第一次世界大戦をわかりやすく解説!原因や結末、影響も年表付きで紹介

第一次世界大戦の主な戦い

ここに世界最悪といわれた戦争の火ぶたが切って落とされた

第一次世界大戦は勃発後、アフリカや中東、アジア太平洋地域のドイツの植民地も戦争の舞台になりましたが、やはりドイツが東西に別れて連合国と応戦したいわゆる「東部戦線」と「西部戦線」が最も重大な戦闘といえるでしょう。これから東部と西部の戦線を解説します。

東部戦線

東部戦線のドイツ兵

1914年にドイツとロシアの間で、タンネンベルクの戦いという大決戦が起きます。ヒンデンブルグ将軍と参謀ルーデンドルフ率いるドイツ軍が大勝利を収め、以後ロシアは消極的な戦いを余儀なくさせられます。1915年にはポーランドのワルシャワを撤退しています。

以後も東部戦線は流動的に攻防を繰り返していましたが、1917年にロシア革命が起きてロマノフ王朝が倒れ、ロシアの新政府はブレスト=リトフスク条約終結して停戦し、これにて東部戦線は終わりました。

西部戦線

第一次世界大戦を印象付けた塹壕

一般的に「第一次世界大戦」というと西部戦線のイメージです。この西部戦線で第一次世界大戦の特徴でもある、塹壕戦(ざんごうせん)、毒ガス、戦車の登場などが見られました。

1914年頃には、フランスもドイツも自国の軍事力に自信を持っており、双方「クリスマスまでには戦争を終わらせて家に帰れるだろう」と思っていました。しかし確かに双方その自信に見合った軍事力を保持していたために、兵士たちの期待を裏切って泥沼化していったのです。

シェリーフェン・プラン

ドイツは西部戦線を想定して、「シェリーフェン・プラン」と呼ばれるプランを作成していました。それは戦争が起こった直後にベルギーを通過してフランス北東部に入り、その後に南部に入りパリを占領しようという作戦でした。

結果的に中立国としていたベルギーが「ベルギーは道では無い、国だ」といい、ドイツ軍と抗戦をしたことはドイツ軍にとって想定外でした。この戦闘の足止めにより長引いた分、連日の強行軍でドイツ兵も疲弊し、後の英仏戦に影響することとなります。

マルヌ会戦を描いたイラスト

当初はドイツが優勢でした。ドイツ軍はパリの近くまで迫りますが、パリの近くでフランス・イギリス連合軍に阻まれます。この戦いは「マルヌ会戦」と呼ばれます。この戦闘で両軍ともに大損害を受けドイツは侵攻を停止せざるえなくなり、ここで「塹壕戦」が始まります。南北に分断した塹壕によって分断されて、泥沼の戦闘を繰り広げられたのです。

ヴェルダンの戦いの様子、10か月に及んだ戦闘でも残ったのは疲労と悶着状態だった

そして長期戦に業を煮やしたドイツ軍は、フランス軍の要塞「ヴェルダン要塞」に戦闘をしかけました。この戦いを「ヴェルダンの戦い」といいます。戦いは10か月にも及び、第一次世界大戦でも最も長い戦いとなりました。双方の犠牲者は約70万人にも及んでいます。しかし勝負はつかず、悶着状態が続く状態でした。

アメリカ合衆国の参戦

ドイツ海軍「Uボート」

第一次世界大戦の戦闘が長引くにつれて、参戦諸国は国内事情が悪化していきました。そんな中で業を煮やしたドイツは、「無制限潜水艦戦」を発動させたのです。それは中立国の船であろうと撃沈させるという凶悪な戦術で、先制攻撃の効果は高いのですが、その代わりに中立国を敵に回してしまいました。

ドイツの「無制限潜水艦戦」の布告を受けて、ドイツの「Uボート」にアメリカ商船が犠牲となり、アメリカの世論がドイツに対する怒りを爆発させていました。

ウィルソン大統領率いるアメリカも連合国側として参戦した

そしてタイミングも悪く、ドイツがメキシコにアメリカが連合国側に参戦したら、メキシコは同盟国側に着くように秘密裏に打診していたことをアメリカに知られてしまい、ウィルソン大統領率いるアメリカは連合国側として参戦することとなってしまったのです。

ドイツ革命と終戦

長らく続く戦闘に前線のドイツ兵達の士気は下がっていった

ドイツ上層部はアメリカ軍が欧州に到来する前にフランスを倒したいという思惑がありました。しかし戦線が膠着していたために、フランスを倒すことができませんでした。東部戦線も和平に終わってしまったこともあり、兵士の士気もどんどん下がっていきます。

そして1918年春には、アメリカからの遠征軍が西部戦線に本格的に参戦し始めます。ドイツ軍の前線では既に銃弾や食料も尽き始めていて、補給もままならない状態でした。誰の目から見ても、ドイツの敗戦が明らかになってきていました。

ドイツ革命の様子

1918年11月には遂にドイツのキール軍港で一部の兵士が出撃命令を拒否し、これが波紋となって暴動となり、遂には革命が勃発しました。これが「ドイツ革命」です。皇帝ヴィルヘルム2世は11月9日にオランダに亡命し、11日にはドイツ臨時政府代表団が休戦協定に調印し、第一次世界大戦は終結しました。

第一次世界大戦の特徴

戦車などの新兵器が導入された

第一次世界大戦の特徴として、「総動員」の国民を巻き込む戦闘という以外に、「毒ガス」・「戦車」・「飛行機」といった兵器が使用されたことが挙げられます。

戦車の投入

ソンムの戦いで使用された「マーク1戦車」

1916年の9月の「ソンムの戦い」でイギリスの「マーク1戦車」が初めて実戦に投入されました。塹壕戦を一掃し、これまでの戦争の常識を塗り替えるのを目的に開発されたものでした。このことをきっかけに戦車が戦争で使用されるようになるのですが、「マーク1戦車」はまだ開発途中であったものを現場の指揮官が無理に出撃させたものだったために、多くの不具合が出て意外と大した活躍はできなかったそうです。

しかし大戦中も大幅に改良が加えられていきますが、第一次世界大戦は終結していまい戦車が主力として登場するのは、第二次世界大戦以降の事となりました。

毒ガスの使用

毒ガスを防護するガスマスクを装着した兵士たち

毒ガスは1915年4月から使用が始まり、11月の「イープルの戦い」でドイツ軍が使用し多くの犠牲者を出しています。当時の毒ガスはさほど威力は強くなく、ガスマスクも早期に導入されたために大局でさしたる影響はでませんでしたが、塹壕で戦う兵士たちに強い恐怖心を与えたといわれています。この毒ガスの後遺症で、後にドイツの総統となったアドルフ・ヒトラーも一時期失明したというエピソードもあります。

ドイツの総統アドルフ・ヒトラーも第一次世界大戦の毒ガスの被害者だった

そして毒ガスは助かっても失明などの後遺症が酷かったために、1899年のハーグ万国平和会議で禁止されていましたが、法的拘束力が無かったために列強諸国は遵守しませんでした。そして第一次世界大戦後も、ジュネーヴ協定で改めて毒ガスと細菌兵器などの化学兵器は禁止されることとなりました。

飛行機の活躍

イギリス空軍の飛行機

飛行機は第一次世界大戦の頃には、偵察や航空写真の撮影の為に使用されました。飛行機の軍事上の価値は大戦開戦時の1914年には見出されており、対空砲や戦闘機が開発されました。主な使用としてドイツが1915年から1916年にかけてイングランド空襲を行っています。

また西部戦線では、敵軍の動きを使うために使用されました。偵察を防ぐために、自軍の周りにパトロールの飛行機を飛ばしたりもしています。飛行機の使用は気づかれずに大軍を動かすことが不可能になったために、塹壕戦が膠着した一因ともなりました。本格的な使用は第二次世界大戦からとなります。

第一次世界大戦はどの様に終わりを迎えたのか?

戦争に対する多くの犠牲に参戦国は皆疲れ切っていた

第一次世界大戦は、約4年間という戦闘に国民は疲弊し、それぞれの国で戦争が続行できない状況が出てきたために最終的に停戦しました。どのような事情だったのかそれぞれの国に経緯がありますが、特に内政が激化したドイツとロシアとオーストリアの三国がどの様に終戦に至ったのかを見ていきます。

ドイツ帝国の崩壊と共和制の設立

ドイツの水兵反乱の様子

ドイツでは長引く戦闘により、政府に対する反感が強くなっていました。そして遂に1918年11月にキール軍港で水兵反乱が起き、水兵たちは無謀な出撃命令を拒否します。これがきっかけとして兵士と労働者の間で暴動が全国に広がっていき「ドイツ革命」と呼ばれる騒動に発展しました。

皇帝ヴィルヘルム2世は退位し亡命を余儀なくされた

暴動を抑えきれなくなったドイツは、戦争中止と皇帝ヴィルヘルム2世の退位を認めざる得なくなり、ドイツの帝政は崩壊しました。同日社会民主党が政府を設立し「ドイツ共和国」となったのです。こうして共和制となったドイツは、連合国と停戦協定を結び戦争を終結させました。ドイツの内情的にも戦争を続けることは困難となったのが理由です。

ロシア革命とソビエト連邦の方向転換

指導者レーニンは戦争中止を掲げた

第一次世界大戦の総力戦はロシアに大きな打撃を与えました。生活物資が不足し、人々は貧しい生活を強いられたのです。近代化が遅れていたロシアは総力戦に耐えられる国力が整っていませんでした。そんな中に指導者レーニンが「こんな愚かな戦争は止めるべきだ」と主張します。

ロシア革命の様子

そして1917年に「ロシア革命」が起こります。革命により「ソビエト政権」が樹立することとなりました。新政党は「平和・農民のための土地」を掲げたために、戦争を止めて平和を取り戻すことをスローガンとしており、宣言通りにソ連は1918年にドイツと単独講和を行い宣戦を途中で離脱してしまいました。

オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊と分裂

オーストリア・ハンガリー帝国は他民族国家だった

大戦が起こった頃のオーストリアは簡単にいうと「行き詰った多民族国家」でした。他民族ゆえに国語は行き渡っておらず同国でも言葉が通じない状態だったといいます。特権地位の少人数のドイツ人と他民族との軋轢により国内産業もドイツやフランスなどよりも大きく遅れをとっていました。

オーストリアとしては事件さえ起きなければ、セルビア問題は大きくならなかったといわれています。しかしオーストリアの領土が欲しいセルビアはロシアを後ろ盾に強気な姿勢にでます。セルビアを問題視するオーストリアに対してドイツを含めた列強諸国は消極的でした。そんなオーストリアにとって頭が痛い状況の時に、「サラエボ事件」が起きてしまいました。

オーストリアとイタリアの休戦協定が行われたテーブル

そして第一次世界大戦時は、同盟国側として東部戦線やイタリアと対戦しますが、イタリア戦線での敗退が続く1918年10月頃からオーストリアの諸民族が独立を宣言して内乱状態となりました。そして11月4日にオーストリアは休戦し、オーストリア・ハンガリー帝国は6つの国に分裂し、一部はイタリアとルーマニアに分譲されました。

第一次世界大戦の影響

身元不明の13万人が眠るフランス人墓地

長かった戦争が1918年の11月に終わりましたが、その後の戦後処理は大きな傷跡を残し、第二次世界大戦へと繋がることになりました。

第二次世界大戦をわかりやすく解説!きっかけや原因、年表も紹介

社会の傷跡

アメリカの退役軍人の冊子、失われた世代という価値観が生まれた

ペル・エポックの楽天主義は崩れ去り、戦争に参加した世代は「失われた世代」と呼ばれました。戦後長年にわたり、人々は死者を悼み、障害を負ったものを悲しみ続けました。多くの兵士は精神衰弱に陥り、故郷に戻った後も多くの兵士は戦争を語らなかったために「兵士の大半が精神的外傷を負った」という苦しみとトラウマを抱えるイメージが長らく定着することになります。

ドイツの不満

騎士(ドイツ兵)を社会主義者が妨害しているという背後の一突きのポスター

ドイツは戦後の民主化に拒絶反応を起こし、ユダヤ人や社会主義者が敗戦の原因だという「背後の一突き論」が盛んとなっていきます。大きな理由は、敗戦によるドイツのインフレ等の政情不安と、戦争責任を全部負わされたことへの拒絶であったと考えられています。

ドイツ国民たちは自身を被害者と捉え、後に台頭する「ナチ党」が心の隙間に入り込むこととなりました。第一次世界大戦の敗戦国への一方的な戦争責任の押しつけが、第二次世界大戦が引き起こされる下地となっていったのです。

経済への影響

ドイツからフランスに運ばれる物品賠償

第一次世界大戦の影響で国内総生産は、連合国の4か国(イギリス・イタリア・日本・アメリカ)では上がりましたが、ロシアとフランスは下がり、中央同盟国3か国(ドイツ・オーストリア・オスマン帝国)も大幅に下がりました。特にオーストリアは食肉がほとんど無い状態に陥っていました。イギリスもアメリカに借金をし、第一次世界大戦の負債をイギリスがアメリカに払い終えたのは2005年でした。

ドイツも戦争責任を受けることにより、多額の賠償金が課せられました。ドイツは世界で一番の大貧国となり、賠償金は紙幣だけでなく現物にも及ぶ過酷なものでした。途中第二次世界大戦があり、支払いが停止されていましたが1953年に支払いが再会し、ドイツが賠償金を支払い終わるのは2010年となりました。

大戦で好景気だった国も「世界恐慌」を起こし世界経済は大混乱した

また第一次世界大戦で起こった軍需需要で好景気だったアメリカが、1929年に「世界恐慌」を起こし、世界中の経済が大混乱を起こします。第一次世界大戦の経済影響は、後の「世界恐慌」を起こす原因となりました。

文化面への影響

「西部戦線異状なし」というドイツの長編小説が大ヒットした

第一次世界大戦下では、多くの戦争文学が花開くこととなりました。多くは従軍した経験を元に執筆したもので、代表的な作家に「戦争詩人」といわれたイギリスのオルフレッド・オーフェンがいます。フランスの文学賞も戦争期間中は全て戦争作品でした。

ドイツでも自然主義や表現主義の戦争文学に続いて、ハンスカロッサの「ルーマニア日記」やエーリヒ・マリア・レマルクの「西部戦線異常なし」に代表される新即物主義の戦場を描写した作品が出てきます。「西部戦線異常なし」は写実的な描写で描かれ、世界25か国語に翻訳され350万部の売り上げを記録しています。

戦争の様子を映画館で見ることができるようになった

美術においても、多くの従軍画家が参戦し、プロパガンダの戦争絵を描きました。また、これまでの戦争と異なり、ポスター・写真・映画を活したプロパガンダも描かれました。フランスを始め、多くの国で写真部・映画部のような部隊が設置されるようになり、プロパガンダの手段として写真や映画を利用するようになりました。

第一次世界大戦後は、各国で無声映画としてドキュメンタリー映画が放映されるようになります。現在も戦争の写真や映像を見ることが出来るのは、これらの画像や映像が残っているからです。

平和への努力

国際連盟が発足した

第一次世界大戦の戦争の被害が甚大だったために、国際社会で厭戦感が広がることとなりました。戦後の国際関係では、平和協調が提唱されるようになり、1919年に世界初の人類史上初である国際平和機構である「国際連盟」が発足しました。

1925年にはロカルノ条約、1928年には主要国で不戦条約が結ばれました。そして軍縮会議も行われるようになります。しかし、これらの努力もむなしく、戦後処理の失敗、戦後好景気の反動の世界恐慌、ブロック経済化、社会主義の勢力拡大など、世界の情勢不安定に見舞われ、イタリア王国のムッソリーニ率いるファシスト党、ドイツのヒトラー率いるナチスと「ファシズム」が台頭していくこととなりました。

ドイツもナチ党が政権を握った年に国際連盟を脱退した(写真は朝日新聞)

また国際連盟も提唱国であるアメリカを始めとする大国の不参加や脱退が相次ぎ、十分な機能を果たすことが出来ずに結果として第二次世界大戦の時に係争を果たすことは叶わずに終わってしまいました。

第一次世界大戦の年表

第一次世界大戦の流れを詳しく!

1914年:第一次世界大戦勃発

1914年8月4日時点の第一次世界大戦勢力図
  • 6月28日:サラエボ事件が起こる
  • 7月:約1か月に渡ってオーストリア・ドイツ・ロシア・イギリス・フランス間で外交交渉が行われ「7月危機」と呼ばれる
  • 8月1日:ドイツがロシアに宣戦布告
  • 8月2日:ドイツがフランスに宣戦布告
  • 8月4日:ドイツがベルギーに侵攻したことにより、ベルギーとイギリスが宣戦布告
  • 8月12日:オーストリアがセルビアに侵攻
  • 8月後半:フロンティアの戦いに連合軍敗れ、大撤退する
  • 12月24日:クリスマス休戦

1915年:クリスマスを過ぎても戦闘続く

東部戦線のガス攻撃の様子

1915年は西部戦線が悶着状態だったために、同盟国側は東部戦線の方に力を入れることとなりました。この一年は西部戦線は両軍一進一退を繰り返していました。

  • 1月31日:東部戦線のボリムフの戦い(独露戦)にて初めてドイツ軍が毒ガスを使う
  • 7月13日:ゴルリッツ=タルヌフ攻勢でドイツが勝利し、ロシア軍は大撤退を余儀なくされる
  • 8月4日:ドイツ軍ワルシャワを占領する

1916年:悶着した西部戦線に状況打破を狙う戦闘が続く

ヴェルダンの戦いの様子
  • 2月:ドイツは無制限潜水艦作戦を宣言する
  • 2月21日:ヴェルダンの戦い(仏独戦)が起こる
  • 7月1日:ソンムの戦い(英独戦)が起こる

1917年:イギリス軍が主導権を握り、アメリカが参戦する

アメリカのウィルソン大統領がドイツとの国交断絶を演説する様子
  • 4月6日:アメリカ合衆国が連合国側に参戦する
  • 5月3日:フランス軍大反乱が起き、フランス軍の戦意が大幅に喪失しイギリスに主導権が移る
  • 6月7日:メシニの戦い(英独戦)が起こる
  • 6月25日:アメリカから初めての兵が到着する
  • 11月20日:カンブレーの戦い(英独戦)が起こり初めて戦車が投入される

1918年:ドイツの春季攻勢そして後期の連合国優勢

11月11日に停戦を祝うアメリカ兵
  • 3月3日:ブレスト=リトフスク条約が結ばれ東部戦線は停戦する
  • 3月21日:ドイツ軍東部戦線の軍事力を投入し、ミヒャエル作戦で英仏の分断を狙う
  • 5月:アメリカ遠征軍が毎月30万人到着するようになる
  • 8月21日:第二次ソンム戦線が行われ、ドイツ軍は後退を余儀なくされる
  • 9月26日:アメリカ遠征軍が中心となり、ムーズ・アルゴンヌ攻勢が起こりドイツ軍は消耗していく
  • 11月11日:休戦協定を結び、第一次世界大戦終戦

第一次世界大戦に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?今回第一次世界大戦を執筆をさせて頂くにあたり、やはりヨーロッパが好きであり歴史が好きな筆者としては、書かせていただいて非常に嬉しく思っています。第一次世界大戦はヨーロッパの長年の歴史が積み重なった爆発であり、やはりヨーロッパ史で必ず振り返る大きな節目でもあります。

今回出来るだけ要約しましたが、「第一次世界大戦」は一つの戦いだけでも記事が書けそうなぐらい非常に多くの出来事が起きています。この記事では「第一次世界大戦」のあらすじを書いていますが、他の記事でもっと第一次世界大戦を掘り下げた記事がレキシルさんにはあります。そういった記事も読みながら、読んでいただけるとより一層分かりやすいと思います。この記事で少しでも「第一次世界大戦」が学びがあったという人がいれば、これ以上の光栄はありません。長い記事にお付き合い頂きありがとうございました。

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17 COMMENTS

胃もたれナウ

歴史にドキリでした!!!!!!!1111!!11111!!!!!!

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馬鹿です

分かりにくかった!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

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YS

第一次世界大戦について、当時のヨーロッパは帝国主義政策の国家であったのが大戦につながった大きな要因で有ることが解りました。

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僕のひいおじいちゃんは沖縄戦で戦艦大和に乗りました

これからも頑張ってください
あともう少しでクリスマスですね」

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匿名

分かりやすくて最高でした。
年表と背景や概要を同時に記載するすのは難しいですね。
ぜひ、他の歴史も執筆して下さい。

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