美空ひばりの死因は?酒やタバコの摂りすぎ?玄米と白米のみの生活をしていた理由とは

玄米とお茶だけで栄養不足だった

玄米は栄養的に優れているが…

自らの病が明らかになってから、美空ひばりの食事は玄米のおにぎりとお茶だけになりました。韓国系アメリカ人の医師、ハワード・ヤングを紹介された美空ひばりは彼の勧める食事だけを摂るようになったのです。

確かに玄米には豊富な栄養素が含まれていますが、玄米だけの食事は栄養が偏ってしまいます。玄米は精米をしていないだけに、消化が悪く、栄養の吸収率も低いです。ですから、玄米を食べて痩せたという人がいるわけです。

健康な時ならともかく、病気の美空ひばりが玄米おにぎりだけしか口にしないというのは行き過ぎでした。また、おにぎりとともに美空ひばりが飲んでいたお茶は「センナ」という薬草です。

センナは便秘の人が下剤として服用するほどの効果があります。玄米とセンナの組み合わせは、一層美空ひばりの栄養状態を悪くしたのではないでしょうか。

治療が上手くいかなかった

特発性間質性肺炎は原因がわからないため、戦いにくい相手だ

こうして大腿骨頭壊死による痛みと肝硬変による不調と戦っていた美空ひばりは、1989年には特発性間質性肺炎と診断されます。

この病気に有効な治療はステロイドホルモンを使うことですが、すでに肝硬変を患っていた美空ひばりには、副作用が出る恐れがありました。このため、有効な治療を行うことができなかったのです。

美空ひばりの体内には、治療を阻むようにさまざまな病気が存在していたことになります。その上、玄米とお茶だけの食生活で栄養も不足していたのですから、治療が上手くいかなかったのも当然だったのかもしれません。

亡くなる前の美空ひばりの生活とは

不死鳥そのものに見えた美空ひばりだったが

亡くなる直前まで、美空ひばりは精力的に活動をしたように思えます。東京ドームでの復活コンサートは今でも多くの人の心に残る出来事ですが、それは彼女の命と引き換えに届けられたものでした。彼女の精一杯の活動だけでなく、息子との関係もお伝えします。

東京ドームでの復活コンサート

東京ドームでは1988年3月の開業したばかり
日本初の屋根付き球場だった

1987年に福岡県済生会福岡総合病院に入院して、約3カ月半の療養生活を送った美空ひばり。同時期に鶴田浩二、石原裕次郎など昭和の大スターが亡くなりましたが、彼女は無事に退院します。

病院に駆けつけた多くのファンの前で投げキッスをする姿はまさに不死鳥のイメージそのものでした。翌年の1988年には東京ドームで復活コンサート「不死鳥/美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!!新しき空に向かって」を行いました。

誰もが完全復活を疑いませんでしたが、足腰の痛みはほとんど良くなっておらず、肝臓の機能も退院時には60%ほど回復していたものが、コンサートの時には20~30%にまで落ち込んでいました。

このコンサートをきっかけに美空ひばりの体調は悪化していきます。多くの人々を魅了したコンサートは美空ひばりが命を削った結果だったのです。

最後のシングル「川の流れのように」

秋元康とのコラボに驚いた人も多かった?

1988年10月、秋元康の企画でオリジナルアルバム「不死鳥パートⅡ」がレコーディングされました。このレコーディングで若いクリエーターたちと出会い、美空ひばりには幅広い音楽活動をしたいという意欲が生まれてきたようです。

このときにレコーディングされたのが、生涯最後のシングルとなる「川の流れのように」です。当初は違う曲がシングルカットされる予定でしたが、美空ひばりの強い希望により、この曲がシングルとして発売されることになったのです。

美空ひばり本人も記者会見の席で、この曲を聞けば(不死鳥パートⅡの)他の曲もすべて理解できると語るほど、強く響く何かを感じていたようです。

結果、この曲は今でも名曲として光り輝いていますから、美空ひばりの目の確かさを証明することになりました。

最後のステージと横浜アリーナへの思い

美空ひばりの甥であり、息子でもある加藤和也

1989年になり、美空ひばりの体調は悪化の一途をたどっていましたが、2月には予定通り全国ツアーを実施しました。しかし、2月7日の九州厚生年金会館での公演でさらに体調は悪化、結果的にはこれが人生最後のステージになってしまいます。

すでに車や新幹線での移動に耐えられないほど身体が弱っていましたが、美空ひばりは信じられないようなことを口にしました。

それは4月17日に予定されていた横浜アリーナのこけら落とし公演になんとしてでも出演したいという強い希望でした。自らの生まれ故郷である横浜で公演することに、強い執念があったのでしょう。

母の身体を案じるあまりに、強く公演中止を求めた息子の加藤和也とはたびたび口論になったといいます。

あんたが死んじゃったら、残された俺は一体どうするんだ!!

このとき加藤和也は18歳でした。すでに実父を亡くしており、この上育ての母まで失うかもしれない不安からの悲痛な叫びでした。これを聞いた美空ひばりはどのように思ったでしょうか。

再入院

残されたメッセージの通り、ひばりは麦畑の上空に飛んで行ったのか

1989年3月、体調の急変により、美空ひばりは順天堂大学医学部付属順天堂医院に再入院となり、横浜アリーナでのこけら落とし公演を始めとする一切の芸能活動の休止が加藤和也から発表されました。

加藤和也は特発性間質性肺炎の病名を伏せていましたが、美空ひばり本人は医師からの説明を受け、自分の病気について承知していたようです。

長引く入院、はっきりと報道されない病状に、世間では美空ひばりの復活は絶望的などという声が上がり始めていました。それを打ち消すようにメッセージが公開されました。

麦畑 ひばりが一羽 飛び立ちて… その鳥撃つな 村人よ!

このメッセージには美空ひばりの死への不安が表れているようです。後に看病に訪れていた実妹の佐藤勢津子は、美空ひばりから自分はまだ生きられるのかと涙ながらに訴えられたと語っています。

そして、1989年6月24日に美空ひばりは永眠。日本を代表する歌手の死に国中が大騒ぎになったのです。

美空ひばりの死因に関するまとめ

美空ひばりには死因となったもの以外にも病気を抱えていたことがわかりました。彼女は歌への情熱で病気の苦しさを乗り越え、死の間際まで私たちに歌を届けてくれました。

美空ひばりの死によって浮き上がった生き方は、彼女の歌と同じくらい私たちを感動させました。この先も美空ひばりの歌は色褪せることなく、私たちを魅了し続けるに違いありません。52歳という若さで亡くなることで、美空ひばりはその歌とともに伝説になったのではないでしょうか。

そう納得していますが、ほんの少しだけでも、美空ひばりが歌を後回しにして自分を労っていたら、私たちはまだたくさんの彼女の歌を聞くことができたのではないか、と考えてしまうのもまた事実なのです。

最後に、美空ひばりについてもっと詳しくなれるクイズを用意しましたので、ぜひチャレンジしてみてください。

非公開: 【美空ひばりクイズ#1】昭和を彩った永遠の歌姫。

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