遊郭で働く女性たち
遊郭では働く遊女に階級があり、位によって客や仕事内容をが異なっていました。客側からすれば自分の位によって会える遊女とそうでない遊女がいたというわけです。
最高位の遊女「太夫」
太夫とは、遊郭の階級制の中で教養と美貌を兼ね備えた最高位の遊女を指します。もともとは「おんな歌舞伎」で演じた役者のことを太夫と呼び、そこから発展して、舞や踊り、音楽の芸事に秀でた遊女のことを太夫と称するようになりました。
秀でていたのは芸事だけではありません。客の心を喜ばせるコミュニケーション能力にも長けていた太夫。つつがない接客で客を虜にする遊女は自ずと人気になります。このような「人間力」も兼ね備えている人が太夫にふさわしかったのでしょう。
太夫の客になるのは、公家や大名、旗本などの身分の高い人々。太夫は高額な料金を払って揚屋に呼ぶことで出会える遊女だったので、一般庶民がお目にかかる機会はなかなかありませんでした。
しかし1700年代後半になると幕府による風紀が厳しくなり、身分の高い客層が遊郭を離れてしまいます。その頃から太夫は消滅し、次第にトップクラスの遊女は「花魁」と呼ぶようになりました。
張見世に出られる高級遊女「格子」
格子とは遊郭の草創期に誕生し、太夫の次の位に値する遊女です。表通りの格子の中(張見世)に控えることができるためにそう呼ばれました。客は張見世をのぞき、好みの遊女を見つけます。格子は客と会話したり、煙草をふるまうこともありました。
イラストのように全員が張見世に出られるわけではありません。やはり美貌と教養を兼ね備えた上級遊女である格子だけが客の前に現れることができました。
座敷で客をもてなす上級遊女「散茶」
散茶とは、格子のワンランク下の身分の遊女。格子が張見世をしている2階の座敷で客を取る遊女です。遊郭が誕生する前の風呂屋で働いている女が散茶になりました。幕府の取締りで遊郭に集められると、風呂屋で鍛えたコミュニケーション能力が買われて、トップクラスにまで上がる散茶もいたようです。
「散茶」とは本来抹茶や挽き茶などの粉末状になった茶の粉を意味します。一般的なお茶は茶葉を袋に入れてお湯の中で振って飲みますが、散茶は袋を振らずにお湯を足すだけで飲めました。そのことから「袋を振らない」が転じて「客を振らない」という意味に捉えられ、これらの遊女は散茶と呼ばれたと言います。
遊郭の中でも流行は移り変わります。散茶は当初身分の低い方の遊女でしたが、遊郭が庶民化し太夫や格子が衰退すると、格上げされて最高クラスの「花魁」になることもありました。
個室を与えられている上級遊女「座敷持」
遊郭の中で最も輝く舞台は2階のお座敷でした。ここで客がどんちゃん騒ぎをしたり、遊女たちとコミュニケーションを取ったり密な交流を図ることができます。
座敷持とは、この2階のお座敷の中で自分の部屋と客用の部屋を持ち、客を招き入れられる資格のある遊女を指します。プライベートと仕事を分けられるくらいには、稼ぎの良い遊女であることが分かります。
なかなかお目にかかれない上級遊女「呼出し」
呼出しとは、江戸中期の宝暦期(1751年~)の遊郭で最高位の遊女を指す言葉です。まるで「召使い」のようなイメージを抱いてしまいそうな言葉ですが、茶屋から呼び出されるのを待っているという意味から「呼出し」と呼ばれました。お座敷に姿を現すことはありませんでした。
宝暦期には太夫や格子は衰退し、散茶や座敷持、呼出しがトップクラスの遊女に位置付けられました。中でも呼出しは最高級遊女。他の遊女は大部屋で客を相手するのに対し、呼出しは個室を与えられ、そこで客をもてなしていました。一晩を共にするのに100万円以上かかったと言われています。
上級遊女「花魁」と他遊女の2つの違い
遊女はたくさんいたのにもかかわらず、なぜヒエラルキーが生まれたのでしょうか。それは上級遊女「花魁」の徹底された質の高い接客を見てみれば、腑に落ちるかもしれません。
芸事をこなす高い教養
遊女としての格が上がるにつれて相手をする客の身分も上がります。したがって、遊郭で上級遊女になるためには、やんごとなき人にも対応できる教養の高さが求められました。
わずか10歳ほどで遊郭の世界に入った女性たちは、はじめは先輩遊女たちの身の回りの世話や雑用から始めます。並行して徹底されたのが、琴、お茶、三味線、舞、生け花などの教育でした。
さらには古典や漢文、漢詩にも精通している遊女もいました。身分の高い男性とコミュニケーションを取るためには、同等の教養の高さを身に付けていることが必要。客を喜ばせるために、遊女はインテリである必要があったのです。
恋愛を想起する良質なサービス
遊郭は「男性をその気にさせる」のが最大の目的。「惚れる」「惚れさせる」恋愛の楽しさを提供するのが客への最高のプレゼントです。遊女は、美貌や教養に加え、恋愛を想起させるテクニックで男性を虜にするよう努めました。
客をその気にさせるテクニックを「口説(くぜつ)」と呼びます。「寂しかった」「あなたは運命の人」などドキドキするような言葉をかけて、恋人であるかのように振舞い、客の心を揺さぶります。
特に重宝されたテクニックは手紙です。客と親しくなるために遊女はたくさんの手紙を贈りました。客が帰った後4~5日後に手紙を送り、客の心をつなぎ留めます。
しかし江戸時代では、文字を読み書きできる人はほとんどいませんでした。そのため遊女は小さい頃から字を習い、きれいな文字を書く練習や、ぐっと来る内容の文章を書く鍛錬が欠かせませんでした。
さらに客を本気にさせるために、遊女は相手への気持ちを神に誓った「誓詞(せいし)」をプレゼントしました。驚くことに「切り指」と言って切断した小指を渡したこともあったそうです。
相手への覚悟を決めた象徴として肉体の一部を贈るのは客にとって最高のプレゼントでした。しかし、ほとんどが木製の小指の形をしたニセモノ。「嘘に方便」であっても遊女にとっては、客をその気にさせるのに注力するのが大切でした。
遊郭が誇る有名遊女
歴史の長い遊郭。その中には、後世に名を残すほどの有名な遊女が存在しました。彼女たちはいったいどんな人物だったのか、有名遊女5人を紹介します。
高尾太夫
高尾太夫というのは吉原の最高遊女表す称号を指します。現代で言う「源氏名」です。したがって代々襲名されましたが、中でも最も有名だったのが2代目、三浦屋の高尾太夫でした。
下野国(現在の栃木県)の百姓・長助の娘で本名は「みよ」。5歳頃に両親を亡くし、親戚に育てられますが、幼少から非常に美しく吉原に売られてしまいます。芸事の教育も念入りに施され、若くして非常に優秀な遊女だったことから、17歳には太夫を襲名。吉原一の大店、三浦屋四郎左衛門に買われました。
中でも三浦屋の高尾太夫が有名なのは、仙台藩主・伊達綱宗に見初められ身請けされたことから。当時、上級遊女を買う(身請け)には、5億円ほどのお金がかかりました。伊達綱宗は高尾太夫の体重と同じだけの小判を積んだと言われています。
しかし高尾太夫は綱宗になびきませんでした。そのことから、綱宗は高尾太夫を斬りつけ彼女は亡くなってしまいます。諸説ありますが、高尾太夫には田島重三郎という将来を約束した想い人がいたために綱宗になびかなかったそうです。
薄雲太夫
薄雲太夫も上級遊女を表す称号の一つ。「薄雲」とは『源氏物語』第19巻の巻名から取った名称で、最高遊女の中でも歴史上3人しか名乗っていません。特に有名なのは長野出身の薄雲太夫。彼女は歌舞伎に優れ、350両で身請けされました。これは現在の4550万円相当です。
薄雲太夫をさらに有名にした理由は、彼女が「招き猫」の誕生に由来しているからです。現在もよく見かける招き猫の置物のモデルは、実は薄雲太夫の愛猫・たまなのです。
たまは三毛猫で、薄雲太夫から純金の鈴を与えられていたとか。馴染みの客よりもたまを大事にし、「猫になりたい」と望む客もいたようです。次第に見世の主人から「猫を手放すように」と言われてしまいます。
とうとう客との寝床にまで入ってくるようになったたまは、見世の者によって首を切り落とされてしまいました。悲しみに明け暮れる薄雲太夫を憐れんだ客が、長崎から取り寄せた加羅の銘木を取り寄せ、そこにたまの姿を切り刻みました。その彫り物が、後の招き猫の置物のモデルになったと言われています。
吉原の遊女がたくさん眠る巣鴨の西方寺にたまも眠り、招き猫像も立っています。
勝山太夫
勝山太夫は元吉原時代に人気だった遊女。「勝山」も源氏名にあたります。もともとは江戸・神田にあった丹前風呂という私娼の集まる風呂屋の湯女でした。当時から容姿端麗で目立っていたことから大きな人気を得ていたようです。
しかし、当時は吉原以外の場での売春は違法行為。勝山も逮捕され、吉原に身柄を引き渡されてしまいます。しかし湯女時代から人気のあった勝山は出世し、とうとう太夫の位にまで上りつめるのでした。
そんな勝山太夫は、湯女時代に「勝山髷」を考案します。髷の輪が厚みを持って丸く見える結い方です。勝山太夫は武家の使用人から人気を得ていました。そうしたことから彼らの好みに応じた髪型を自ら考案したとか。
さらに勝山が考案したものは、花魁道中の際に行われる「外八文字」を踏む道中の足どりです。花魁道中では、大きな三本歯の下駄を履きます。その足の運び方を八の字を描くようにすることを「外八文字」と呼びました。これは見る者に派手な印象を与え、当時画期的な歩き方でした。
勝山太夫が生み出したこれらは、江戸の女性からも好評でした。客のことを一番に考えて行動した勝山太夫は、男女問わず皆を引っ張るリーダー的存在だったのでしょう。
榊原高尾
榊原高尾は、先に述べた「高尾太夫」の名を後々に襲名する太夫。高尾6代目であり、姫路藩主・榊原政岑に身請けされたことから「榊原太夫」と呼ばれました。もともとは花屋の娘だったと言われており、その美貌からたくさんの男性が花を買いに来たそうです。
しかし父が倒れた後、吉原に身売りすることになります。言うまでもなく相当な人気を誇り、太夫にまで出世しました。彼女が稼いだお金で父の病気もすっかり回復したそうです。
同じ時期、姫路の旗本の次男として生まれた榊原政岑が姫路藩主になります。当時の将軍・徳川吉宗は贅沢を禁止する倹約令を出していましたが、政岑はそれを無視するほど遊郭で遊興にふけりました。その際に出会ったのが榊原太夫です。政岑は彼女を気に入り、2500両(約3億2500万円)で身請けします。
その贅沢ぶりから政岑は越後高田へ左遷され、榊原高尾も同伴することになります。しかし政岑は越後高田の財政を安定させ、善政を敷きました。もしかしたら榊原高尾の支えにより心を入れ替えたのかもしれません。
しかし政岑は36歳の若さでこの世を去ります。結局、榊原高尾は江戸に戻り、上野池之端の榊原下屋敷で、政岑の菩提を弔いながら余生を過ごしたようです。
遊女は若くして命を落とすと言われていましたが、榊原高尾は68歳まで生きました。政岑を思い続ける奥ゆかしさは、当時の女性の鏡でもあったのでしょう。
吉野太夫
吉野太夫は京都で名を馳せた称号です。中でも遊郭で有名だったのが2代目吉野太夫。大阪新町の夕霧太夫、江戸吉原の高尾太夫に並び「寛永三名妓」のうちの一人でした。本名は松田徳子。西国の武士の娘と言われています。
徳子が吉野太夫になったのは、なんと14歳。幼少期から遊女の世話をする禿として働いていましたが、和歌や俳諧、さらには琴や琵琶の楽器演奏にも優れていました。芸事への才能が早く実を結び、「東に林羅山、西の徳子よし野」と言われる程、その聡明さは広く知れ渡りました。
頭の良さだけではありません。美しさも兼ね備えており、寝床から寝乱れ姿で現れたにもかかわらず圧倒的な存在感を放ったエピソードが残されています。客には大名や公家もいたほか、当時の中国・明の皇帝までもが吉野太夫を夢見たとか。
26歳の時、4歳年下の本阿弥光悦の親戚である灰屋紹益(はいや しょうえき)に身請けされ、遊郭を離れます。灰屋紹益は「遊女と結ばれるとはけしからぬ」と養父から絶縁されますが、それでも吉野太夫への愛を貫き、二人でひっそり暮らしたそうです。
吉野太夫は非常に憐れみ深い人物だったと言われています。島原遊郭に入れなかった男性をこっそり自分の客にしたり、身請け先の灰屋紹益の養父も、吉野太夫の人柄に触れて息子との勘当を解いたそうです。人の心にそっと寄り添う姿勢が、彼女を太夫にまで導いたことが理解できます。
遊郭は現在も存在するのか
1957年に売春防止法が施行されてから遊郭そのものは廃止されました。しかし、遊郭の跡地は現在でも全国各地に残っており、当時の面影を残しています。その中でも特に有名な遊郭の跡地について解説しますね。
吉原
吉原は、明暦の大火をきっかけに現在の人形町付近から、現在の浅草裏付近へ移転します。歴史が長く特に栄えたのは後者の吉原。その跡地について詳しく説明します。
吉原があった場所は現在、千束、山谷、日本堤という名称になっています。マンションや商業施設も立ち開発が進む一方で、純喫茶や明治創業の飲食店も立ち並ぶ、古き良き風景を楽しめる町です。
町全体は新しくなりつつも、吉原の跡地は人為的に残されたまま。
吉原に入る門があった場所は、現在「吉原大門」という名前の交差点になっています。さらには門の前にあった柳の木も定期的に植えかえられ現在6代目、後ろ髪引かれる思いで振り返った人が多かったことから、柳の木は「見返り柳」とも呼ばれていますね。
吉原大門までの道、五十間通(ごじゅっけんどう)も現存しています。当時、遊郭は別世界のような存在になるよう徹底して隔絶されていました。したがって将軍や大名が街道を通る時、吉原内部が見えないように、くねくねと曲がった道を作ったのです。五十間道には、当時のそんな思惑が生々しく残されています。
吉原神社は当時から遊女たちの厚い信仰を集めました。やはり遊郭に関連するように商売繁盛、縁結びのご利益があるのだそうです。また、女性の悩みを聞いてくれる神様が祀られてもいます。
少し奥に進むと吉原弁天池跡があります。ここでは関東大震災の時に多くの遊女が飛び込み亡くなりました。遊女たちの供養の気持ちを込めて吉原観音様が立つなど、遊女への悼みが感じられます。
飛田新地(とびたしんち)
飛田新地は、比較的近代に栄えた花街です。江戸時代から大阪各地に遊郭は存在していましたが、明治末期の大火事によって住む場所を失った遊女を集めたことが、飛田新地発祥のきっかけでした。
江戸時代から人気だった格子窓の建築をやめ、ダンスホールやダブルベッドを取り入れるなど洋風の風を吹かせた飛田新地。当時にしては画期的な遊郭で大きな人気を博したと言います。
売春防止法の施行により飛田新地の妓楼はすべて料亭に変化します。今でも当時の面影を色濃く残した小料理屋が立ち並び、「鯛よし百番」は登録有形文化財に指定されました。
飛田新地には「かわい子ちゃん大通り」「青春通り」「年増大通り」といった街路があり、ワイワイと飲食のできる下町の雰囲気が漂います。商業の町・大阪であることからも、リーズナブルに高級料理を食べられるお店もたくさんあるとか。大阪独特の人情味が飛田新地にはぎゅっとつまっています。
今もなお当時の面影を残す遊郭の現在についてより詳しく知りたい人は、以下の記事を参考にしてみてください。
遊郭の現在をわかりやすく解説!日本に現存する跡地や特徴も紹介
遊郭の簡単年表
年 | 出来事 |
1589年 | 豊臣秀吉の許可により二条柳町を開設。 |
1603年 | 徳川家康 江戸幕府を開く。 |
1612年 | 庄司甚右衛門 幕府へ江戸に遊郭の設置を陳情。 |
1616年 | 木村又三郎 幕府へ大阪に遊郭の設置を陳情。 |
1617年 | 吉原遊郭 誕生(元吉原。日本橋人形町)。 |
1627年 | 大阪新町 誕生。 |
1641年 | 二条柳町から移転、島原遊郭誕生。 |
1642年 | 長崎丸山 誕生。 |
1656年 | 吉原遊郭 移転を命じられる。 |
1657年 | 明暦の大火発生、吉原移転(新吉原。日本堤)。 |
1761年 | 吉原で「太夫」が消滅する。 |
1830年 | 京島原 地震で倒壊。 |
1923年 | 関東大震災。吉原の遊女が多数池に飛び込み死亡。 |
1956年 | 売春防止法 可決。 |
1957年 | 売春防止法 施行。吉原遊郭終了。 |
1958年 | 全国の遊郭廃止。 |
遊郭に関するまとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は、遊郭について解説しました。遊郭と聞くと私自身触れてはいけないようなイメージを持っていましたが、執筆している間にその感覚は払拭されました。多くの遊女たちが苦労しながらも、客を労り、楽しませる努力していた背景を知ったからかもしれません。そこに隠された苦労や悲哀などもあわせて遊郭の営みに感服しました。
遊郭で行われた芸事への教育も、現在の日本文化を支えるひとつになっています。日本史における遊郭の存在の大きさを知りました。江戸や京都、大阪などの大都市に咲いた様々な文化の花が、今日の日本にも息づいているのは、遊郭があってこそと言っても過言では無いでしょう。
この記事が遊郭への理解と関心に繋がっていただければ幸いです。
落語が好きで遊郭や花魁とは何なのか気になりこのサイトを見ました。
知りたいことが詳しく書かれておりこれから一層楽しく落語を聞けそうです。