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第二次世界大戦を分かりやすく解説!開戦理由や結末、その後の影響も紹介

「第二次世界大戦っていつどこで始まったの?」
「どんな戦争だったの?日本の関わり方は?」
「第二次世界大戦って太平洋戦争のこと…?」

「第二次世界大戦」という言葉は知っていても、その実態はよくわからないという人が結構います。

近現代史は学校の授業でもあまり扱う時間がないため、大学受験で世界史を選択しない限り、第二次世界大戦について勉強する機会がないまま今に至る人も多いと考えられるので、ある意味当然かもしれません。

第二次世界大戦は、主にドイツが引き起こしたヨーロッパ戦線と、主に日本が引き起こした東アジア・太平洋戦線の二つがあります。しかしこの二つは独立したものではなく、戦線の拡大とともに様々な国同士の関係が複雑に絡み合い、世界大戦にまで発展してしまったのです。

この記事では、第二次世界大戦が起きた原因や大まかな流れ、日本との関わり、第一次世界大戦との比較を通して、第二次世界大戦を俯瞰していきます。太平洋戦争というとどうしても日本主観でのみ考えがちですが、この記事では日本も第二次世界大戦に参戦した国の一つとして扱っています。

第二次世界大戦を大局から捉えることで、学べることもきっとあるはずです。それでは一緒に見ていきましょう。

第二次世界大戦とは

枢軸国 vs 連合国

第二次世界大戦について

第二次世界大戦は、1939年9月から1945年8月まで、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国とイギリス・フランス・中国・ソ連・アメリカなど連合国との間で起きた、世界的規模の戦争です。

もともとはドイツのポーランド侵入と、これに対するイギリス・フランスの対ドイツ宣戦により勃発しましたが、1941年12月に日本のアメリカ・イギリスとの宣戦により世界大戦に発展します。

1943年9月にイタリアが、1945年5月にドイツが、1945年8月に日本が降伏して終わりを迎えました。

第二次世界大戦の呼び名

「第二次世界大戦」というと、欧州戦線のことをイメージする人が多いかもしれません。日本でよく使われる「太平洋戦争」という呼称は、第二次世界大戦の一局面です。その名の通り太平洋を中心にした日本と連合国軍との戦いについて説明するために使われる言葉です。

なお、「太平洋戦争」のことは「大東亜戦争」とも呼ばれていましたが、これは1941年12月の閣議で決められた呼称です。

しかし戦後、GHQから「大東亜」といった戦時用語の使用を避けるように通達があったこと、またアジア諸国への侵略という一面も表すべきだとして、「アジア・太平洋戦争」という表記が提唱されるようになっています。

ちなみに「太平洋戦争」という呼称は、世界史上では、1865年のチリとペルーによるスペインとの戦争や、1879年にチリに対してペルーとボリビア両国が争った戦争を指します。

1879年の太平洋戦争

第二次世界大戦のきっかけ、原因

まずはなぜ第二次世界大戦が起こってしまったのか、そのきっかけや原因をみていきましょう。

追い詰められていたドイツ

ことの発端は当時のドイツ情勢にあります。第一次世界大戦の敗戦国となったことで、ドイツは多くの負荷を背負っていたのです。

奪還したいダンツィヒ

現在のグダンスク

ダンツィヒとは現在のポーランドにあるグダニスク(グダンスク)のことで、ドイツ語ではダンツィヒと表記されます。ここはバルト海に面している海港都市で、中世より繁栄していました。

19世紀にはドイツの貿易港となっていましたが、第一次世界大戦に敗北したドイツは、ヴェルサイユ条約によりダンツィヒを奪われ、事実上ポーランド領となっていました。

ドイツにとって、ダンツィヒはどうしても取り戻したい都市でした。そこでダンツィヒ奪還のため、ドイツ軍はポーランド侵入をすることになります。

軍備制限からの再軍備とラインラント進駐

現在のラインラント

ヴェルサイユ条約でドイツは厳しい軍備制限下に置かれることになりました。これは第一次世界大戦で敗戦国となったドイツを押さえ込む目的でしたが、この厳しすぎる制限が逆にドイツの国家主権の侵害に当たると訴えるナチスの台頭に繋がり、ドイツは再軍備宣言をすることになるのです。

そしてヴェルサイユ条約で、ドイツ領内なのに非武装地帯と定められていたラインラントに、ドイツ陸軍は軍隊を進駐させます。

ヒトラーは、イギリス・フランスの事情を考えると反撃してくることはないのでは?という「賭け」に出たのです。この予想が見事的中し、ヒトラーは国民の絶大な支持を得ることになるのです。

もしこの時、フランスがラインラントに軍を送っていたなら、再軍備したばかりのドイツ軍は負け、ヒトラーも失脚して第二次世界大戦は起こらなかったかもしれない、とも言われています。

莫大な賠償金

ドイツは第一次世界大戦の敗戦国として、ヴェルサイユ条約において1320億金マルク(日本円で約200兆円)の賠償金支払いを背負いました。この賠償金完済がつい最近の2010年であったことを考えてみても、尋常ではない金額の賠償金であったことがわかります。

ドイツは第一次世界大戦の影響で国は荒廃し、経済状況も悪く、とても賠償金を払う余地はありませんでした。そのため、賠償金支払い滞納を理由にフランスとベルギーは、ルール地方というドイツ西北部の炭鉱地帯でありヨーロッパ有数の工業地帯を占領してしまいます。

ルール占領

これに対しドイツは、労働者が生産を行わないサボタージュを断行して抵抗します。その結果ドイツの生産力が低下してインフレーションが起こり、ドイツ経済は危機に瀕してしまいます。

ドイツに救いの手を差し伸べたのはアメリカでした。アメリカがお金を貸すことでドイツ経済の復興とイギリス・フランスへの賠償金支払いが可能となったのです。これで上手くいくと思ったところに起きたのが、1929年の世界恐慌でした。

世界恐慌による深刻な経済危機

ウォール街の株価大暴落

世界恐慌が起きたのは1929年10月、ニューヨーク株式市場の株価大暴落がきっかけでした。当時アメリカは世界の債権国となっていたこともあり、影響はアメリカ国内に留まらず、世界中に波及していきます。

イギリスやフランスは、この危機を打開しようとブロック経済を作りました。これは本国と植民地や自治領を囲い込み、他からの輸入を制限するというものでした。イギリスやフランスのように植民地を領有している国は問題ありませんでしたが、そうではない国はブロック経済に阻まれて、国際貿易ができずに経済的に苦しむことになりました。

ドイツや日本がまさにその「経済的に窮地に立たされた国々」でした。両国とも軍事力を使って領土を拡大することで、この問題を解決しようとします。植民地を得ることで自給自足を目指そうとしたのです。

ヴェルサイユ体制の崩壊

ヴェルサイユ条約

ヴェルサイユ体制とは、ヴェルサイユ条約によって決められた、ドイツの封じ込めを目指す国際的体制のことです。ヴェルサイユ条約の規定により、史上初の国際平和機構である国際連盟が作られ、世界の平和維持を目指しました。日本は常任理事国となり、新渡戸稲造は国際連盟事務局次長を務めています。

しかしドイツは再軍備化を進め、1933年に国際連盟を脱退します。日本も満州国からの撤兵を勧告されたことで国際連盟を脱退しました。また、植民地を増やそうとしていたイタリアも、諸外国の非難を浴びることになり、1937年に国際連盟を脱退しました。

国際的に孤立を深めた日本・ドイツ・イタリアは日独伊三国防共協定を結び、枢軸体制が出来上がります。ここにヴェルサイユ体制は崩壊したのです。

ミュンヘン会談

ミュンヘン会談

第二次世界大戦への道が決定的になったと言われているのが、1938年9月に行われたミュンヘン会談です。ドイツが、ドイツ人が住民の多くを占めているチェコスロバキアのズデーテン地方を割譲するよう要求したのに対して、イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの首脳が集まって会議を行いました。

チェコスロバキアにとってズデーテン地方は、地下資源もあり工業地帯でもあることから自国経済の要であり、おいそれと譲れる場所ではありませんでした。一方、「民族自決」を掲げるヒトラーにとって、ズデーテン地方をドイツに割譲することは理にかなったことだったのです。

結果的にイギリスのチェンバレン首相による宥和政策により、ズデーテン地方はドイツに併合されました。この背景にチェンバレン首相が最大の敵をソビエト連邦と見ていたという事情があります。ドイツや日本は、ソビエト連邦を抑えるために利用しようとしていたのです。

一方ヒトラーは、イギリスがソビエト連邦を警戒している限り、自分の要求が通ると考えていました。その結果がこのミュンヘン会議だったのです。

この会議の問題は、出席者にもありました。まず、当事者であるチェコ代表のベネシュ大統領が呼ばれていなかったことです。フランスと相互援助条約を結んでいたにも関わらず会議に出席できなかったチェコは、フランスとの関係も解消してしまいます。ドイツにとって、チェコがフランスと手を切ったことは好都合でした。

そしてフランスと同盟関係にあったソビエト連邦も会議に呼ばれませんでした。ソビエト連邦最高指導者スターリンはフランスとの決別を決め、ドイツに接近していきます。これが後に独ソ不可侵条約に繋がっていくのです。

当時まだ下院議員であった、後のイギリス首相チャーチルは、この知らせを聞いて第二次世界大戦は避けられないものになったと嘆いたと言われています。

第二次世界大戦の特徴

交戦地域が広い

第一次世界大戦の場合、主な戦場はヨーロッパのみでしたが、第二次世界大戦はヨーロッパだけでなく、アジアや太平洋地域も広く戦場となってしまいました。地図で日本軍が進出した地域を改めて確認してみると、その広大さには愕然とします。

太平洋戦争での日本軍の進出地域

レジスタンス運動

レジスタンスとはフランス語で「抵抗」という意味ですが、特に第二次世界大戦中のナチス・ドイツ占領下におかれた地域での抵抗運動を指す場合が多いです。フランスにおける「自由フランス運動」がその典型例と言われます。

第二次世界大戦中はフランス以外でもレジスタンス運動が起こりました。権力者へ立ち向かう運動とあって多くの悲劇が生まれ、それにまつわる小説や映画などが数多く作られています。

レジスタンス&強制送還博物館

エニグマ暗号機

第一次世界大戦当時から暗号は使われていましたが、第二次世界大戦でドイツが使用していたエニグマ暗号機は解読が難しく、連合国側は当初かなり苦悩しました。しかし、ドイツの侵攻を受けていたポーランドで始まった解読作業をイギリスが引き継ぎ、ついに1940年、数学者のアラン・チューリングが解読に成功します。

エニグマの通信文を解読するため、イギリス暗号解読センターでは「ボンブ」という装置を開発しました。そしてエニグマがさらに複雑になると、「コロッサス」というコンピューターの先駆けになる機械を作ります。この研究はその後のコンピューターの発達に大きく寄与することになるのです。

エニグマ暗号機

第二次世界大戦の年表

第二次世界大戦中のヨーロッパ地図

1939年 第二次世界大戦勃発

ドイツのポーランド侵攻

9月1日 ドイツがポーランド侵略開始
9月3日 イギリス・フランスがドイツに宣戦布告
9月17日 ソビエト連邦、東部ポーランドに侵攻
11月30日 ソビエト連邦がフィンランド侵略開始

1940年 ドイツ・イタリアの快進撃

4月9日 ドイツがデンマークとノルウェーに侵攻開始
5月10日 ドイツがオランダ・ベルギー・ルクセンブルクに奇襲攻撃開始
6月4日 イギリス・フランス軍による、ダンケルクからの奇跡の撤退作戦完了

ダンケルク撤退作戦

6月10日 イタリアがイギリス・フランスに宣戦布告
6月14日 ドイツ軍がパリに無血入城
7月10日〜10月31日 ドイツ軍によるイギリス本土航空戦
8月 ソビエト連邦が「バルト三国」と呼ばれるリトビア・ラトビア・エストニアを併合
9月13日 イタリアが植民地リビアよりエジプトへ侵入
9月27日 日独伊三国同盟締結
10月28日 イタリアがアルバニアからギリシャへ侵攻

1941年 戦線の拡大

4月6日 ドイツ軍がギリシャ・ユーゴスラビアへ攻撃開始
6月22日 ドイツがソ連に侵攻
12月8日 日本軍がマレー半島上陸、真珠湾攻撃を仕掛け、アメリカ・イギリスに宣戦布告

真珠湾攻撃

12月11日 ドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告

1942年 連合軍の反撃が始まる

1月20日 バンゼー会議にてナチス指導者はユダヤ人殺害を決定
6月5日 アメリカがミッドウエー海戦で日本海軍を破る
8月22日 ドイツがスターリングラード猛攻撃開始

現在のヴォルゴグラード(スターリングラード)

10月23日 連合軍、北アフリカのエル・アラメインで反撃

1943年 枢軸軍の崩壊

2月2日 スターリングラードで戦っていたドイツ軍が降伏
5月13日 ドイツ軍、北アフリカ戦線で降伏
7月10日 連合軍、シチリア島に上陸
7月25日 イタリアのムッソリーニ首相が失脚
9月8日 イタリア降伏
11月6日 ソビエト連邦がキエフを解放
11月22日 ルーズヴェルト・チャーチル・蒋介石によるカイロ会談

カイロ会談

11月28日 ルーズヴェルト・チャーチル・スターリンがテヘランで会談

1944年 追い詰められるドイツ

6月4日 アメリカ・イギリスによるローマ解放
6月6日 ノルマンディー上陸作戦開始

ノルマンディー上陸作戦

8月1日 ワルシャワ蜂起
8月25日 パリ解放
8月29日 スロバキア民族蜂起
9月9日 フランスでド・ゴール臨時政府樹立

1945年 終戦へ

1月12日 ワルシャワ解放
2月13日 ソビエト連邦軍がブタペストを解放
2月19日 硫黄島の戦い開始
4月1日 アメリカ軍、沖縄上陸開始
4月13日 ソビエト連邦軍、ウイーン占領
4月16日 ソビエト連邦軍によるベルリン攻撃開始
4月28日 パルチザンによりムッソリーニが銃殺される
4月30日 ヒトラー自殺
5月7日 ドイツが連合国に対し無条件降伏
7月26日 ポツダム宣言発表
8月6日 広島に原子爆弾投下

原爆ドーム

8月8日 ソビエト連邦が日本に宣戦布告、満洲へ侵攻
8月9日 長崎に原子爆弾投下
8月15日 日本がポツダム宣言受諾、無条件降伏

第二次世界大戦の大まかな流れ

ドイツの快進撃

第二次世界大戦は1939年9月にドイツのポーランド侵略より始まりました。「電撃戦」という、無線通信や空軍を絡めて進軍スピードを速くし、敵の指揮系統を混乱させて総崩れに持ち込む作戦で、ドイツは勝利を収め、ポーランドを制圧します。

ヒトラーはこの時点でイギリス・フランスとの和平交渉をしようとしていました。なぜなら、ヒトラーの目的は第一次世界大戦で失った領地を奪還することだったからです。

しかしイギリス・フランスは和平の呼びかけに応じず、かといって国境を突破しようともしない、いわゆる「奇妙な戦争」を続けました。この状況を打ち破ったのがソビエト連邦です。バルト三国の占領など、破竹の勢いで戦線を拡大するソビエト連邦の様子から、ドイツも和平を諦め、資源確保のための交易路としてデンマーク・ノルウエー制圧を進めていきます。

そして1940年にはオランダ・ベルギー・フランスへの侵攻を始めました。

アルデンヌの森

天然の要害と思われていたアルデンヌの森を、ドイツ軍は持っている戦車の7割以上を投入して突っ切り、フランス軍の意表をついて攻め込んだことをきっかけに勢いに乗ったドイツ軍は、ベルギーを降伏させました。

総崩れを起こしたイギリス・フランス連合軍は撤退のためにダンケルク港へ集結します。ここでドイツ軍が撤退するイギリス・フランス軍を殲滅していたならば、もしかしたら第二次世界大戦はドイツの勝利で終わっていたかもしれません。

しかしヒトラーは奇妙なことに追撃停止命令を出します。おかげでダンケルクから35万もの将兵が脱出に成功しました。とはいえ、ドイツの勢いは続き、今度はフランス本土へ進撃を開始します。6月14日にはパリに入城することになるのです。

フランス降伏

フランス領内に攻め込むドイツの様子を伺っていたイタリアは、6月10日にイギリス・フランスに宣戦布告します。そして6月22日、フランスはドイツに降伏しました。

エッフェル塔を訪れるヒトラー

ドイツがオランダ・ベルギー・フランスを制圧するまで、わずか45日間でした。この勢いに世界中が動揺し、日本国内でもドイツと軍事同盟を結んでアメリカやイギリス勢力を叩き潰すべしとの声が高まり、「バスに乗り遅れるな」というスローガンが広まりました。

ドイツ占領下のフランスでは、工業製品や資源はドイツに収奪され、労働力も奪われ、インフレも進み、苦しい生活が続きました。そのため、国民の間でレジスタンスが密かに組織化されていくのです。

イギリスの抗戦

ヒトラーは次にイギリス占領を計画します。和平案もありましたが、イギリス国内では徹底抗戦の意思が強く、断念されます。7月10日よりドイツ空軍によるイギリス本土襲撃が始まりました。

これまでの侵攻作戦で数多くの戦果をあげているドイツ空軍に対し、イギリス空軍は世界に先駆けてレーダーを軍事用に開発しただけでなく、戦闘機ホーカー・ハリケーンに加え、後に救国戦闘機と呼ばれた傑作スーパーマリーン・スピットファイアーで迎え撃ちます。

スーパーマリーン・スピットファイアー

“Battle of Britain” と呼ばれるこの航空戦は、イギリス軍だけでなく一般市民も敵軍観察など様々な協力をしたことでドイツ軍に屈服せず、本土を守りきります。最終的にはヒトラーが無期限延期を決めたことでこの戦いは終わりを迎えました。ドイツの快進撃が止まった、大きなターニングポイントとなりました。

ドイツのソ連侵攻

ヒトラーの視線はイギリスからソビエト連邦へ移ります。1941年6月22日、独ソ不可侵条約を破って奇襲をかけたのです。始めのうちはドイツの電撃戦を前にソ連軍の敗走が続きます。しかしそんなソ連軍を救ったのは本格的な冬の訪れでした。

場所によっては零下50度という厳しい寒波に見舞われ、冬服を支給されていなかったドイツ軍は戦うどころではありませんでした。戦車のエンジンはかからず、パンは凍って斧でないと割れず、ドイツ軍は撤退を余儀なくされたのです。

現代の冬のモスクワ風景

日本の宣戦布告

1941年12月8日、日本海軍はアメリカ太平洋艦隊が停泊する真珠湾を奇襲攻撃します。また、南方作戦も同時進行し、マレー半島でシンガポール島攻略のための上陸作戦も始まります。

この時点で第二次世界大戦の戦場は、大西洋・地中海・ヨーロッパ大陸・北アフリカ・中国大陸・東南アジア・太平洋と広大な地域に拡大しました。当初日本軍は零戦の活躍もあり、比較的優位に戦いを進めていましたが、1942年6月5日のミッドウエー海戦での敗北が転機となり、戦争は泥沼化していきます。

零戦

第二次世界大戦の分岐点

1942年はヨーロッパ戦線も、連合軍の大勝利で形勢が逆転した年となりました。

北アフリカ砂漠ではエジプトのエル・アラメインでイギリス軍がドイツ軍を破ってチュニジアまで敗走させました。そしてモロッコやアルジェリアに上陸していたアメリカ軍がチュニジアで挟撃し、北アフリカにいたドイツ軍は1942年5月12日に降伏しました。

エル・アラメインの戦いにおけるイギリス軍

東部戦線では、ソビエト軍がスターリングラードのドイツ軍と半年以上激闘し、1943年1月にヒトラーの玉砕命令によって終結を迎えました。

同じ頃、日本軍はガダルカナル島でアメリカ・オーストラリア連合軍に追い詰められ、撤退を開始しています。

イタリア降伏・ドイツ本土への空襲・フランス解放

イタリアは、1943年7月にムッソリーニ総統が失脚、9月8日に無条件降伏しました。ドイツ本土への爆撃をしていたイギリスに、アメリカが加わったのは6月あたりからです。

ムッソリーニ

そして1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦が開始されます。規模からも史上最大の上陸作戦と言われたこの戦いは、ドイツ軍も善戦しましたが撤退させることに成功し、第二次世界大戦終結への道を切り開きました。連合軍によるパリ入場は8月25日のことでした。

ドイツ降伏

ドイツ軍の最後の反撃は1944年末に起きたバルジの戦いでした。ドイツ軍が一旦は攻勢に出るも、最終的には連合軍に完敗します。ソビエト連邦軍がベルリンに進撃し、占領したのは1945年5月2日のことでした。4月30日にヒトラーは自殺しており、ドイツ軍は連合国への無条件降伏に署名しました。

ヒトラー自殺を報じる新聞

ポツダム宣言受諾

ドイツが無条件降伏した頃、日本では全国で絶望的な戦いを強いられていました。硫黄島がアメリカ軍に押さえられて以来、硫黄島から飛来する本土爆撃は本格化しており、連日にわたり特攻隊が出撃し、4月7日には戦艦「大和」が撃沈されています。沖縄では地元民を巻き込んだアメリカ軍との死闘が続いていました。

7月26日、ポツダム宣言が発表されます。「日本に戦争を終結する機会を与える」というものでしたが、当時の首相鈴木貫太郎は「ポツダム宣言の黙殺と戦争邁進」を表明します。

8月6日には広島へ原爆が投下され、9日には長崎へも原爆投下、そしてソビエト連邦軍が満洲国への侵攻を開始しました。この時点でようやく御前会議にてポツダム宣言受諾という天皇の聖断が下されました。日本の無条件降伏が発表されたのは8月15日のことでした。

第二次世界大戦と日本の関係性

昭和恐慌から満州事変へ

1920年代、第一次世界大戦後の恐慌や関東大震災をきっかけに起こった金融恐慌などの影響もあり、日本の国際収支は悪化の一途を辿っていました。そこで1930年1月に金の輸出解禁を行い、為替相場を安定させて輸出を促進し、景気回復を狙ったのです。

しかし運の悪いことに1929年10月に世界恐慌が起こり、日本は輸出促進どころか激減して輸入超過となり、金が流出する事態に陥ります。昭和恐慌です。

昭和恐慌がもたらした娘の身売りと欠食児童問題

この深刻な経済危機打開のためにも、日本は権益を確保する必要があると考えた関東軍が、奉天郊外で満鉄を爆破する柳条湖事件を起こして軍事行動を開始し、満州主要部を占領しました。これは満州事変と呼ばれています。

国際協調体制からの離脱

中国は、満州事変は日本の侵略行動であると国際連盟に提訴しました。はじめは局地的な事件として楽観視していた諸外国も、次第に不信感を強めていきます。国際連盟はリットン調査団を派遣し、調査に乗り出します。しかし日本は、リットン報告書が発表される前に日満議定書に調印します。満州国を既成事実化したのです。

柳条湖事件を検証するリットン調査団

当時ヨーロッパではドイツでナチスが台頭しており、国際連盟が安全保障の生命線と考える国も多く、日本の武力行使によって建国された満州国に対して反発の声も多く挙がります。その結果、国際連盟臨時総会では日本軍の撤退などを勧告した決議案が可決されます。

1933年3月12日、日本は国際連盟脱退を通告しました。日本は満州国を維持しつつ、イギリス・アメリカ・ソビエト連邦などの大国とは個別に関係を修復して、国際関係を新たに構築しようとしたのです。

日中戦争

1937年7月7日、盧溝橋事件が発端となり、日中戦争が始まります。日本政府は当初、事件不拡大の方針でしたが、中国で広がっていた抗日運動を押さえ込むためにも強硬すべきという意見が出るようになり、戦線は拡大していきます。

現在の盧溝橋

アメリカからの軍需物資の輸入に頼っていた日本は、宣戦布告をせずに日中戦争を始めました。もし宣戦布告をして国際法に則った戦争となれば、アメリカが中立を宣言して軍需物資の輸出を止める可能性があったからです。

もちろんアメリカも、日本との悪戯な関係悪化は望んでいませんでした。しかし1938年11月に日本が東亜新秩序声明を発すると、アメリカはこれを東アジアからの欧米勢力の排除とワシントン体制の否定と捉え、1940年7月、日米通商航海条約の廃棄を通告してきます。日本への経済制裁を考え始めたのです。

ソ連との軍事衝突

この頃の日本外交の軸として、極東におけるソビエト連邦やコミンテルンの脅威を排除するというものがありました。満州事変での関東軍の行動もこれに即したものです。そして1937年には日独伊防共協定を結びました。

1936年に締結された日独防共協定の日本語原本

こうした流れの中で、ソビエト連邦軍とは軍事衝突も起こりました。中でも1939年5月から始まった、満州国とモンゴルの国境紛争であるノモンハン事件は、関東軍が陸軍中央部の制止を振り切ってソ連軍と戦闘を行い、敗北を喫しています。

1939年9月、ヨーロッパにて第二次世界大戦が勃発します。しかし日本政府は、イギリス・アメリカとの対立を避けるため、日中戦争の解決に専念する姿勢を見せました。

北部仏印進駐

1940年1月、日米通商航海条約が失効すると、軍需物資の確保が困難になってきます。資源確保のために陸軍は南進政策を主張、1940年9月に北部仏印進駐を行います。

南進論

日独伊三国同盟と日ソ中立条約

1940年9月、日独伊三国同盟を結びます。南進政策を本格化させるにあたり、アメリカとの関係が悪化することを恐れ、枢軸国としての結束を高めようとしたのです。

日独伊三国同盟を宣伝する葉書

そして北方の脅威をなくそうと、1941年4月に日ソ中立条約を締結しました。ソビエト連邦にとっても、ドイツと険悪な関係にある以上、日本とは戦争をしたくないという事情があったのです。

日米交渉の難航

日ソ中立条約締結は、日本の南進を助けるものだとし、アメリカは警戒を強めていました。日本は、特に海軍がアメリカとの戦争は避けるべきだと主張しているだけでなく、近衛文麿首相も日米交渉継続を訴えていました。

近衛文麿

ところが南部仏印進駐計画が明らかになると、アメリカは在米日本資産を凍結します。そして南部仏印進駐が開始されると、対日石油輸出を全面禁止し、アメリカ(America)・イギリス(Britain)・中国(China)・オランダ(Dutchland)によるABCD包囲陣で対日経済封鎖をしたのです。

太平洋戦争

日本は1941年11月の御前会議で、開戦準備と対米交渉を並行して進めることを決定します。11月26日、アメリカの最後通牒ともいえるハル=ノートが提示されました。日本に満州事変以前の状態に戻すよう書かれた内容に、妥協できないと判断した日本政府は、12月1日、御前会議でアメリカ・イギリスとの開戦を決定するのです。

ハル=ノート

ここで太平洋戦争が勃発しますが、第二次世界大戦という枠組みで見てみると、日本の参戦はヨーロッパにおいて枢軸国側が徐々に勢いをなくしていく時期にあたりました。1943年にイタリアが無条件降伏するとドイツ軍も更に苦しい戦いに追い込まれ、1945年5月にドイツが無条件降伏すると、連合国の目は日本に集中することになります。

ポツダム宣言

ドイツ降伏後、アメリカ・イギリス・中国は日本にポツダム宣言を通告します。日本はこの降伏勧告を受け入れなかったため、広島・長崎へ原爆が投下され、ソビエト連邦軍の満州国への侵攻が始まりました。結果的にはこれによって終戦の決断が下され、日本はポツダム宣言を受諾することになるのです。

ポツダム会談

第一次世界大戦と第二次世界大戦の比較

第一次世界大戦とは

第一次世界大戦は帝国主義列強の国際対立を背景にし、1914年6月にボスニアのサラエヴォ訪問中のオーストリア皇太子がセルビア人に暗殺されたサラエヴォ事件をきっかけにして、7月28日に開戦しました。

ドイツ・オーストリアなど4ヵ国の同盟国と、イギリス・フランス・アメリカ・ロシアなど27ヵ国の連合国との世界戦争に発展し、戦闘を維持するために軍人だけでなく民間人も経済や産業面で戦争に協力せざるを得なくなり、総力戦となりました。

第一次世界大戦は、革命をきっかけにロシアが連合国陣営から離れ、ドイツも革命が起きたため1918年11月11日に休戦協定を締結します。1919年のヴェルサイユ講和条約では、国際的に平和を維持する機関として国際連盟が発足しました。

国際連盟加盟国

使われた兵器の比較

第一次世界大戦

第一次世界大戦では様々な新兵器が登場して兵士たちを苦しめました。中でも戦闘機・潜水艦・戦車・化学兵器について見ていきます。

飛行機の発明は20世紀初頭です。そのため、第一次世界大戦開始当初は偵察が任務でした。始めのうちは、偵察飛行をしている敵味方それぞれが、遭遇すると手を振って挨拶をしていたという微笑ましいエピソードがあるぐらいです。

しかし、偵察されたということは、敵に攻撃を仕掛けられることを意味する訳で、次第に偵察機を撃墜させるための戦闘機が登場し始めます。第一次世界大戦末期には航空母艦も使われ始め、制空権をめぐる戦いが始まりました。

潜水艦はドイツで開発が進み、Uボートと呼ばれました。主に通商を破壊するために使われ、潜航したまま警告もなしに民間船を撃沈させました。Uボートによってイギリスは甚大な被害を被ります。

Uボート

無限軌道(キャタピラ)付きの戦車も登場します。第一次世界大戦最大の戦いといわれるソンムの戦いで初投入されましたが、敵味方合わせて100万人以上という犠牲者を出しながらも勝敗が決まらない消耗戦となりました。この戦場跡は有毒ガスや不発弾がまだ残り、人が生活できない場所として今も立ち入り禁止区域です。

化学兵器が使われたことも第一次世界大戦の大きな特徴です。しかし現在では化学兵器禁止条約(CWC)において、開発・生産・保有が禁止されています。

第二次世界大戦

第二次世界大戦ではそれぞれの兵器の性能が更に上がります。そしてレーダーや近接信管が開発され、ミサイル攻撃など、より命中率の高い兵器が登場しました。

特筆すべきなのは核兵器の出現です。核兵器自体は枢軸国も連合国も研究に乗り出していましたが、ドイツのナチスによって迫害されアメリカに逃げていた優秀なユダヤ人科学者たちが、ヒトラーの核保有に警鐘を鳴らしたことで、アメリカの原爆開発がより迅速に進んだとも言われています。

原爆の材料となるウランの濃縮工場

最初の原子爆弾の完成が1945年7月であったため、その頃にはドイツはすでに無条件降伏しており、まだ戦争継続の意思を見せていた日本で投下されることになりました。そして現在に至るまで、日本は世界で唯一の被爆国となっています。

死者数の比較

どちらも世界規模の戦争であったこと、戦死以外の死者数も甚大で行方不明者も多く、正確な死者数がわからないことから、資料によって数はまちまちです。おおよその死者数としては、第一次世界大戦が2,200,000人、第二次世界大戦は35,903,000人と言われています。

ちなみに、1904年に起こった日露戦争での戦死者数は84,000人でした。たった10年ほどのブランクで、桁数が変わるほど戦争の犠牲者が増えたのです。

第三次世界大戦はあるか

第三次世界大戦の可能性については、フィクションの世界ではよく言われる表現です。しかし現実的に考えると、何をもって「世界大戦」とするのかの定義が曖昧なので、起きるかどうか述べるのは難しい問題です。

ただ、全人類を滅ぼすのに十分な威力を持つ核弾頭を保有している国があることを思うと、第三次世界大戦が全くの空想の世界の話とは言い難いというのも事実でしょう。実際、第二次世界大戦以降で、第三次世界大戦に発展しそうな事件や戦争が起きています。一番危うかったのはキューバ危機でした。

ソ連の貨物線の上をアメリカ軍の航空機が飛ぶ(キューバ危機)

キューバ危機は、アメリカとソビエト連邦という桁外れの核弾頭を保有している大国同士の対立から起こった抗争のことです。冷戦のピーク時のことであり、あわや核戦争に発展するかと世界中が懸念しました。

核軍縮や核不拡散、原子力の平和的利用を目指す核拡散防止条約(NPT)は定期的に再検討会議を開いて協議をしています。核保有については国によっていろいろな事情がありますが、第三次世界大戦を現実のものとしないため、世界各国が協力しお互いに歩み寄る必要があると思います。

第二次世界大戦を描いた映画・書籍

映画篇

ダンケルク

クリストファー・ノーラン監督が、第二次世界大戦での史上最大の救出作戦と呼ばれたダンケルクの奇跡を映画化しました。戦争映画ではありますが、撤退戦に関わる人間を描くドラマ部分に重点が置かれています。

敵兵が見えない中で、観客も撤退するイギリス・フランス軍の一人の兵士として作品の世界に入り込んでしまう構図は見事です。

ダンケルクの撤退作戦は史実であり、これをテーマに映画作品を作るのは難しいチャレンジだったと思います。しかしそれを商業映画としても成り立たせたクリストファー・ノーラン監督のバランス感覚に脱帽します。

戦争映画としても、娯楽映画としても評価できる作品です。

スターリングラード

フランスの名匠といわれるジャン=ジャック・アノー監督が、ドイツとソビエト連邦の激戦、スターリングラードの戦いを取り上げた映画です。実在した人物をモデルにスナイパーの戦いを描き、緊迫した様子が画面からも伝わってきます。

スターリングラードの戦いを描く映画は他にも制作されています。1993年公開の「スターリングラード」も、ドイツ映画界の総力を結集して作られた意欲作で、こちらも見応えがあります。

炎の戦線 エル・アラメイン

第二次世界大戦でのエル・アラメインの戦いを、イタリア兵の視点で描いている映画です。エンツォ・モンテオレーネ監督が、戦争映画にありがちな華々しい戦いを主眼にせず、負けることを意識しながらも戦い続ける兵士たちの静かな日常を描いているところが出色だと思います。当時の記録を元に忠実に再現された軍服や生活環境などが見られる点にも注目です。

イタリアは第二次世界大戦で日本と同じ枢軸国陣営として戦いました。負けることが見えてきている状況の中、仲間も次々と欠けていき、それでも戦い続ける最前線の兵士たちがどんな思いで毎日を過ごしていたのか、同じ敗戦国としてイタリアの視点で考えてみるという意味でも、とても有意義な映画でした。

書籍篇

日の名残り

第一次世界大戦後に取り決められたヴェルサイユ条約の内容が過酷すぎたために、ドイツが第二次世界大戦を引き起こしたとも考えられますが、実際に第二次世界大戦が起きる前にドイツに対する方策が厳しすぎると考えていた知識人はいました。この小説はそういった考えを持つ貴族に仕える執事が主人公です。

1930年代のイギリスの様子がよく伝わってくるこの作品は、2017年にノーベル文学賞を受賞したことでも知られるカズオ・イシグロによる小説です。本作は世界的な権威があるイギリス文学賞、ブッカー賞を受賞しています。1993年に映画化もされました。

フランス組曲

この作品は憲兵に連行されてアウシュヴィッツで亡くなった、フランス在住ユダヤ人イレーヌ・ネミロフスキーの遺作で、2004年に刊行されました。第二次世界大戦下のパリで生きる人々の様子を描いています。ドイツ人将校との恋物語が涙を誘いますが、同時に著者が極限下でこのような作品を描いていたことにも深く感動します。

世界中でベストセラーとなり、フランスで最も権威のあるルノードー賞を受賞しています。2016年には映画化もされました。

独ソ戦 絶滅戦争の戦禍

第二次世界大戦で、ソビエト連邦とドイツは日本よりも遥かに多い死者数を出しています。一体何があったのか、その背景が最新の研究を交えながらわかりやすく説明されています。本書は2020年に新書大賞に選ばれました。

第二次世界大戦に関するまとめ

いかがでしたか?第二次世界大戦の大枠はつかめましたか?

「勝利のキス」

この写真は、第二次世界大戦が終わりを迎えたことで、喜びのあまり通りすがりの見知らぬ女性にキスをしてしまう水兵を報道写真家がとらえたもので、「勝利のキス」写真として世界的に有名です。

第二次世界大戦は史上最悪の犠牲者数を出した戦争で、勝者といえども多くのストレスを抱えた日々だったはずです。戦争からの開放感で安堵と喜びを表現したこの一枚の写真からは、逆に戦争の重みも感じます。

歴史は客観視するだけでなく、時にはこうした個人に焦点を絞り込んでみることでこそ見えてくるものもあります。そのためにも、第二次世界大戦の一局面にスポットを当てた映画や書籍に触れることを是非おすすめします。第二次世界大戦を歴史事項の一つではなく、今に繋がるものとして考えるきっかけができるからです。

映画「ダンケルク」は、鑑賞しているとまるでアトラクションに乗っているかような臨場感を味わえる映画ですし、小説「日の名残り」は日本ではあまり知られていないイギリスの階級制度についても描かれていて面白いです。

良くも悪くも、第二次世界大戦を経たことで今の私たちの生活があることは事実です。この記事を通して、そんなことに思いを馳せる人が一人でも増えてくれたら幸いです。

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