批判しました。
バルト三国の独立宣言
1940年にソ連に併合されたバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)は、ソ連による併合は非合法だったとして独立を宣言しました。そのきっかけとなったのは皮肉にもゴルバチョフが推し進めたグラスノスチです。
過去の情報が開示されるにつれ、バルト三国はドイツとソ連の密約(独ソ不可侵条約に付属した秘密議定書)により併合されたことが明らかになりました。それを知ったバルト三国の人々は三国の首都を人間の手でつなぐ「人間の絆」を実行しました。
こうして、1990年3月、三国はそれぞれ国民投票を実施し、ソ連からの独立を決議します。バルト三国内の保守派や親ソ連派は暴動を起こして独立を阻止しようとしましたが失敗します。保守派はソ連軍の介入を要請しました。
クーデタの決行と失敗
バルト三国の独立宣言を受け、ゴルバチョフは彼らに妥協した新連邦条約の作成に取り掛かります。これに強い危機感を覚えたのが保守派でした。彼らはゴルバチョフが休暇でモスクワを留守にした機会を利用してクーデタを決行しました。
クーデタの中心人物はヤナーエフ副大統領、クリュチコフKGB長官、パブロフ首相、ヤゾフ国防大臣などです。彼らはゴルバチョフを滞在中のクリミア半島の別荘に軟禁し、国家非常事態委員会の設置と権力掌握を宣言しました。
ところが、ロシア共和国(ソビエト連邦内の共和国で、現在のロシアとは異なる)の大統領だったエリツィンが猛反発。彼は記者会見で国家非常事態委員会を認めないといいきりました。そして、自ら戦車に飛び乗りクーデタへの反対を訴えました。
これにモスクワ市民たちが呼応します。10万人ともいわれる市民たちがエリツィンへの支持を叫び、彼のもとに集まりました。また、全国各地でゼネストが発生します。結局、クーデタは市民の支持を得られず失敗に終わりました。