シュメール人とは、紀元前3500年頃に現在のイラクやクウェートがあるメソポタミア南部のバビロニアにおいて高度な都市文明を築いた人々です。彼らは、4大文明の1つとして有名なメソポタミア文明の初期に登場しました。
ただシュメール人は紀元前2000年頃にその姿を消してしまったことや、数多くの神話や謎を残していることから、不明な点も多々あります。
「シュメール人ってどんな人?」
「シュメール文明ってどんな文明?」
「シュメール人はどんな生活を送っていたの?」
「シュメール人の特徴や歴史について詳しく知りたい!」
こういった疑問を持っている方も少ないくないでしょう。
そこでこの記事では、シュメール人はどのような人々だったのか、また、シュメール人の特徴や文明について詳しく紹介していきます。シュメール人にまつわる神話や謎、都市伝説についても解説するので、ぜひ参考にしてください。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
シュメール人とは
シュメール人はどこから来たのか
シュメール人は、元々はメソポタミアの原住民ではなく、紀元前3500年頃にメソポタミア南部のバビロニアへ移動してきたと考えられています。しかし、シュメール人の原住地は未だにわかっていません。
そして、シュメール人は民族系統だけでなく、言語系統も不明とされています。シュメール語圏には、セム語やエラム語を使用する人々も存在していましたが、彼らの使用言語とシュメール語の系統関係は認められておらず、他の言語においてもシュメール語と同系統の言語は現在でも発見に至っていないのです。
シュメール人は目が特徴的だった
シュメール人は、目が特徴的であったと言われています。その理由は、シュメール文明の遺跡において発掘された男子像の造形に見られる特徴にあるのです。
古代シュメール文明を形成したシュメール人たちは、神殿を中心とした都市国家を築きました。そして、その神殿に奉納していたと考えられる、シュメール人の信者を模した男子像が出土しているのです。
この像は、大きく彫りの深い不気味な目、高い鼻、巻き毛、豊かな髭などの特徴がありました。そして、この特徴はセム系民族に近いとされていますが、詳しい関係性は未だにわかっていません。
シュメール人の性格は
シュメール人は宗教、学問、医療などの文化や技術において、多くの画期的な発明をした民族として知られています。その中でも、特に宗教的な文化は、人々の日常生活に深く根付いていたのです。
当時、シュメール人の社会では宗教や呪術などの神秘的な思想が当然のように存在していました。そして、自然界に宿る様々な神々を守護神として崇めており、シュメール人は自然神を崇拝することで川の氾濫は鎮まり、豊作が約束されると信じていたのです。
また、病気や悲観的な感情の原因は悪魔や悪霊によるものであると考えられていました。そして、シュメール人の間では、ネガティブな思想や自身の将来に対する不安などが社会に蔓延していたという記録も残っています。
シュメール人はなぜ滅亡したのか
紀元前3500年頃に始まったシュメール人の都市文明は、紀元前2000年頃に滅亡を迎え、シュメール人は歴史の表舞台から姿を消します。その原因は、異民族の侵入にありました。
シュメール人による最後の国家であるウル第3王朝は、アラム人やエラム人などの周辺異民族の台頭に苦しみます。これに対して、当時の王は異民族の侵入を防ぐために、防壁を築くなどの対策を行いました。
しかし、最終的にはエラム人の侵攻によってウル第3王朝は陥落。その後、異民族による国家が乱立していく過程で、シュメール人は異民族の中に埋もれていくことになったのです。
シュメール文明の4つの特徴
①楔形文字の発明
シュメール人は、メソポタミア文明で使用されていた古代文字である楔形文字を作りました。この楔形文字は、古代エジプト人が使用したとされる象形文字と並んで、人類史上最古の文字の1つとされています。
楔形文字は、尖らせた葦や金属を使用して粘土板に文字を刻むことで書かれました。そして、文字が刻まれた粘土板を焼くことで、恒久的に文字が保存されたのです。シュメール文明において、この文字は行政や経済において数を記録する際に用いられました。
また、楔形文字はシュメール語が死語となった後も長く残り続けます。アッカド帝国がシュメールの国家を征服した後、アッカド人は楔形文字を使い始めました。その結果、楔形文字はメソポタミア全域で用いられるようになり、最終的には紀元前4世紀まで存在したアケメネス朝ペルシアの時代まで使用され続けたのです。
②世界最古の文学「ギルガメシュ叙事詩」
ギルガメシュ叙事詩とは、古代メソポタミアにおける人類史最古の文学作品です。この作品は、ウルク第1王朝時代に実在したとされる伝説的な王ギルガメシュを主人公とした英雄叙事詩となっています。
当初、ギルガメシュ叙事詩はシュメール語で語られていましたが、シュメール人が滅びた後はメソポタミアにおける諸民族の言語に翻訳されて語り継がれました。そして、楔形文字によって粘土板に刻まれたものが後世に残されたのです。
また、英雄譚としてのギルガメシュ叙事詩は、古代ギリシアの詩人ホメロスの作として伝えられる「オデュッセイア」や中世ヨーロッパにおける龍殺しジークフリートについて描かれた「ニーベルンゲンの歌」、騎士道物語の「アーサー王伝説」などと比較される有名作品として世界的に知られています。
③数学の進歩
シュメール人は、天文学や農業の効率化を目的とした実用的な数学を実践した結果、高度な数学理論を身に付けました。また、幾何学にも精通しており、図形の面積や円周率の計算式もすでに確立されていたのです。
そして、シュメール人が考案した数学理論の中でも、特に優れた知識として60進法が挙げられます。60進法とは、60を基本単位としてその倍数や約数を活用する記数法です。この記数法は、現在においても時間や角度の計算に用いられています。シュメール人たちは、この60進法を活用して星の運行計算を行い、天文学の発展に役立てました。
また、バビロニアで掘り起こされた粘土板の中には、幾何や計算などの練習問題が刻まれている粘土板が発見されています。この粘土板の発見により、およそ5000年前から人類が複雑な数学理論を確立していたことがわかっているのです。
④医療の発達
シュメール人の間では、病は悪魔や悪霊の仕業であると考えられていました。しかし、原因がはっきりしている外傷については近代的な医療も存在していたのです。
古代シュメール文明において、医療は呪術、宗教と共存しており、医者だけでなく悪魔祓いを専門とした神官も治療を行っていました。この特徴は、シュメール人だけでなく、その後の時代を築いたバビロニアやアッシリアの時代にも見られます。
また、近代的な医療として、シュメール人は薬の調合も行っていました。その材料として、様々な薬草や酒、はちみつ、油などが活用されており、治療に役立てていたのです。
シュメール人・文明の政治・経済
都市国家の形成
都市国家とは、神殿を中心とした都市とその周辺の集落によって形成された国家です。シュメール人は、農業の発展によって定住生活を開始し、最初の都市国家をつくりました。
しかし、領土拡大の野心を強く抱いていたシュメール人は、都市国家間の争いを頻繁に行っていたのです。そして、紀元前2330年頃に成立したウルク第3王朝によって、初めてシュメール人都市国家によるメソポタミア統一が果たされました。
また、シュメール人の都市国家の中心となった神殿は、ジッグラトと呼ばれています。このジッグラトは、都市国家の守護神をまつる神殿であったと言われていますが、詳しい建造目的については未だ不明な点も多く存在しているのです。
王を頂点とした階級制度
シュメール人の社会では、王を頂点とした階級制度が存在していました。王に続く階級は4つに分かれており、上から神官、軍人と官僚、市民や農民などの一般人民、奴隷となっています。
当初のシュメール文明では、長老や民会が指導者の役割を担っていました。しかし、都市国家が発展すると、次第に「偉大な人」と呼ばれる人物が登場し、国家の王として君臨するようになります。その後、王は神の代理者として神権政治を行うようになっていったのです。
この王の下に、支配階級として神官や軍人、官僚がいます。そして、人口の大半を占めていたのが被支配階級である人民と奴隷でした。この時代の奴隷は、戦争捕虜が多数を占めていましたが、その中には貧困に苦しむ人民が身売りして奴隷になる場合もありました。
農耕・牧畜の発展
シュメール人は、メソポタミアの肥沃な三日月地帯において、農耕・牧畜を発展させました。肥沃な三日月地帯とは、メソポタミアからパレスチナにかけて広がる地域です。この地域において、人類最初の農耕・牧畜が始まったとされています。
農耕・牧畜の発展は、シュメール人を定住化させることになり、都市国家の形成を促しました。そして、肥沃な三日月地帯において、シュメール人は大麦やヒヨコマメ、ヒラマメ、雑穀、ナツメヤシ、タマネギ、ニンニク、レタス、ニラ、辛子を栽培し、牛や羊、山羊、豚などの家畜を飼育したのです。
また、シュメール人は農地に外部から人工的に水を引く灌漑農業に依存しており、運河の維持を目的とした整備や修復作業が必須でした。その結果、被支配階級の人々は運河で働くことを求められたのです。