南宋とはどんな王朝?皇帝や日本との繋がりもわかりやすく解説

経済大国となった南宋

和平の成立後、南宋は国内の経済開発に全力を注ぎました。稲作では低湿地を干拓し水田にする農業技術やベトナムから導入された干ばつに強い占城稲の栽培などが行われ、農業生産力が高まります。

景徳鎮に残る陶磁器の窯元

米以外にも、茶やサトウキビなどの商品作物が生産されました。さらに、景徳鎮での最高級の陶磁器生産や絹織物や印刷業の発展なども見られ、経済活動が活発化します。また、会子という紙幣が発行されますが、これも経済発展の結果といえるでしょう。

経済力をつけた南宋の商人たちは積極的に海外貿易に乗り出します。周辺国の商人たちも南宋の豊かな物産に目をつけました。そのため、遠隔地との取引も活発化しました。南宋の物産は金や高麗、日本だけにとどまらず東南アジアやインド、地中海諸国にも運ばれます。

日本と南宋のつながりとは?

日宋貿易を推進した平清盛

南宋ができた12世紀前半は日本では平安時代の末期でした。南宋が安定した12世紀後半、日本で政権を担ったのは平清盛でした。彼は海外の船を迎え入れる博多と近畿地方に物資を運び込む大輪田泊(現神戸港)の支配権をもつことで日宋貿易の主導権を握りました。

日本でも流通した宋銭
出典:Wikipedia

日本と南宋が行った日宋貿易によって、大量の宋銭がもたらされます。この宋銭は中国だけではなく東アジア・東南アジアで国際通貨として使われました。日本でも宋銭をつかって物の売り買いをするようになり、貨幣経済が発展します。

平氏が滅亡し鎌倉幕府が強い力を持ってからも日本と南宋の交流は続きました。この時期、日本と南宋の間を多くの学者や禅僧が行き来します。その結果、日本に禅宗や儒教がもたらされ盛んに研究されました。

南宋が滅亡した経緯

強大化するモンゴル帝国

モンゴル帝国の創始者チンギス・ハン

13世紀の初め、モンゴル族のリーダーであるチンギス・ハンがモンゴル高原を統一し、周辺諸国の征服戦争を始めました。その子、オゴタイの時代には南宋の宿敵である金がモンゴル帝国によって滅ぼされます。

モンゴル帝国は中国北部だけではなく、ロシアや東ヨーロッパ諸国を攻撃し、イランや中央アジアのイスラム諸国を屈服させます。そして、モンゴルの矛先は世界一の繁栄を誇っていた南宋にも向けられました。

重要拠点、襄陽の陥落

襄陽攻略を命じたフビライ・ハン

1264年、第4代ハンの後継者争いに勝利したフビライはモンゴル帝国の5代目ハンになりました。彼は南宋攻略の最重要拠点である襄陽の攻略に着手しました。襄陽は三国時代に荊州とよばれた交通の要衝です。

襄陽城は近隣の樊城とともに南宋防衛の要です。この地を守っていたのは呂文煥でした。彼は襄陽城で2年にわたってモンゴル軍に抵抗します。すると、フビライは新兵器である「回回砲」を投入し城壁を破壊しました。なすすべを失った呂文煥はついにフビライの軍門に下ります。

南宋降伏とそれに殉じた忠臣、文天祥

長期戦となった襄陽攻防戦で国力のすべてを使い果たした南宋に、モンゴル軍に抵抗する力は残っていませんでした。1276年、フビライの腹心であるバヤンに率いられたモンゴル軍は南宋の都の杭州臨安府を陥落させます。

南宋滅亡に殉じた文天祥

モンゴル軍が杭州にせまったとき、南宋の官僚の一人である文天祥は私設軍を組織してモンゴル軍に抵抗します。しかし、2年にわたる抵抗戦の末、文天祥は捕らえられてしまいました。獄中の文天祥は「正気の歌」をつくり、南宋への忠義を現しました。その後、文天祥はモンゴル軍によって処刑されます。

意見が分かれる南宋の滅亡年

1276年説

南宋時代の杭州の地図

南宋滅亡を1276年とするのは、南宋の都である杭州臨安府が1276年に陥落したからです。滅亡した時の南宋の皇帝は恭帝でした。モンゴル軍との戦いで実戦部隊を失った恭帝はモンゴル軍のバヤンに降伏し杭州臨安府を明け渡します。

南宋の政府もこのとき降伏しており、中国南部全体を支配する王朝としての南宋はこの年に滅亡したといってよいでしょう。恭帝は北方に連れ去られ、モンゴル(元)のフビライによって瀛国公に封じられ丁重に扱われました。ただ、余生については記録がなくわかっていません。

南宋の政府が降伏し、政権としての実態を失ったときを南宋滅亡と考えるなら、1276年段階で南宋はほろんだといってよいでしょう。

1279年説

最後の皇帝とされる祥興帝

杭州臨安府の陥落後、抵抗をあきらめない南宋の臣下の張世傑や陸秀夫は恭帝の兄を端宗として皇帝に即位させ、南方で再起を図りました。端宗が1278年に死去するとその弟が即位しました。最後の皇帝となった彼は祥興帝とよばれます。

祥興帝を擁する南宋の生き残りたちは元軍に追われ、中国の海岸を南へと逃げます。そして、現在の香港付近にあった涯山(がいざん)にたどり着きました。

このとき、南宋軍は1000隻もの大型船をしっかりとつなぎ合わせ、船の外側に泥を塗って焼打ちを防ぐ工夫を施していました。その様子はまるで海上に要塞が出現したように見えたでしょう。この海上要塞に対し元軍は執拗に攻撃を繰り返します。

祥興帝をおぶって入水する陸秀夫の像

そして、1279年2月6日、元軍南宋軍の海上要塞を陥落させました。祥興帝は宰相の陸秀夫とともに入水します。一方、軍司令官の張世傑はベトナムに逃れて抵抗しようとしましたが嵐に遭遇し溺死します。こうして、南宋は名実ともに滅亡しました。

南宋に関するまとめ

いかがでしたか?

今回は南宋についてまとめました。南宋は12世紀前半から13世紀後半まで存続した漢民族の王朝です。南宋の初代皇帝高宗は岳飛ら金と戦うべきという抗戦派を退け、秦檜らの和平策を採用しました。

金との和平の成立後、南宋は経済成長を遂げ世界屈指の豊かな国となります。その南宋の富を狙って攻め込んだのがモンゴル帝国(元)のフビライでした。モンゴル軍は南宋軍の重要拠点襄陽を攻め落とすと、その勢いで都の杭州臨安府を陥落させます。

この記事を読んで南宋の建国や経済発展、日本との関係、南宋滅亡までの流れなどについて少しでも「そうだったのか」と思っていただける時間を提供できたら幸いです。

長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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