鎌倉時代の年表とは?流れや出来事の簡単な覚え方もわかりやすく紹介

鎌倉時代年表「北条家の専制確立と元寇(1224年〜1281年)」

1224年 – 「親鸞が浄土真宗を広める」

浄土真宗を興した親鸞

親鸞(しんらん)が浄土真宗の基本の教えとなる『教行信証』を著わし、浄土真宗を開宗します。

1227年 – 「道元が曹洞宗を伝える」

宋から帰国した道元(どうげん)が、坐禅を基本とする曹洞宗(そうとうしゅう)を日本に伝えます。

1232年 – 「御成敗式目制定」

日本初の武家法「御成敗式目」

第3代執権北条泰時(ほうじょうやすとき)が、日本初の武家法となる「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」を制定しました。

武家の道徳や慣習を軸に、行政、裁判の判断の基準をまとめて成文化したものです。とくに領地のもめごとが増えていたため、領地関係の規定が多いのが特徴です。「御成敗式目」はのちの数々の武家法の基本となりました。

1247年 – 「宝治合戦(有力御家人排斥)」「北条氏の専制確立」

三浦一族が最期を遂げた頼朝の法華堂跡

5代執権北条時頼(ほうじょうときより)が有力御家人三浦氏を滅ぼします(宝治合戦)。

三浦氏は幕政にも力を持つ御家人で、将軍だった藤原頼経に接近し反北条とみられていました。そこで時頼は外戚である安達氏の支援を受け、三浦泰村以下、三浦一族を鎌倉で全滅させたのです。

これにより北条氏の専制体制が強化されました。

1249年 – 「引付衆を設置。幕府の政治機構ほぼ完成」

鎌倉幕府の仕組み

幕府は激増していた所領関係の裁判迅速化を図るため、新たな訴訟機関として引付衆(ひきつけしゅう)を設置しました。これにより引付衆は訴訟関係の審理、元からある問注所(もんちゅうじょ)はそれ以外の審理、裁判を行なうようになります。

引付衆の設置により幕府の政治機構はほぼ完成しました。

1253年 – 「日蓮が日蓮宗を広める」

日蓮が「法華経」を最高の教えとする日蓮宗を開宗します。日蓮宗は「南無妙法蓮華経」というお題目を唱えれば、現世において救われると説く教えです。

1274年 – 「文永の役」「一遍が時宗を開く」

元寇を描いた『蒙古襲来絵詞』

10月5日、大帝国の元(旧モンゴル帝国)が大軍で日本の九州に侵攻してきました。元軍は対馬と壱岐、肥前、続いて博多に上陸します。日本軍が強敵の元軍を相手に健闘するなか、10月20日元軍は博多湾から忽然と姿を消しました。

元軍が姿を消した理由については、玄界灘の悪天候に遭遇し沈没したなど諸説あります。日本はこのあと、元軍の再度の侵攻に備えて九州沿岸に防塁を築きました。

また、この年一遍(いっぺん)が「南無阿弥陀仏」を唱えることで悟りが開けるという時宗を開宗します。一遍は念仏を唱えて踊り歩く踊念仏(おどりねんぶつ)を行ないました。

1281年 – 「弘安の役」

日本は防塁を築くなど防衛体制をとっていた

5月、10万以上の元軍が再度日本に侵攻します。元軍は防塁に阻まれて博多からの上陸を断念。日本軍は志賀島や壱岐島で勝利をあげました。

7月、元軍は台風の直撃を受けたことや疫病の蔓延なもあり、撤退します。

鎌倉時代年表「鎌倉幕府崩壊へ(1285年〜1333年)」

1285年 – 「霜月騒動で有力御家人が壊滅」「得宗の専制体制へ」

平頼綱に敗れた安達泰盛

9代執権北条貞時(ほうじょうさだとき)の内管領(うちかんれい)の平頼綱(たいらのよりつな)が有力御家人の安達泰盛(あだちやすもり)とその一族を滅ぼします(霜月騒動)。内管領とは執権北条氏の宗家・得宗家の執事のこと。北条氏に仕えた従者・御内人(みうちびと)の筆頭です。

この霜月騒動により安達氏は滅亡し、有力御家人はほぼ一掃されました。

得宗家の権力が拡大するにつれ、御内人の権勢も高まり、御内人と御家人が対立していました。それが表面化したのが霜月騒動だったのです。平頼綱の勝利で北条得宗家の専制体制が強化され、御内人の権勢もより強まります。

1293年 – 「鎌倉大地震」

鎌倉を震源地とした大地震。マグニチュード7と推定され、2万人以上の死者が出たといいます。そして、この混乱に乗じて執権北条貞時は専横のいちじるしい平頼綱を襲撃して滅ぼしました。

1297年 – 「永仁の徳政令」

宋銭が出回り貨幣経済が普及
出典:宋銭が出回り貨幣経済が普及

幕府は困窮していた御家人たちを救うため、借金を帳消しにする「永仁の徳政令」を発布します。この背景には貨幣経済の浸透や分割相続、さらに元寇の出費などで御家人たちが多大な借金を抱えた事情がありました。

しかし今度は貸し渋りが起き、土地を手放す御家人が増えます。こうして幕府の下から離れる武士が増え、彼らは御家人以外の武士・悪党となり、幕府を倒す力になっていくのです。

1324年 – 「正中の変」

倒幕を計画した後醍醐天皇

幕府への反感が高まっているのを見た後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、天皇親政を目指して倒幕計画をたてますが事前に発覚して失敗します。ただしこのときは天皇は罪に問われませんでした。

1331年 – 「元弘の変」

後醍醐天皇の隠岐の行在所跡

後醍醐天皇は2度目の倒幕計画を立てます。またしても発覚しますが、今度は護良親王(もりながしんのう)や楠木正成(くすのきまさしげ)などが天皇に呼応して挙兵。幕府はこれを鎮圧して後醍醐天皇を隠岐へと配流します。

1333年 – 「鎌倉幕府滅亡」

北条氏の邸宅跡で、最後の執権はこの裏山で自刃。現在は宝戒寺

楠木正成らが再び挙兵した事を知った後醍醐天皇は隠岐を脱出し倒幕の命令を出します。そこで幕府が派遣した鎮圧軍の御家人・足利尊氏が幕府を裏切り、一気に倒幕の機運が高まりました。

足利尊氏らは京都を制圧。新田義貞が鎌倉へと侵攻して北条一族を滅ぼし、鎌倉幕府を滅亡させました。

主な出来事の年号の覚え方

流鏑馬が盛んだった鎌倉時代
出典:Wikipedia

鎌倉時代に起こった出来事とその年の覚え方をご紹介します。

  • 1185年 – 「人々反抗(1185) 守護地頭」
  • 1221年 – 「人に不意(1221)打ち、承久の乱」
  • 1232年 – 「ひと文に(1232)まとめた御成敗式目」
  • 1274年・1281年 – 「人、船酔い(1274)で、敗(81)退、元の軍」
  • 1297年 – 「皮肉な(1297)永仁の徳政令」
  • 1333年 – 「北条の一味散々(1333)、滅亡す」

鎌倉時代年表に関するまとめ

鎌倉時代の年表をご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか?年表で見ると鎌倉時代の流れがざっと分かりますよね。

鎌倉幕府の実権が源氏から北条氏へ移り、北条氏が権力を握る時代、武家支配の強化、そして元寇。元寇を乗り切った幕府ですが、これが幕府や御家人の経済を圧迫し、幕府滅亡の一因になりました。その一方で鎌倉時代は次々と新しい仏教宗派が生まれ、庶民の間にも広まっていきます。

このように鎌倉時代にもさまざまなできごとがありました。この年表を見て、鎌倉時代をもっと詳しく知りたいと思ってもらえれば幸いです。

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