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遊郭とは?成り立ちや現在の姿、歴史をわかりやすく簡単に解説

遊郭とは、遊女たちが住む幕府公認の場。「花街」「色町」とも呼ばれていました。遊女とは、遊廓や宿場で男性に性的サービスをする女性のことで、娼婦、売春婦の古い呼称です。「客を遊ばせる女」という意味があります。

その歴史は色濃く、現在でも全国各地に跡地が存在しています。

華やかな印象が強い一方、実際に遊郭で働く人々の中には心中や外の世界に出ることなく一生を終えたり、若くして亡くなる人も多かったと言います。当時の遊郭の実態や背景、内部がどのようなものだったのでしょうか。

この記事では、遊郭が成り立つ歴史から、華やかさの裏側に隠された一面など、その秘密に迫っていきます。

遊郭とは何か

男性客にランク付けされる遊女たち

遊郭とは、遊女たちが男性客を相手に遊びをたしなむ場の名称です。「くるわ」「いろまち」「傾城町(けいせいまち)」とも呼ばれました。「郭(かく)」は区画という意味を指します。遊郭に入るためには「大門」を通らなければならず、遊郭は一区画に隔離され、囲われていました。

そんな遊郭の中心で働くのは遊女。遊女とは、一般的に売春婦のことを指します。しかし、遊郭で行われていたのは売春だけではありません。芸事の披露や会話、手紙によるコミュニケーションなど、教養が無ければできないサービスも行われていました。

そのため遊女は幼い頃から、文字の読み書き、茶道、華道、将棋、お琴、古典、和歌など一連の芸事を身に付ける勉強をします。遊女はこれらを通じて、客の心を鷲掴みにすることに長ける必要があったのです。

絢爛な衣装を身にまとう気品ある遊女

遊郭には、武士や商人、公家、大名などの高貴な身分の男性が通いました。「身分が高い人ほど遊んではいけないのでは?」と考えるかもしれませんが、当時は「遊びをたしなむ」のも彼らの一種のステータス。遊郭での遊興にはかなりの金額が必要でしたからね。したがって、おのずと身分の高い人しか通えなかったのです。支払いのできない客には死刑すら行われていたほど。

「花魁は3回通わなければ肌を許さない」と言われるように遊郭には最低でも3回通い、「馴染み」の客になるまで都度大金を払う必要がありました。高級遊女と一晩を共にするには、今の相場で100万以上かかったと言います。

それにもかかわらず、遊女の機嫌を損ねてしまった客は振られてしまうこともあったとか。このように遊郭は単純に「遊ぶ場」ではなく、人間としての品が問われるような場でもあったのです。

遊郭ができた2つの理由

理由①:江戸に集まる男性が急増したため

人で溢れかえる江戸の町

遊郭は江戸に集まる男性が急増したためできたそうです。1600~1700年の間に江戸の町には、100万人の人が住んでいたといわれています。これは当時のロンドンの人口70万人を大きく上回り、江戸は世界で最も人口の多い町になりました。ちなみに100万人は現在の仙台市と同じくらいの人口です。

しかし、圧倒的に多いのは男性でした。その理由は、単身で出稼ぎや奉公に江戸に来ているのは男性だったからです。そこに江戸を守る武士の人数を足すと、より男性の数が多くなります。

江戸の人口が増えると治安は悪化、幕府は対応に困っていました。

そこで登場したのが、町人・庄司甚右衛門です。後に「遊郭の創設者」と言われる彼は、男性の多い江戸の町に目を付け、遊女を区画に集めた「遊女屋」を作れば人がそこへ集中するのではないかというアイデアを考案し、幕府に申し出ました。ここから遊郭の輪郭ができあがり始めます。

理由②:江戸の治安維持のため

吉原ができたことで区画整備された江戸

庄司甚右衛門の申し出が幕府に受理されたのはその5年後。日本橋に日本で初めて幕府公認の遊郭が誕生しました。これが「吉原遊郭」です。徐々に江戸内の区画は整理され、溢れかえった人々が遊郭へと赴くようになりました。

遊郭にまつわる幕府の目的はさらに広がります。遊郭を公認することによって、強制的に遊女たちを一つの区域に集め、幕府は私娼の取り締まりや税金徴収をスムーズに行うことができました。

風紀や治安を取り締まる他にも、冥加金(税金)を幕府に支払うことも遊郭の義務に。時には犯罪者の情報を幕府に提供させるなど、公認の力を用いて権力を高める目的もありました。

遊郭の種類

官許(かんきょ)の遊郭

現在の浅草に位置する新吉原

遊郭には幕府が公式に認めている遊郭「官許」と、そうではない非公認のものがありました。官許の遊郭は取締りの対象にはならず、江戸時代には全国に25ヶ所あったと言われています。中でも特に有名だったのが次に紹介する江戸吉原、京島原、大阪新町の三大遊郭です。

江戸吉原

豪華絢爛な花魁道中

1612年、江戸に誕生したのが吉原遊郭です。はじめは現在の日本橋人形町に設置されましたが、1657年に起きた明暦の大火の後、浅草寺近くへ移転。前者は元吉原、後者は新吉原と呼ばれました。

「吉原」という名前は、幕府から与えられた遊郭の区画の海岸近くにイネ科の「ヨシ」という植物がたくさん生えていたことに由来しています。そんな江戸吉原は1950年代になるまで続き、約340年にわたって栄えました。

特に長い歴史を持った新吉原では、私娼の取締りも強まります。市街とは別世界のように隔絶が徹底され「吉原大門」と呼ばれる大きな門、吉原を囲む「おはぐろどぶ」、高い塀も設置されました。これらには遊女の逃亡を防ぐ目的も含まれています。

遊郭へ誘う吉原大門と咲き乱れる桜

吉原に赴く客にとっての大きな目印は吉原大門前の柳の木です。後ろ髪引かれつつ見ることから「見返り柳」と呼ばれました。「きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな」「柳ちる 今朝の出口の わかれ際」などと愛惜こもった句が残されており、現在の吉原跡地には6代目の柳の木が現存しています。

見返り柳付近の坂を衣服の身なりを整える場所であることから「衣紋坂」、吉原遊郭に入るまでの大通りは「五十間通り」と呼ばれました。「五十間通り」は外から遊郭が見えないようにくねくねとS字になるよう設計され、今でもその道はS字を保っています。

京島原

昭和初期、島原大門を歩く太夫道中

三大遊郭の2つ目は京島原。1589年、豊臣秀吉による許可により設置された二条柳町が京島原の始まりです。1600年代になると三筋町へ、そして島原へと移転しました。「島原」という名前は、移転に伴う騒動が「島原の乱」に似ていたことからだと言われています。

京島原にも大門や高い壁、堀がありましたが、江戸吉原とは異なり一般人も男女問わず出入りができる場でした。さらに遊女たちも自由に外出ができ、客と一緒に花見や川遊びも許されていたそうです。江戸吉原に比べると「開かれた場」として、一般庶民にも親しまれました。

三味線を学ぶ京島原の遊女たち

京島原の特徴は、客をもてなし芸事を披露するのがメインであること。お茶や和歌、俳諧、舞などで客を楽しませるのが京島原特有の「遊び」であり、どこよりも文芸の花が咲き誇っていました。

夜は芸姑衆を呼んで宴会を催しますが、それが終われば客は帰らねばなりません。夜間営業ができて寝床を共にする機会が多い江戸吉原と比較し、京島原では芸事で客を喜ばせる遊興が多かったのです。

そんな京島原では、後に与謝蕪村らが和歌俳諧活動を始めます。さらに幕末になると新選組や西郷隆盛が出入りするなど、今でも名の知られる身分の高い人々も京島原に赴きました。その華やかな文化形成は現在の京都にも息づいていると言えるでしょう。

大阪新町

開拓された大阪・西横堀川にかかる新町橋

三大遊郭の3つ目は大阪新町です。江戸吉原と同時期である1616年に誕生しました。加藤清正の家臣・木村又蔵の孫である木村又次郎が幕府に設置を申し出たことが始まりです。

大阪新町は現在の道頓堀川、阿波座、四ツ橋付近に作られました。今では考えられませんが、当時その一帯は江戸と同じくヨシの生え茂る沼地。そこを新しく開拓したために「新町」と名付けられました。

大阪新町は浜に面していたため、初期は大阪を出入りする船員たちが主たる客でした。しかし町が拡張するにつれて門を二つ設けることになります。これにより大阪新町は人や出店で賑わう活気ある町へ成長しました。

大阪新町のトップ遊女・夕霧

大阪新町の接客は、江戸吉原や京島原とは少し異なります。本来、遊郭にいる遊女は高嶺の花。会話すらできないほど手が届かない存在でした。だからこそ、初めてコミュニケーションを取れた時の喜びが甚だしいのです。

しかし大阪新町の遊女は客に対して、なんとケンカをふかっけるのです。怒らせる言葉やイライラさせる態度、嫉妬させるテクニックを頻繁に用いていました。しかし本番はここから。遊女はころりと客に謝り、しおらしい態度を取ります。これにより、客はあたかも恋人といるような感覚を経験できるのです。大阪新町の遊女たちのテクニックのうまみは、客の心を瞬時につかむ「近さ」にありました。

「近さ」を売りにした大阪新町はさらに栄え、元禄時代には800人もの遊女を抱える大きな遊郭へと成長。しかし大阪はもともと商業の町だったことからも、新町遊郭内にも商店が目立つようになりました。今でも大阪新町のあった地域は、商業地域として残っています。

非許可の遊郭

非合法の場で遊びをたしなむ遊女たち

いつの時代も非合法は存在します。遊郭が幕府公認の合法的な遊び場であるのに対し、「非合法の遊び場」もありました。このような私娼地について詳しく紹介します。

岡場所

にぎわっている岡場所で働く遊女

岡場所とは非合法に私娼屋を集めた場所の総称です。吉原などの幕府公認の遊郭に対し、岡場所は取締りの対象になりました。

岡場所は、吉原に対し「傍(おか)」つまり脇の場所、さらには「ほか」という意味を込めてそう呼ばれました。一方大阪では非合法の私娼地を「島」と呼んでいたそうです。

岡場所は江戸周辺部の茶屋から発展。特に宿場町の品川、内藤新宿、板橋、千住に集中して女郎屋や芸妓屋などの私娼地が集まり、岡場所へと発展しました。

高額かつしきたりの多い吉原とは異なり、安値で気軽に遊べることから人気を博した岡場所。吉原の客を取ることからも激しく対立。実際、遊郭でかかる金額(揚げ代)は一晩だけでも数十万円であったのに対し、岡場所は1000円~2000円と非常に安いものでした。

息遣いが感じられる岡場所で働く女

岡場所は江戸に40ヶ所もあり、働く女の種類は主に風呂場の従業員「湯女(ゆな)」、旅籠の「飯盛女(めしもりおんな)」でした。他にも、町角で買春客を待つ「夜鷹(よたか」)、尼僧の恰好をする「比丘尼(びくに)」などが営業。客の数は取締りが追いつかないほど多かったようです。

遊郭の代表例

江戸吉原

男性客が多く描かれる江戸吉原

三大遊郭の一つ。当時の日本でも随一を誇る大きな花街でした。当初、日本橋人形町に作られた吉原を「元吉原」、明暦の大火後に浅草へ移転したあとは「新吉原」と呼ばれます。新吉原は1950年代まで栄え続けました。

幕府公認の江戸吉原は、人々の憧れの遊び場でした。外の世界からは徹底して隔絶され、簡単に内部が見えないように大門や大きな溝を作るなどの工夫が施されていたのです。

男性客が簡単に出入りできる一方で、女性の出入りは原則禁止。女性が遊郭に入るためには通行許可証が必要とされました。それほど規律の厳しい場所でもあったのです。

しかし、江戸吉原は江戸文化 発信の役割も担っていました。遊女の髪型や衣装は流行のファッションとなります。さらにそれが歌や歌舞伎に用いられると、一つの芸能として花を咲かせました。浅草が今でも江戸文化を継承しているのはその証とも言えるでしょう。

京都中書島

京都中書島で活躍した美しい芸妓

安土桃山時代に豊臣秀吉が開いた城下町です。江戸時代に入ると幕府公認の遊郭の場と化しました。約400人の遊女が働いており、京島原に次ぐ京都の人気スポットとなります。

江戸時代にも栄えましたが、中書島がさらに華やかになったのは明治時代。芸娼妓による遊びがメインでした。芸娼妓の信仰を集めた長建寺も現存。中書島には現代の建築は少なく、昔の香りが残る湯屋や旅館、居酒屋が並んでいます。

長崎丸山

遊女らしき人が描かれている出島オランダ商館

寛永末頃に長崎各所の遊女を1ヶ所に集めたのが長崎丸山の始まりです。丸山の特徴は、外国人の客を相手にすること。長崎は外交が多かったため、遊女たちは人やオランダ人の客も相手に働きました。このような特徴は当時の日本で長崎丸山のみでしたね。

当時一般庶民は外交の中心地であった人屋敷や出島への出入りが禁止されていましたが、長崎丸山の遊女は「阿蘭陀行(おらんだゆき)」と呼ばれ、出入りを許可されていました。

外国人客の相手をする遊女は、日本人客の相手をする遊女よりも身分が低いとみなされていました。しかし、1782年にオランダ商館長イーサク・チチングが筑後から太夫格の女「浮音」を呼んでからは、格の高い遊女も出島に出入りできるようになったと言います。

エキゾチックで豪華な丸山遊女の衣装

出島の博物学者ケンペルの紀行によると「長崎の丸山は京の嶋原以外では、他に見られぬ艶麗を表現している」とあり、丸山遊女の衣装はとても優雅で端麗だったことを物語っています。これは国際貿易で海外文化をいち早く取り入れられたためでした。

中でも豪華だったのは踏絵衣装です。舶来品の生地で仕立てられた衣装に、べっ甲細工の櫛やかんざし。これらは今までの遊女には見られない衣装で、当時の最先端のファッションでした。

長崎丸山の遊郭での活動は、昭和31年には廃止されました。しかし長崎独特の芸妓文化は続き、芸者やの取締りをする「長崎検番」のもと、現在も20名の芸妓が芸事を披露する華やかな文化を受け継いでいます。

遊郭に関するよくあるFAQ

遊郭とは何をする場所ですか?

遊郭とは、遊女たちが住む幕府公認の場。「花街」「色町」とも呼ばれていました。

遊女とはどうゆう人ですか?

遊女とは、遊廓や宿場で男性に性的サービスをする女性のことで、娼婦、売春婦の古い呼称です。「客を遊ばせる女」という意味があります。

上級遊女と呼ばれる「花魁」と他の遊女との違いはなんですか?

花魁は遊女の中でも別格の存在です。一般的な遊女とは多くの点で秀でていますが、大まかなに以下の2点が秀でていると言われていました。

1. 多くの芸事をこなす高い教養
2. 恋愛を想起する良質なサービス

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