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ベルリンの壁はある男の勘違いで崩壊した?驚くべき真実を簡単に解説

「ベルリンの壁って勘違いで崩壊したってホント?」
「誰のどんな勘違いで崩壊したの?」

ベルリンの壁が崩壊したのはとある人物の勘違いが原因だったのをご存じですか?

第二次世界大戦後のドイツが舞台となったベルリンの壁崩壊は、ヨーロッパの情勢を一瞬で大きく変貌させました。しかしこの歴史的出来事が一人のドイツ人の勘違いによって引き起こされたことはあまり知られていません。

ベルリンの壁

1961年に突然現れると28年間にわたってドイツを分断し、多くのドイツ人たちに絶望と苦しみを与えたベルリンの壁はどのようにして崩壊したのでしょうか。

この記事ではベルリンの壁崩壊の原因となった「とある人物の勘違い」に焦点を当てて、崩壊に至る流れや、勘違いによって起こった出来事を紹介します。

そもそもベルリンの壁とは何か?

1989年11月9日ベルリンの壁に上る人々

ベルリンの壁とは第二次世界大戦後にドイツを、ドイツ民主共和国(東ドイツ)とドイツ連邦共和国(西ドイツ)の二つに分断した壁のことです。中でもドイツの都市ベルリンに築かれた壁は、ベルリン市民たちを理不尽に引き裂くものでした。

当時のヨーロッパは資本主義と社会主義が対立する東西冷戦の緊張下に有り、その境界線でもあったベルリンの壁は東西冷戦の象徴とも呼ばれました。

冷戦中に会談するアメリカのレーガン大統領とソ連のゴルバチョフ書記長

1985年にミハイル・ゴルバチョフがソビエト社会主義共和国連邦の最高指導者に就任したことによって、ヨーロッパでの社会主義は衰退し始めます。社会主義国家だった東ドイツでも国民たちの不満や怒りが頂点に達しようとしていました。

そして1989年11月9日、東ドイツ政府が発表した政令によって28年間ドイツを分断し続けた「ベルリンの壁」は崩壊し、東西ドイツの統一が果たされました。

ベルリンの壁はいつ、なぜ崩壊したのか?一連の流れや現在の様子も紹介

ベルリンの壁は勘違いで崩壊した!?

勘違いの張本人「ギュンター・シャボフスキー」

ギュンター・シャボフスキー

ベルリンの壁が崩壊に至ったのには様々な要因がありますが、最後の要因となったのは東ドイツ政府の広報担当だったギュンター・シャボフスキーが政府の思惑とは違う内容を記者会見で発表してしまったことでした。

国外に自由に出られないことに反発を強めていた国民たちの沈静化を図るため、東ドイツ政府は旅行による出国のための新しい法案を検討していました。内容は国外旅行は認めるものの必ず国の許可がいることや、緊急時には許可が取り消されることなどが盛り込まれていました。

翌日からこの政令が発効される旨を発表するため記者会見会場に現れたシャボフスキーでしたが、内容を熟知できないままに会見に臨んだため、「条件付きで明日から」の政令を「無条件で今すぐ」と発表してしまいました。

歴史上最も素晴らしい勘違い

記者会見をするシャボフスキー

ギュンター・シャボフスキーの勘違いによる記者会見は東ドイツ政府としては大失態でしたが、のちに「歴史上最も素晴らしい勘違い」と呼ばれるようになりました。シャボフスキー自身も「歴史を変えた男」と称されたほどです。

シャボフスキーの勘違いによって当時今世紀中の解決は不可能と言われた東西ドイツ統一と冷戦の問題は突如解決へ動き出し、歴史上稀に見る負傷者を出さなかった平和的解決に至ったのでした。

勘違いから起こった出来事

ベルリンの壁が崩壊した

ベルリンの壁を壊す男性

シャボフスキーの勘違いはベルリンの壁を崩壊させました。

「無条件で直ちに国境が開かれる」との発表を聞いた東ドイツ国民たちは、半信半疑ながら国境検問所のあるベルリンの壁に集まり始めます。その人数は時間が経つにつれ増え続け、最終的には数万人にも上ったといいます。

そのうち国境を越えられると思っているべルリン市民たちと何の指令も受けていない国境警備員のあいだで摩擦が生じ始め、検問所はまさに一触即発の状態と化していきました。

検問所に詰めかけた東ベルリン市民

そしてこれ以上検問を維持できないと判断が下り、ついに1989年11月9日午後11時ごろにすべての検問所が機能を停止し国境は開かれました。この瞬間、ベルリンの壁は政治的な意味で崩壊しました。

東西ドイツが統一した

1990年10月3日に行われた東西ドイツ統一記念式典

ベルリンの壁が崩壊したあと、西ドイツと東ドイツは統一を果たし現在のドイツ連邦共和国となりました。この出来事はのちに、「東西ドイツ統一」や「ドイツ再統一」などと呼ばれるようになります。

形式上統一とはいう言葉を使っているものの、実際には東ドイツを州として西ドイツに編入させるという形式をとっています。ベルリンの壁を崩壊させたという偉業を成し遂げた東ドイツでしたが、統一後は元々西ドイツだった地域との経済格差に苦しみ深刻な不況に悩まされることになりました。

社会主義が衰退しソ連が崩壊した

ソ連が崩壊し取り壊されるレーニン像

当時のソ連を頂点とするヨーロッパの社会主義国家はベルリンの壁が崩壊する一連の流れの中で衰退し、ついにソ連が崩壊するに至ります。

第二次世界大戦後のヨーロッパは米英仏が管理する西側諸国とソ連が管理する東側諸国に分かれ、資本主義と社会主義が対立した冷戦状態となりました。そしてドイツは二つに分かれ西ドイツを米英仏が、東ドイツをソ連が管理するようになります。

ミハイル・ゴルバチョフが共産党を禁止する条約に調印

1988年にソ連の管理下にあったハンガリーでは国外旅行が自由化され、ドイツ再統一のきっかけの一つとなります。1989年にはポーランドでも自由選挙が行われた結果、統一労働者党が敗れ共産系ではない政権が誕生し、ソ連の管理する社会主義国家としては初の民主化を実現しました。

そして1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊し、ヨーロッパを二分した東西冷戦にも終止符が打たれます。その後、ソ連からロシア共和国を始めとする12の共和国が脱退して独立を果たし、1991年12月25日にソ連は崩壊しました。

ベルリンの壁に関連する人物たち

エーリッヒ・ホーネッカー

エーリッヒ・ホーネッカー

エーリッヒ・ホーネッカーは東ドイツの政治家であり、1971年から東ドイツが崩壊する1989年までドイツ社会主義統一党書記長、国家評議会議長として東ドイツの指導者を務めた人物です。1961年には中央委員会の国防担当委員としてベルリンの壁の建設にも関わりました。

就任当初は西ドイツとの国交を樹立したり国際連盟に加盟するなど、巧みな外交手腕を発揮していました。しかしホーネッカー政権は徐々に行き過ぎた社会主義に染まり始め、秘密警察であったシュタージによる国民の監視や西ドイツへの諜報活動へと発展し国民を縛りつけていきました。

国民の反発が激しくなると沈静化を図るためソ連に助けを求めますが支持を得られず、逆に不信感を植え付けることになります。その結果、ホーネッカーは社会主義統一党内からも影響力を失い、1989年10月に不信任案が議会に提出され失脚してしまいます。

ミハイル・ゴルバチョフ

ミハイル・ゴルバチョフ

ミハイル・ゴルバチョフはソビエト社会主義共和国連邦の政治家で、共産党中央委員会書記長や初代ソビエト連邦大統領などを歴任しました。

1985年に共産党書記長に就任したゴルバチョフは、政治的改革ペレストロイカや情報公開を意味するグラスノスチなどの政策を行いソ連の民主化を目指して改革に乗り出しました。しかし保守派との対立は深まるばかりで、ついにはクーデターが起こりソ連崩壊の発端となってしまいます。

そのためロシアではソ連の国力を落とした人物として評価はあまり高くありませんが、当時ソ連領だったヨーロッパ諸国の民主化に尽力し冷戦を終結させたためヨーロッパやアメリカでは高い人気を誇りました。

1990年には冷戦終結とペレストロイカによる共産圏の民主化の功績により、ノーベル平和賞を受賞しています。

ネーメト・ミクローシュ

ネーメト・ミクローシュ

第二次世界大戦後にソ連領だったハンガリーの政治家で、共産主義政権の最期の首相としてハンガリーの民主化を先導しました。

1988年に首相に任命されると、ネーメトはソ連の承諾を取り付け隣国オーストリアとの国境に設置された鉄条網の撤去に成功します。このニュースを知った東ドイツ人たちは危険を顧みずハンガリーへ向い、オーストリアを経て西ドイツへ亡命しようと試みました。

東ドイツ人がハンガリーを通過することをネーメト率いるハンガリー政府が正式に許可したことで、東ドイツの人口流出に拍車をかけることになりました。このことがベルリンの壁崩壊に向かう最初の原因となったとされています。

ベルリンの壁勘違いに関するまとめ

いかがでしたか?

ベルリンの壁崩壊は東ドイツの広報担当だった「ギュンター・シャボフスキー」の勘違いによって引き起こされました。ヨーロッパに緊張を走らせた東西冷戦の象徴でもあり、28年間もドイツ人を苦しめたベルリンの壁は、ちょっとした勘違いでいとも簡単に崩れ去ったのです。

時代を動かすのはちょっとした出来事なのかもしれませんね。

ベルリンの壁に興味を持たれた方は、ぜひドイツに足を運んでみてはいかがでしょうか?

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