中華民国に対し二十一カ条の要求
二十一カ条の要求とは、第一次世界大戦下にあった日本が中華民国政府に対して、ドイツ権益を日本が引き継ぐことや、中国政府の顧問に日本人を雇用することなどを求めた、5項と21か条で構成された要求文です。しかし、その多くは度を越したものであり、特に第5項に含まれていた内容は、日本が国際的な非難を浴びる原因となりました。
日本は中華民国に対し第5項において、中華民国の政治・経済・軍事に関わる顧問や警察機関へ日本人を雇用することや、土地所有権、鉄道敷設権などを要求していたのです。当初、この内容は秘密条項として交渉されていましたが、中華民国の袁世凱は第5項の内容を国際社会に暴露。そして、国際的な批判を受けることになり、日本は二十一カ条の要求から第5項を取り下げることになりました。
最終的に、中華民国政府はその他の領土的要求を承認することになります。その結果、中華民国の国内では日本の要求を受諾したことに対する暴動や反対運動が巻き起こり、日中関係は悪化しました。また、この件を受けてアメリカやイギリスは、日本へ強い警戒心を抱き始めたのです。
シベリア出兵
第一次世界大戦末期にロシア革命が起こると、日本はイギリス、フランス、アメリカなどの連合国諸国と共同でシベリアへ出兵し、軍事干渉を実行。この干渉戦争は、ロシアの革命軍によってシベリアに抑留されたチェコ兵の救出という口実がありましたが、本当の狙いは革命政府ボリシェヴィキを打倒し、共産主義を封じ込めることにありました。
共産主義とは、平等で公正な社会を目指す思想である社会主義に含まれる思想の1つであり、私有財産を否定して貧富の差のない社会を実現しようとする思想です。ロシア革命を主導したソビエト連邦共産党の前身であるボリシェヴィキは、共産主義者による一党独裁政権の成立を目指しました。
1918年、日本とアメリカはシベリア出兵の内容に関して、日本が単独で進軍しないことと、両兵力は8000人程度とすることを取り決めます。そして、1919年に日本はアメリカと共に出兵しましたが、日本はアメリカとの協定を大幅に破る兵力を投入したのです。
ウラジオストクに上陸した日本軍は、ロシア極東部に位置するハバロフスクや東シベリアの一帯を占領。しかし、ソヴィエト政権を支持する赤軍パルチザンのゲリラ戦や極寒に苦戦し、多数の死者を出します。
その後、第一次世界大戦の停戦を受けて、1920年に日本以外の干渉軍は撤退を始めていましたが、日本軍は原敬内閣の意向で駐留を継続しました。そして、尼港事件が発生します。尼港事件とは、ニコラエフスクに駐屯していた日本軍の守備隊と居留民が赤軍パルチザンと衝突し、捕虜にされた日本人のほとんどが虐殺された事件です。
その結果、日本は報復として北樺太を占領。最終的に、日本がシベリアから撤退するのは1922年となりました。
第一次世界大戦が日本に与えた影響
ヴェルサイユ条約
ヴェルサイユ条約とは、第一次世界大戦の停戦後に開催されたパリ講和会議において、連合国とドイツの間で調印された講和条約です。この条約によって、敗戦国となったドイツは多額の賠償金や軍備制限、海外領土の放棄などが課せられました。
このパリ講和会議には、第一次世界大戦において連合国の勝利に貢献した日本も参加しています。そして、日本はヴェルサイユ条約によってドイツが保有していた山東省権益や、赤道以北に浮かぶ南洋諸島を委任統治領として譲り受けました。
その後、日本は1920年に発足した国際連盟の常任理事国となります。ヴェルサイユ条約を締結したパリ講和会議の結果、当時の日本はイギリスやフランス、イタリア、アメリカと並んで列強国の1つとして数えられるようになったのです。
戦後恐慌
戦後恐慌とは、戦争終結後に発生する反動的な景気後退です。この景気循環は日露戦争の後にも起こっていましたが、第一次世界大戦終了後も例外ではありませんでした。戦時中の日本は、世界有数の工業力を持つ近代国家として繁栄。そして、他の連合国諸国から軍需品の注文を受けるなど、大戦景気に沸いていたのです。
しかし、第一次世界大戦が終了すると、日本は戦後恐慌に見舞われて不景気に陥ります。終戦によってヨーロッパ列強が市場に復帰し、日本の輸出量が激減して余剰生産物が大量に発生した結果、株価の大暴落が起こったのです。
その中で、大戦景気を通じて事業を拡大していた中小企業の多くは倒産しましたが、逆に財閥系企業や体力のある大手企業は安定した収入の下でその地位を向上させ、独占資本を大きくしていきました。
その結果、1920年代の日本は不景気が長期化することになります。そして、1923年9月1日には関東大震災が発生。その後、1927年の昭和金融恐慌も重なったところへ、1929年にアメリカを発端とする世界恐慌が起こりました。第一次世界大戦後の日本は、度重なる経済的な危機に襲われたのです。
アメリカとの関係悪化
第一次世界大戦以降、アジア太平洋地域の利権を争っていた日本とアメリカの関係は次第に悪化していきました。そして、両者の対立は第二次世界大戦において全面戦争へと発展するのです。
戦後のヴェルサイユ条約によって、日本が山東省やパラオ、マーシャル諸島の統治権を獲得したことや、シベリア出兵を継続したことは、アメリカに対して日本への強い警戒心を抱かせました。その理由は、当時のアメリカが太平洋に浮かぶフィリピンやハワイに植民地を持っていたことや、中華民国への経済的な進出を狙っていたことにあったのです。
日本の領土拡大を受けたアメリカは、まずイギリスに圧力をかけて日英同盟を解消させました。その後、アメリカは人種差別を背景に日本は脅威であると国内を扇動。そして、排日移民法を制定して日本からアメリカへの移民を禁じました。
これに対し、日本国内では反米感情が高まり、同時にイギリスとの分断も行われた結果、日本はイタリア、ドイツと接近することになり、第二次世界大戦へと繋がるのです。
第一次世界大戦時の日本に関するまとめ
今回は第一次世界大戦時の日本について解説しました。
第一次世界大戦時の日本は、主に中国大陸を中心に戦線を展開しました。その中で、領土的野心を隠し切れなくなった結果、日本はアメリカやイギリスと次第に対立していくことになったのです。
この記事では第一次世界大戦時の日本について、開戦までの経緯から戦後の影響まで紹介しましたが、その後すぐに発生することになる第二次世界大戦時の日本について詳しく調べてみるのも面白いでしょう。
それでは長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。