独立国家共同体(CIS)とは?加盟国やロシアとの違いをわかりやすく解説

独立国家共同体の創設を主導したのはエリツィン

エリツィンはロシア共和国大統領

保守派クーデタに立ち向かったエリツィン

エリツィンはソビエト連邦を構成する国で最大規模を誇るロシア共和国の大統領でした。ソビエト連邦はロシア共和国をはじめとする15の共和国による連邦国家です。そのため、ソビエト連邦の指導者のほかに各共和国の指導者もいました。

この当時、ソビエト連邦の指導者はソビエト連邦初代大統領となったゴルバチョフです。エリツィンはあくまでもロシア共和国だけの大統領でした。本来なら、連邦大統領よりも権限は下でゴルバチョフの指導の下、ロシア共和国での政治を行います。

そもそも、エリツィンはソ連共産党員でした。ゴルバチョフ政権下でモスクワ市第一書記となりますが、急進的な立場でゴルバチョフを批判し解任されます。1990年にソ連共産党を離党し、1991年6月のロシア連邦大統領選挙で当選しました。選挙で当選したエリツィンはロシアの民意を背景に保守派クーデタを鎮圧したのです。

3共和国がソ連の解体を宣言

ベロベーシでの合意内容にもとづき、独立国家共同体創設文書に署名する各国首脳

1991年12月8日、ロシアのエリツィン、ウクライナのクラフチュク、ベラルーシ(白ロシア)のシュシケビッチの3人がベラルーシ領のベロベーシの森に集まり、独立国家共同体の創設とソ連の解体を宣言しました。いわゆる、ベロベーシ合意です。

ソ連保守派のクーデタを事実上鎮圧したエリツィンはゴルバチョフに迫ってソ連共産党を解党させます。そして、3つの共和国はソビエト連邦からの離脱を宣言します。中核となっていた国が離脱したソ連は無力なものとなりました。万事休したゴルバチョフ大統領は12月25日に辞任します。こうして、ソ連は解体されてしまいました。

独立国家共同体とロシアの違いは?

ソビエト連邦に代わって成立した独立国家共同体とロシアは何が違うのでしょうか?一番の違いは領土です。独立国家共同体成立はあくまでも主権国家同士の緩やかな連合体です。かつてのソビエト連邦と異なり、ロシアが他の共和国を支配するという仕組みではありません。

ロシアと他の共和国はあくまでも別々の存在であり、政府や軍隊、立法組織などあらゆるものが別々です。したがって、他の共和国がロシアの指導に従わなければならないわけではありません。

ロシアは独立国家共同体の一部(というより、最強の国)ですが、独立国家共同体すべてがロシアの領土ではないのです。あくまでも、独立国家共同体は主権を持った国々が対等な立場で手を組む国家連合にすぎません。その点で、EUに近いと考えてよいでしょう。

独立国家共同体が弱体化した理由は?

ジョージア(グルジア)の脱退

ジョージアは南コーカサスにある独立国家です。2015年までグルジアとロシア読みで呼ばれていましたが、2015年以降、ジョージアと呼称するようになりました。ジョージアはソ連から独立した直後から国内の民族問題などが原因で内紛が絶えない国となります。

クーデタがおきた1991年以後、元ソ連外相のシュワルナゼが大統領の座につきます。それから2003年までは比較的安定していました。しかし、2003年に選挙の不正疑惑に端を発したバラ革命によってシュワルナゼは政権を追われます。その後も、ジョージアの政局は不安定でした。

戦闘で破壊されたジョージア軍の戦車

2008年、ロシアとの間で南オセチア紛争が勃発します。この戦いでジョージア軍はロシア軍に大敗し、首都トビリシ近郊のゴリまで攻め込まれました。この南オセチア紛争ぼっ発後、ジョージアは独立国家共同体から脱退しました。

ウクライナの脱退

オレンジ革命

ソ連崩壊後、ウクライナは独立国となりました。ウクライナでは親西欧派と親ロシア派が対立します。2004年の大統領選挙で親西欧派のユーシェンコと親ロシア派のヤヌコービッチが戦い、ヤヌコービッチが勝利しました。

不正選挙に抗議するウクライナ民衆

この結果に対し、野党は選挙に不正があったとして再選挙を要求します。勝利したヤヌコービッチとその後ろ盾となっていたロシア派強く反発しました。しかし、強い抗議行動に押され再選挙を認めます。再選挙の結果はユーシェンコの勝利となりました。

こうして、ウクライナで起きた政権交代は野党支持者が身にまとっていたマフラーの色からオレンジ革命とよばれます。革命後、ウクライナの新政権とロシアの関係は険悪化してしまいました。

クリミア危機

ロシアとウクライナ、クリミア半島の位置関係

ウクライナとロシアはクリミア半島の帰属をめぐって争っていました。2014年3月、ロシアは住民投票を強行し、ロシア系住民が多いクリミア半島をロシアに編入します。さらに翌月にはロシア系住民が多いウクライナ東部がウクライナからの分離独立を決定します。

当然、ウクライナ政府はクリミアのロシア編入も東部2州(ドネツク州とるルハーンシク州)の独立も認めません。そのため、ウクライナとロシアは戦争状態に突入しました。クリミア半島をめぐる対立をクリミア危機、東部2州関連の戦闘をウクライナ東部紛争と呼ぶことが多いです。

クリミア危機とウクライナ東部紛争はロシアとウクライナの関係を決定的に悪化させました。その影響で、ウクライナは独立国家共同体を離脱します。

独立国家共同体に関するまとめ

いかがでしたか?

今回は独立国家共同体についてまとめました。独立国家共同体は1991年12月にロシア、ウクライナ、ベラルーシの首脳がおこなったベロベーシ合意によって成立します。独立国家共同体の創設は同時にソ連の解体を意味しました。

創設のきっかけはソ連でおきた保守派のクーデタです。これをロシア共和国大統領のエリツィンが阻止したことで保守派が無力化し、ゴルバチョフの権威も低下しました。しかし、独立国家共同体はロシアとジョージア、ウクライナの対立により弱体化し、現在はあまり機能していません。

この記事を読んで、独立国家共同体とは何か、独立国家共同体に参加した国々、独立国家共同体成立の背景やロシアとの違いなどについて「そうだったのか」と思っていただける時間を提供できたら幸いです。

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