ヒトラーユーゲントとはどんな集団?来日の様子や活動内容も紹介

実は日本に来日していた

横浜港に到着したときのヒトラーユーゲント

ヒトラーユーゲントは1936年の日独防共協定の終結に伴い、日独青少年相互親善交歓事業の一環として1938年に日本に来日しています。90日間滞在し、日本各地を訪問しました。日程は以下のとおりでした。

  • 8月:東京(靖国神社参拝)・軽井沢(近衛邸でレセプション)・会津若松(白虎隊の墓参り)
  • 9月:函館・札幌・岩手・仙台・青森・秋田・鎌倉(鶴岡八幡宮)訪問
  • 10月:岐阜(日本刀鍛錬見学)・名古屋・伊勢神宮参拝・法隆寺見学・京都・大阪・別府・宮崎・熊本・雲仙訪問
  • 11月:福岡・厳島神社見学・神戸港より帰国
雑誌でも取り上げられていた「ようこそ若き盟友」

ヒトラーユーゲントが訪れる横浜港には、一目見ようと大衆が押しかけ、白い制服の青年たちに熱狂したといいます。90日間の日本全国を回った彼らは、訪れた地元市民から大歓迎を受けて親独交流に大きく貢献しています。国民歓迎を受けて日本で「ヒトラーユーゲントブーム」が起き、北原白秋作詞の「萬歳ヒットラー・ユウゲント:獨逸青少年團歡迎の歌」が作られ、日本ビクターよりレコードで発売されました。

戦争に巻き込まれていった最後

兵士を見学するヒトラーユーゲント達

1940年にアウトゥール・アクスマンが「全国青少年指導者」になると、ヒトラーユーゲントは軍隊化に巻き込まれていくことになります。

1940年に連合軍によるドイツ主要都市の爆撃が増加すると、多くのヒトラーユーゲントが「消化活動」に駆り出されました。そして1944年から空爆に対する高射砲部隊や探照灯部隊に配置されることが多くなります。戦争が長引くにつれて、徴兵される年齢が下がっていきました。戦争末期の防空防衛はユーゲント達に任されたのです。

第12SS装甲師団の少年

1943年にヒトラーはアクスマンに「ヒトラーユーゲント」を名称した師団の設立を命じました。17歳から18歳の志願兵を募り、訓練を受けさせてドイツ占領下のベルギー北部アントワープ南東に拠点を構えました。部隊は第12SS装甲師団といわれ、「ヒトラーユーゲント」と命名したのです。

その後この「ヒトラーユーゲント部隊」は、ノルマンディの戦いで圧倒的な戦力を誇る連合軍に奮闘し、戦闘能力の高さを発揮しました。「ベイビー師団」「ミルク師団」と馬鹿にしていた連合軍兵士たちに侮れないと認識されたのです。

私服の上にワッペンをつけて銃を持つドイツ市民軍

しかし彼らも将校の不足や補充員の質の低さに影響し、本来の実力が発揮できなくなっていきます。そしてヒトラーの自殺をするまで、年配が銃を持って戦った義勇兵団「国民突撃隊」と共に、廃墟になったベルリンで最後まで戦い抜きました。捕虜になる気もなく、降伏など問題外と考えていたのです。

ヒトラーユーゲントと遭遇した連合軍は、敵の若さに驚いたといいます。この若者たちは、勝利を収めた際には捕虜の大量虐殺という戦争犯罪も行っています。一つの民族以外に命の価値を見出さない、ナチスの恐ろしい教育に基づいた行動でした。

ソ連軍の旗が立つドイツ首都ベルリン

ドイツの最終局面でも、子供の純真さゆえに最後まで絶望的な状況で戦い続けています。ヒトラーも最後にヒトラーユーゲント達に対して、「君たちは最後まで私についてきてくれた」と語ったそうです。そしてヒトラーの自殺によってソ連軍にベルリンは占領され、戦争は終わったのでした。

ヒトラーユーゲントの特徴的な服装

ヒトラーユーゲントのドラムと冊子

最初はナチスの宣伝と少年少女の教育が目的だったヒトラーユーゲントは最後は兵士として駆り出され、多くの若い命を散らせたという悲しい歴史があります。戦争の最終段階になると若者も多く戦場に駆り出される悲劇は万国共通です。そんな悲劇の隊員ヒトラーユーゲントはどんな服装をしていたのでしょうか?日本でも非常に人気があったという少年たちの格好を見ていきます。

ヒトラーユーゲントの制服

ヒトラーユーゲントの制服

不謹慎ないい方かもしれませんが、ヒトラーユーゲントの制服はかっこいいと制服が好きな人に人気があるのも事実です。その理由は、スタイリッシュなスーツを得意と知るヒューゴ・ボスがデザインをしているからです。

服装は茶色の開襟シャツに、膝上の半ズボン、襟にスカーフを巻いていました。そして白のハイソックスを履いていたのです。この服装で、ドラムなど楽器を演奏しながら行進をしたのです。

ヒトラーユーゲント・ナイフ

ヒトラーユーゲント・ナイフ

ヒトラーユーゲントは特製のナイフを使っていました。ユーゲントは突撃隊(SA)や親衛隊(SS)とよく似た制服を着用していましたが、この短剣も制服の一部として装備されていました。標準的に装備されていたのではなく、優良団員と認められたもののみ与えられました。

血抜き溝がなく諸刃ではないところが、第一次世界大戦のドイツ軍格闘ナイフと同じでした。第一次世界大戦の塹壕戦のような手狭な所で白兵戦を行うために開発された形状で、ドイツ軍の標準装備とされていました。握り手のところにヒトラーユーゲントの標語「Blut und Ehre!」(血と名誉!)と刻印されていたといいます。

ツーブロックの髪型

ヒトラーユーゲント達、確かにツーブロックに長めの髪が多いのが分かる

ヒトラーユーゲントの髪型は特に規定があったわけではないようですが、「ツーブロック風のカットに長髪」という髪型が多かったようです。確かな資料がないので想像の範囲にはなりますが、当時ドイツで流行していたのかもしれません。現存するヒトラーユーゲントの捕虜になった人物の写真も、長髪が多いのが特徴です。

リチャード・スペンサーも「ヒトラーユーゲント風カット」といわれている

現在でも、白人至上主義者を掲げる男性やナチズムを信奉する「ネオナチ」支持者の間でこの髪型が流行しているそうです。その代表的な例が、「オルト・ライト(オルタナ右翼)」運動のリーダーであり、名付け親と自称するリチャード・スペンサーといわれています。

ヒトラーユーゲントに関するまとめ

今回は20世紀のドイツの歴史でも、「ヒトラーユーゲント」に焦点を置いて執筆いたしましたが、筆者の感想は、ドイツでも日本でも戦争末期には少年兵が駆り出されるという悲劇が起きたのだという再認識でした。日本でいう沖縄戦の「鉄血勤皇隊」であり、子供であるからこそ最後までヒトラーに忠誠を尽くして戦ったというところに悲しみを感じます。

そして日本に来ていたという事実に驚き、日程表を見ると私の出身の近くまで来ていたようなので、非常に驚いています。コロナの流行でなかなか親戚の家に行くのが難しい現状ですが、祖母に次に会った時に、本物を見たのか聞いてみようと思いました。そう遠くない昔に起こった事実をこの記事を見て少しでも「ああ、そうだったんだ」と思ってくれた人がいたらこの上なく嬉しく思います。最後までお読みいただきありがとうございまいした。

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