小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

鎌倉時代の年表とは?流れや出来事の簡単な覚え方もわかりやすく紹介

鎌倉時代の年表を詳しく知りたい!
鎌倉時代の出来事と起こった年を知りたい!
鎌倉時代の歴史の流れはどんなものなの?

鎌倉時代といえば、源氏の鎌倉幕府、元寇、仏教が発達した・・・などと覚えている人が多いかもしれません。一方でいつどんな出来事があり、どんな歴史だったのかじつはよくわからないという人も多いのではないでしょう。

ここでは簡単な解説とともに年表形式で鎌倉時代をご紹介します。年表で見ることで、出来事の理由や目的も見えてくるはずです。そして、歴史の流れも一目で知ることができます。

また、最後に出来事の覚え方も紹介しているのでぜひ参考にしてみてください。

鎌倉時代はいつからいつまで

源頼朝ゆかりの鶴岡八幡宮

鎌倉時代は、平安末期に政権を握っていた平氏を倒した源氏の源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に幕府を開いて始まりました。鎌倉時代の始まりは現在では1185年とするのが一般的です。

1185年に壇ノ浦の戦いで平家を倒した源頼朝は、朝廷から地方の役職である守護・地頭の設置権を与えられました。これは源氏が地方の統治も任されたことを意味しており、ここから鎌倉幕府の時代が始まったと考えられています。

鎌倉時代とはどんな時代?特徴や出来事、年表、主要人物、文化などを紹介

そして終わりは鎌倉幕府が新田義貞によって滅ぼされた1333年とするのが主流です。年表では1185年から1333年の出来事をご紹介します。

鎌倉時代年表「鎌倉幕府の成立から執権政治へ(1185年〜1221年)」

1185年 – 「平家が壇ノ浦合戦で滅亡」「源頼朝が全国に守護・地頭を置く」

平氏を倒した源氏

1185年の3月、壇ノ浦の合戦で源氏が平氏一門を滅ぼします。平氏の棟梁宗盛をはじめ、平氏の主だった武将は戦死、または捕らえられ平氏は滅亡しました。

そしてその年の11月、源氏の棟梁・源頼朝が全国の守護・地頭の設置権を認められます(文治の勅許)。これにより源氏の全国支配がはじまりました。これをもって鎌倉時代の幕開けとするのが一般的です。

1189年 – 「頼朝が奥州藤原氏と弟の義経を滅ぼす」

東北に君臨した奥州藤原氏が建てた中尊寺金色堂

1189年、頼朝は弟の義経が逃げ込んだ奥州藤原氏を義経ともども滅ぼします。東北に絶大な権力をおよぼしていた藤原氏を滅ぼしたことで、平氏と源氏の戦いから続いていた内乱に終止符が打たれました。

また、源氏の支配が東北にもおよび実質的な全国支配がはじまります。

1191年 – 「栄西が臨済宗を伝える」

宋から帰国した栄西(えいさい)が禅宗である「臨済宗(りんざいしゅう)」を日本に広めます。臨済宗は幕府や朝廷の庇護を受け、1202年には建仁寺が開かれました。

1192年 – 「源頼朝が征夷大将軍に就任」

別人の写真説もある源頼朝

源頼朝が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられ、名実ともに鎌倉幕府の支配者となりました。征夷大将軍とはもともとは蝦夷(東北地方の人々)を征討する将軍の意味でしたが、頼朝がこの称号を得て以降は、武家政権のトップの職となりました。

頼朝は御家人たちの土地の支配を認めたり、与えたりする「本領安堵」や「新恩給与」を行ない、御恩と奉公と呼ばれる主従関係を確立しました。このような土地を通じた主従関係を元にした社会を「封建制」と呼びます。

1199年 – 「源頼朝が死亡、頼家が跡を継ぎ合議制に」

2代将軍源頼家

1月に源頼朝が亡くなり、家督を18歳の息子・頼家(よりいえ)が継ぎ、2代目の鎌倉殿となります(将軍就任は1202年)。

若い頼家の独断専行をさけるため、鎌倉幕府は頼家の外祖父の北条時政ら有力御家人の合議制をとったとみられています。

1200年 – 「梶原景時の変(有力御家人の排斥)」

合議制に加わっていた有力御家人の梶原景時(かじわらかげとき)が、多くの御家人から糾弾されて滅ぼされます。この背景には頼家を支持する景時に対し、弟の実朝を推す北条氏の陰謀があったようです。

ここから北条氏を中心とする御家人同士の勢力争いが激しくなります。

1203年 – 「比企義員の変(有力御家人の排斥)」「実朝が3代将軍になり、北条時政が執権へ」

権力を握るために陰謀を駆使した北条時政

比企能員(ひきよしかず)が源頼家の外戚として台頭するのを恐れた北条時政は、比企能員を呼び出して殺害。比企氏を滅ぼします。

こののち頼家は将軍位を奪われ、その弟の実朝が3代目の将軍になります。そして北条氏が執権となり幕府の実権を握りました。

1205年 – 「牧氏事件で執権が北条時政から義時へ」「『新古今和歌集』編さん」

時政と後妻の牧の方は、さらに政権独占を狙い娘婿を将軍に付けようと画策。しかし時政は息子の義時も含めて御家人らの支持を得られず失脚しました。義時が第2代執権になります。

なお、この年京都では歌人の藤原定家が、後鳥羽上皇の命で日本三大和歌集のひとつ『新古今和歌集』を編さんしました。

1206年 – 「チンギス・ハンがモンゴル統一」

モンゴル高原ではチンギス・ハンが騎馬遊牧民族を統一し、モンゴル帝国を建国しました。モンゴル帝国は子孫のフビライ・ハンの時代に版図を広げて元となり、日本に遠征(元寇)をします。

1212年 – 「『方丈記』成立」

鴨長明が日本三大随筆のひとつ『方丈記』を完成させました。無常をテーマにした随筆です。

1213年 – 「和田合戦(有力御家人の排斥)」

和田合戦

有力御家人和田義盛が挙兵するも討伐された和田合戦が起こります。

義盛は鎌倉幕府創業の功臣で侍所の別当職にある有力御家人。しかし北条義時が侍所の別当職を狙って義盛を挑発し両者は対立。反乱を起こした義盛は一族の三浦氏にも裏切られ、滅ぼされました。

1219年 – 「源実朝が暗殺され、執権政治へ」

鎌倉幕府3代将軍源実朝が、甥にある公暁(くぎょう、頼家の子)に殺害されます。実朝に子がなく、公暁も討伐されて頼朝の直系は断絶ししました。

これにより、鎌倉幕府は京都の摂家から頼朝の遠縁にある藤原頼経を将軍に迎えます。頼経はまだ幼かったため、北条政子が尼将軍として後見し、北条氏による執権政治が確立されました。

1221年 – 「承久の乱」「六波羅探題設置」

幕府側の勝利に終わった承久の乱

幕府の混乱を見た後鳥羽上皇は、朝廷の復権を企て幕府に対して承久の乱を起します。動揺する御家人たちに北条政子が頼朝の恩を訴えた演説は有名です。御家人の大半を味方にした鎌倉幕府が勝利し、敗北した後鳥羽上皇は島流しになりました。

この勝利で幕府は朝廷も実質的に支配下におさめ、朝廷と西日本の監視のため京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置。朝廷の力が強かった西日本にも幕府の力が及ぶようになりました。

鎌倉時代年表「北条家の専制確立と元寇(1224年〜1281年)」

1224年 – 「親鸞が浄土真宗を広める」

浄土真宗を興した親鸞

親鸞(しんらん)が浄土真宗の基本の教えとなる『教行信証』を著わし、浄土真宗を開宗します。

1227年 – 「道元が曹洞宗を伝える」

宋から帰国した道元(どうげん)が、坐禅を基本とする曹洞宗(そうとうしゅう)を日本に伝えます。

1232年 – 「御成敗式目制定」

日本初の武家法「御成敗式目」

第3代執権北条泰時(ほうじょうやすとき)が、日本初の武家法となる「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」を制定しました。

武家の道徳や慣習を軸に、行政、裁判の判断の基準をまとめて成文化したものです。とくに領地のもめごとが増えていたため、領地関係の規定が多いのが特徴です。「御成敗式目」はのちの数々の武家法の基本となりました。

1247年 – 「宝治合戦(有力御家人排斥)」「北条氏の専制確立」

三浦一族が最期を遂げた頼朝の法華堂跡

5代執権北条時頼(ほうじょうときより)が有力御家人三浦氏を滅ぼします(宝治合戦)。

三浦氏は幕政にも力を持つ御家人で、将軍だった藤原頼経に接近し反北条とみられていました。そこで時頼は外戚である安達氏の支援を受け、三浦泰村以下、三浦一族を鎌倉で全滅させたのです。

これにより北条氏の専制体制が強化されました。

1249年 – 「引付衆を設置。幕府の政治機構ほぼ完成」

鎌倉幕府の仕組み

幕府は激増していた所領関係の裁判迅速化を図るため、新たな訴訟機関として引付衆(ひきつけしゅう)を設置しました。これにより引付衆は訴訟関係の審理、元からある問注所(もんちゅうじょ)はそれ以外の審理、裁判を行なうようになります。

引付衆の設置により幕府の政治機構はほぼ完成しました。

1253年 – 「日蓮が日蓮宗を広める」

日蓮が「法華経」を最高の教えとする日蓮宗を開宗します。日蓮宗は「南無妙法蓮華経」というお題目を唱えれば、現世において救われると説く教えです。

1274年 – 「文永の役」「一遍が時宗を開く」

元寇を描いた『蒙古襲来絵詞』

10月5日、大帝国の元(旧モンゴル帝国)が大軍で日本の九州に侵攻してきました。元軍は対馬と壱岐、肥前、続いて博多に上陸します。日本軍が強敵の元軍を相手に健闘するなか、10月20日元軍は博多湾から忽然と姿を消しました。

元軍が姿を消した理由については、玄界灘の悪天候に遭遇し沈没したなど諸説あります。日本はこのあと、元軍の再度の侵攻に備えて九州沿岸に防塁を築きました。

また、この年一遍(いっぺん)が「南無阿弥陀仏」を唱えることで悟りが開けるという時宗を開宗します。一遍は念仏を唱えて踊り歩く踊念仏(おどりねんぶつ)を行ないました。

1281年 – 「弘安の役」

日本は防塁を築くなど防衛体制をとっていた

5月、10万以上の元軍が再度日本に侵攻します。元軍は防塁に阻まれて博多からの上陸を断念。日本軍は志賀島や壱岐島で勝利をあげました。

7月、元軍は台風の直撃を受けたことや疫病の蔓延なもあり、撤退します。

鎌倉時代年表「鎌倉幕府崩壊へ(1285年〜1333年)」

1285年 – 「霜月騒動で有力御家人が壊滅」「得宗の専制体制へ」

平頼綱に敗れた安達泰盛

9代執権北条貞時(ほうじょうさだとき)の内管領(うちかんれい)の平頼綱(たいらのよりつな)が有力御家人の安達泰盛(あだちやすもり)とその一族を滅ぼします(霜月騒動)。内管領とは執権北条氏の宗家・得宗家の執事のこと。北条氏に仕えた従者・御内人(みうちびと)の筆頭です。

この霜月騒動により安達氏は滅亡し、有力御家人はほぼ一掃されました。

得宗家の権力が拡大するにつれ、御内人の権勢も高まり、御内人と御家人が対立していました。それが表面化したのが霜月騒動だったのです。平頼綱の勝利で北条得宗家の専制体制が強化され、御内人の権勢もより強まります。

1293年 – 「鎌倉大地震」

鎌倉を震源地とした大地震。マグニチュード7と推定され、2万人以上の死者が出たといいます。そして、この混乱に乗じて執権北条貞時は専横のいちじるしい平頼綱を襲撃して滅ぼしました。

1297年 – 「永仁の徳政令」

宋銭が出回り貨幣経済が普及

幕府は困窮していた御家人たちを救うため、借金を帳消しにする「永仁の徳政令」を発布します。この背景には貨幣経済の浸透や分割相続、さらに元寇の出費などで御家人たちが多大な借金を抱えた事情がありました。

しかし今度は貸し渋りが起き、土地を手放す御家人が増えます。こうして幕府の下から離れる武士が増え、彼らは御家人以外の武士・悪党となり、幕府を倒す力になっていくのです。

1324年 – 「正中の変」

倒幕を計画した後醍醐天皇

幕府への反感が高まっているのを見た後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、天皇親政を目指して倒幕計画をたてますが事前に発覚して失敗します。ただしこのときは天皇は罪に問われませんでした。

1331年 – 「元弘の変」

後醍醐天皇の隠岐の行在所跡

後醍醐天皇は2度目の倒幕計画を立てます。またしても発覚しますが、今度は護良親王(もりながしんのう)や楠木正成(くすのきまさしげ)などが天皇に呼応して挙兵。幕府はこれを鎮圧して後醍醐天皇を隠岐へと配流します。

1333年 – 「鎌倉幕府滅亡」

北条氏の邸宅跡で、最後の執権はこの裏山で自刃。現在は宝戒寺

楠木正成らが再び挙兵した事を知った後醍醐天皇は隠岐を脱出し倒幕の命令を出します。そこで幕府が派遣した鎮圧軍の御家人・足利尊氏が幕府を裏切り、一気に倒幕の機運が高まりました。

足利尊氏らは京都を制圧。新田義貞が鎌倉へと侵攻して北条一族を滅ぼし、鎌倉幕府を滅亡させました。

主な出来事の年号の覚え方

流鏑馬が盛んだった鎌倉時代

鎌倉時代に起こった出来事とその年の覚え方をご紹介します。

  • 1185年 – 「人々反抗(1185) 守護地頭」
  • 1221年 – 「人に不意(1221)打ち、承久の乱」
  • 1232年 – 「ひと文に(1232)まとめた御成敗式目」
  • 1274年・1281年 – 「人、船酔い(1274)で、敗(81)退、元の軍」
  • 1297年 – 「皮肉な(1297)永仁の徳政令」
  • 1333年 – 「北条の一味散々(1333)、滅亡す」

鎌倉時代年表に関するまとめ

鎌倉時代の年表をご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか?年表で見ると鎌倉時代の流れがざっと分かりますよね。

鎌倉幕府の実権が源氏から北条氏へ移り、北条氏が権力を握る時代、武家支配の強化、そして元寇。元寇を乗り切った幕府ですが、これが幕府や御家人の経済を圧迫し、幕府滅亡の一因になりました。その一方で鎌倉時代は次々と新しい仏教宗派が生まれ、庶民の間にも広まっていきます。

このように鎌倉時代にもさまざまなできごとがありました。この年表を見て、鎌倉時代をもっと詳しく知りたいと思ってもらえれば幸いです。

コメントを残す