マリー・アントワネットの名言を10選紹介!名言が生まれた意図や背景とは

平民と結婚したとは思わなかったわ

フランスの三色旗

平民と結婚したとは思わなかったわ。

この言葉は、パリ市庁所と和解し、無事にヴェルサイユへ戻ってきたルイ16世を見たマリー・アントワネットが言った台詞です。この時、マリー・アントワネットは涙を流して喜んだとされています。

マリー・アントワネットの心配とは反対に、ルイ16世はパリ到着後に民衆から歓迎されました。その結果、フランスの三色旗が誕生したのです。三色旗のうち、赤と青はパリ市の紋章に含まれている色であり、白はブルボン王家を象徴する色でした。そして、和解の印である3色の記章を帽子に付け、ルイ16世は帰還したのです。

この名言は、一見マリー・アントワネットの夫に対する憎まれ口のようにも見えます。しかし、実際はルイ16世が生きて帰ってきたことを喜んだ際の言葉であり、その時に平民を象徴する色を含む記章を目にしたことで出てきた言葉だったのです。

不幸になって初めて、自分が何者かわかるのです

国王一家が幽閉されたチュイルリー宮殿

ここにはルイ14世がお住みになり、居心地が良いと思われていたのですよ。私たちがそれ以上を要求してはなりません。不幸になって初めて、自分が何者かわかるのです。

この発言は、マリー・アントワネットが息子のルイ・シャルルに対して言った台詞です。国王一家が、ヴェルサイユを追われて荒廃した新居へ連れてこられた際に、ルイ・シャルルが「ここはずいぶん汚いね。」と言ったことに対する返答でした。

バスティーユ陥落から2か月半後、パリの8000人の女性たちがパンを求めてヴェルサイユへ行進しました。その後、マリー・アントワネットたちは、歴代の王たちの居城であったチュイルリー宮殿に幽閉されたのです。長らく人が住んでいなかったチュイルリー宮殿は、特有のにおいや薄暗さがあり、割れた窓から風が入り込み、ネズミが走り回るような有様でした。

その中で、豪華なヴェルサイユ宮殿しか知らない息子に対してマリー・アントワネットが返した言葉は、それまでのイメージを覆す立派な発言だったのです。

私たちは生きています

ヴァレンヌで逮捕され、パリへ戻される国王一家

どうか心配なさらないで。私たちは生きています。

この言葉は、国王一家が一般の民衆だけでなく親国王派の人々からも見放されてしまうきっかけとなった、ヴァレンヌ逃亡事件が終わった後に、マリー・アントワネットが愛人のハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵宛てに書いた手紙の中にあった文章です。

ヴァレンヌ逃亡事件とは、国王一家がパリを抜け出し、フランス北東部のヴァレンヌで逮捕された事件であり、フェルセン伯爵はこの亡命計画の手引きをしていました。しかし、計画は失敗し、国王一家の立場は最悪の状況となってしまったのです。

その結果、フェルセン伯爵はこの失敗を一生後悔し続けることになります。そして、マリー・アントワネットが処刑された後には民衆を憎むようになったのです。

私にはすべてが終わりました

処刑前のマリー・アントワネット

私は何も必要としません。私にはすべてが終わりました。

この言葉は、処刑日の朝に最後の食事について尋ねられた際のマリー・アントワネットによる返答です。

1793年、3日間に渡る裁判が終了し、マリー・アントワネットは死刑と財産の没収を宣告されました。その後、マリー・アントワネットは、最期の日までの時間を独房で過ごします。その期間に、マリー・アントワネットはルイ16世の妹であるエリザベトへ告別の手紙を書いていましたが、この手紙が本人へ届くことはありませんでした。

そして、運命の日の明け方に部屋係が朝食について尋ねに行ったとき、この台詞を涙を流しながら言ったのです。最終的に、マリー・アントワネットは部屋係が用意したブイヨンスープを、涙ながらに数杯飲みました。

わざとではありませんのよ(Pardonnez-moi, monsieur. Je ne l’ai pas fait exprès.)

マリー・アントワネットとルイ16世を処刑した執行人シャルル・アンリ・サンソン

Pardonnez-moi, monsieur. Je ne l’ai pas fait exprès. (お許しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ。 )

この名言は、マリー・アントワネットが死刑執行人シャルル・アンリ・サンソンの足を踏んでしまった際に発した言葉です。そして、マリー・アントワネットの最期の言葉として知られています。

処刑日を迎えたマリー・アントワネットは、ギロチンのある革命広場へと連行されました。そして、1793年10月16日の午後12時15分、処刑が執行され、首を切り落とされたのです。この時に、マリー・アントワネットの処刑を行ったのがシャルル・アンリ・サンソンでした。

シャルル・アンリ・サンソンは、フランスにおける死刑執行人の家系であるサンソン家の4代目当主でありながら、死刑廃止論を支持していました。そして、王党派の人物だったため、ルイ16世を自らが処刑したことを強く後悔していました。そのような人物が、マリー・アントワネットの最期の言葉を目の前で聞いていたのです。

ギロチン処刑されるマリー・アントワネット

マリー・アントワネットの名言集や関連書籍

マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃 (中公新書)

この本は、マリー・アントワネットについて中立的な記述が多く書かれています。そして、フェルセンとのロマンスや「パンがなければ」の発言についても少しですが語られており、史実を読みやすく記載した歴史書と言えるでしょう。

歴史とは、勝者によって描かれるものです。しかし、勝者が短期間で入れ替わるフランス革命の時期は、敗者の歴史も多く存在します。マリー・アントワネットはそこまで罪深い人間ではなく、彼女の中にある常識が世間と離れすぎていただけなのです。彼女に罪があるとすれば、無知であるというよりも、世の中を知ろうとしなかったことにあるのかもしれないと考えさせられる1冊でした。

マリー・アントワネットは何を食べていたのか

この書籍は、ルイ14世からルイ16世までのフランスのヴェルサイユ宮殿における食の研究本です。この時代、フランス王室は権力を示すために食事を見世物化していたことや、「パンがなければ」の発言についても触れています。

服や庭園造りに熱心だったマリー・アントワネットは、食の面に関してはそこまで贅沢ではなかったようでしたが、王族や高級貴族などの上流階級の食事メニューを見ると、革命も起こしたくなる民衆の気持ちも理解できました。マリー・アントワネットが中心の話ではありませんが、当時の食文化について学べる1冊です。

角川まんが学習シリーズ まんが人物伝 マリ・アントワネット 革命に散った悲劇の王妃

この本は、マリー・アントワネットがフランスに入浴を広めたり、ハンカチの形を正方形に定めたことなどの様々なエピソードが含まれた人気シリーズの1つです。

そして、小麦が不作で国民がパンを食べられないときにマリー・アントワネットが言ったとされる「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」という名言はデマであり、その発言はフランス哲学者であるルソーの小説に登場する、ある高貴な女性の言葉として出てきたものだった、という話も紹介されています。

また、アントワネットが実際に残したとされる言葉である、処刑台に登るときに処刑人の靴をうっかり踏んでしまってとっさに出た「お許しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ。」についても語られており、時代背景もしっかり描いてある、勉強になる1冊です。

フランス王国の国章

マリー・アントワネットの名言についてのまとめ

今回は、マリー・アントワネットの名言について、その発言の背景や意図を解説してきました。

マリー・アントワネットは、わがままで評判の悪い王妃であるというイメージを持っている人が多いかもしれませんが、彼女が残した数多くの名言に触れると、決してそうとは言い切れない部分が多くあったことを知ることができます。そして、マリー・アントワネットが悲劇的な王妃であったことがよくわかるのです。

それでは長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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