南宋とはどんな王朝?皇帝や日本との繋がりもわかりやすく解説

「南宋ってどんな国?」
「どうして、南宋が建国されたか知りたい」
「南宋の滅亡について知りたい」

この記事をご覧のあなたはそのような疑問を持っているのではないでしょうか?。南宋とは1127年から1276年、または1279年まで中国南部に存在した王朝です。

もともとは中国全土を支配する宋(北宋)という王朝でしたが、北方にすむ女真族の金に華北一帯を占領され(靖康の変)、南半分だけを支配する王朝になってしまいました。北宋と南宋の仕組みはほとんど同じなので、支配領域の違いが北宋と南宋の違いです。

金が宋を滅ぼし欽宗皇帝と徽宗上皇を北方に連れ去った靖康の変より前の宋を北宋、靖康の変後の宋を南宋と呼ぶようになりました。南宋は経済大国として発展し、日本と深いつながりを持ちます。

しかし、力を増すモンゴル帝国(元)の攻撃の前に南宋軍は敗れ去り滅亡しました。今回は南宋の建国や経済発展、滅亡などについてわかりやすく解説します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

南宋とは?

南宋とは12世紀前半から13世紀後半にかけて、長江流域以南を治めた漢民族の王朝です。もともと宋は960年の建国以来、中国全土を治める王朝でした。

靖康の変で北方に連れ去られた前皇帝の徽宗

しかし、北方民族の金との戦いに敗れ国土の北半分を失います。そればかりか、皇帝の欽宗と前皇帝の徽宗が北方に連れ去られてしまいました。この事件を靖康の変といいます。宋の皇族の多くが北に連れ去られる中、徽宗の9男趙構は江南に逃れ、南宋を建国します。

南宋は紹興の和約で金と和睦したのち、都の杭州(臨安府)を中心に江南の開発に努めました。その結果、世界でも屈指の経済大国となります。日本とは文化や経済の面で強い結びつきがありました。

しかし、元の軍事的圧力の前に1276年に都を失います。そして、1279年までに全土を制圧され滅亡しました。

南宋建国の中心人物たち

南宋の初代皇帝となった高宗

南宋の初代皇帝となった趙構は、北宋の風流天子こと徽宗皇帝の9男として生まれました。1127年に起きた靖康の変で父や兄が捕らえられる中、趙構は運よく金軍の手を逃れます。それを知った金軍は執拗に趙構を追い続けました。

南宋の初代皇帝となった高宗

ようやく金軍の追っ手を振り払った趙構は皇帝として即位し高宗となります。しかし、捕らえられた欽宗が退位したわけではなかったので、彼の即位の正当性は弱く不安定でした。彼は国内の即位反対派や金からの攻撃にさらされ危機的な状況で政治を行います。

和平の成立後も帰国できなかった欽宗

ようやく高宗の地位が安定したのは1138年に杭州臨安府を都と定めた頃でした。のちに、金との和平が成立してから金は欽宗の返還を申し出ます。しかし、せっかく確立した権力基盤が揺らぐのを恐れた高宗は欽宗の帰国を認めませんでした。

金と徹底抗戦を主張した岳飛

金に対し徹底抗戦を貫いた岳飛

岳飛は金軍と徹底的に戦った南宋の将軍です。姓は岳、名は飛、字は鵬挙です。名を呼ぶのは目上の人や近親者に限られるので、岳鵬挙と呼ばれていたでしょう。ここでは、通例に従い岳飛と書きます。

軍事力の劣る南宋軍は各地で金軍と戦い敗北しました。しかし、一部の将軍は金軍との戦いに勝利し戦線を支えます。その将軍とは、岳飛や韓世忠でした。

宋の旧都開封を描いた清明上河図

1140年、岳飛は金に占領された宋の領土を取り返すため北伐軍を起こします。岳飛軍は朱仙鎮の戦いで金軍に勝利し旧都開封の間近に迫りました。しかし、金との和平を目指していた宰相の秦檜の差し金により友軍が撤退。孤立した岳飛軍も退却せざるを得ませんでした。

和平を目指す秦檜にとって民衆の絶大な支持を受ける岳飛の存在はとても邪魔なものでした。そのため、岳飛は秦檜に無実の罪を着せられ謀殺されます。

紹興の和議を成立させた秦檜

和平派のリーダーとして金と紹興の和議を結んだ秦檜

秦檜は金と和平を結んだ南宋の宰相です。北宋滅亡後、金に仕えたようですが詳細はよくわかっていません。その秦檜が南宋に姿を現したのは1130年のことでした。帰国した秦檜は高宗に重用され和平派のリーダーとなります。

皇帝の高宗と宰相の秦檜は金との和平を模索しました。しかし、岳飛をはじめとする軍人たちは講和に反対します。そこで、秦檜は抗戦派の中心人物である岳飛を謀殺してしまいました。このことに怒った将軍の韓世忠が岳飛の罪を問いただすと、秦檜は「莫須有(あったかもしれない)」と口を濁します。

その後、秦檜は反対派を追い落とし1142年に金と紹興の和約を結びました。この和約で南宋は淮河以北の領土を放棄し、金に毎年銀25万両、絹25万匹を支払うこととなります。秦檜はその後も権力の座に居続け、1155年に宰相の地位にとどまったまま亡くなりました。

罪人の姿にされ唾を吐きかけられた秦檜夫妻の像

死後、彼は売国奴として批判されるようになります。明の時代には岳飛をまつった廟の前に罪人姿の秦檜夫妻の像が作られました。民衆は彼らの像に唾を吐きかけ、侮蔑の意を示します。

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