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ベルリンの壁はいつ、なぜ崩壊したのか?一連の流れや現在の様子も紹介

「ベルリンの壁はなぜ崩壊したの?」
「いつベルリンの壁は崩壊したの?」
「ベルリンの壁が崩壊したきっかけは?」

ベルリンの壁はいつ、なぜ崩壊したのか気になっている人が多いのではないでしょうか?特に若い世代の方は、「ベルリンの壁」という単語は聞いた事があっても、その歴史については深く知らないかと思います。

1961年、建設中のベルリンの壁

1989年11月9日、28年間にわたってドイツ民主共和国とドイツ連邦共和国を分断していたベルリンの壁が崩壊しました。20世紀中の問題解決は不可能と言われていたベルリンの壁は、ある日突然崩壊し東西ドイツ統一のきっかけとなったのです。

1961年8月13日に突然現れ、沢山の家族や友人などを引き裂いたベルリンの壁はなぜ崩壊したのでしょうか。

この記事ではベルリンの壁が崩壊に至る経緯やきっかけ、その後の影響などを紹介します。

ベルリンの壁崩壊とは?

1989年11月10日、ベルリンの壁に登る東西ベルリン市民たち

ベルリンの壁崩壊とは、ドイツの都市ベルリンを西ベルリンと東ベルリンの二つに分断していた壁が、1989年11月9日に解放されその役割を終えた事件のことです。それは同時に第二次世界大戦後にヨーロッパを二分していた冷戦の終結でもありました。

社会主義の衰退によって国政を維持出来なくなってきた東ドイツ政府が、国民たちを統制するために「旅行による出国に関する法案」を成立させようとしたことが結果的にベルリンの壁崩壊を招きました。

それ以外にもヨーロッパ諸国での社会主義の衰退、ソビエト社会主義共和国連邦の崩壊、東ドイツの政治家のちょっとした勘違いなどが重なりベルリンの壁は崩壊したのです。

そもそもベルリンの壁とは何か?

冷戦の象徴

ベルリンの壁

ベルリンの壁は東西ドイツ分断の象徴でしたが、イギリスやアメリカなどの資本主義である西側諸国とソ連を中心とする社会主義の東側諸国の対立である東西冷戦の象徴でもありました。

1945年5月8日に第二次世界大戦が終結し、敗戦国であるドイツはイギリス・アメリカ・フランス・ソ連の戦勝国によって占領されました。その後、英米仏とソ連が対立したことによりドイツも英米仏が管理する「ドイツ連邦共和国(西ドイツ)」と、ソ連が管理する「ドイツ民主共和国(東ドイツ)」に分割されます。

ドイツの中心都市であったベルリンでも街を分割する形で境界線が引かれましたが、街の中での往来は自由でした。しかし1961年8月13日に突然壁の建設が始まり、東西ドイツの往来は遮断されてしまいます。東ドイツの人々が西ドイツへ流出することを防ぐため、東ドイツが壁建設を始めたのです。

壁の構造

東西に建てられた2枚の壁

ベルリンの壁は高くそびえる一枚の壁だと思っている人が多いと思いますが、実は二枚一組の作りになっています。

壁は正確には西側と東側に一枚ずつ存在していて、二枚の壁の間には数十メートルの何もない無人の空間がありました。この空間には警備員や番犬が控えており、見つかることなく壁を越えることはほぼ不可能でした。

壁の建設が始まった初期のころは有刺鉄線やブロックを積み上げただけの作りでしたが、何度かの改造を繰り返し最終的には高さ三メートルにも及ぶ鉄筋コンクリートの壁が建設されています。

チェックポイント・チャーリー

ベルリンの壁には市の中心部にあった「チェックポイント・チャーリー」を始めとする検問所が、多数設置されていました。これは外国人や外交官、西ベルリンの住人が通行するための検問所で、東ドイツの人々が通るのは容易なことではありませんでした。

現在は文化財として保存

エーリッヒ・ホーネッカーとレオニード・ブレジネフの壁画

1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊したのち、大部分の壁は市民たちや東ドイツ政府によって取り壊され撤去されました。しかし歴史的に意味のある建築物であるとして、一部は記念碑として保存されています。

現在残された壁には「ベルリンの壁建設」に着想を得た世界中の芸術家によって壁画が描かれています。

中でもドミトリー・ヴルーベリによって描かれた、東ドイツの指導者だったエーリッヒ・ホーネッカー とソ連の指導者だったレオニード・ブレジネフが熱いキスをしているグラフィティ・アートが有名です。

なぜ崩壊した?ベルリンの壁崩壊の原因やきっかけ

ハンガリー人民共和国の民主化運動

ネーメト・ミクローシュ

ベルリンの壁が崩壊するに至る最初の歴史的出来事は、ハンガリーで実行された「ヨーロッパ・ピクニック計画」だと言われています。

1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任したことによってソ連の改革が始まります。ソ連の管理下にあったヨーロッパ諸国も、次々と民主化を成功させ共産党体制は崩れていきました。

1988年11月、ハンガリー社会主義労働者党の改革派だったネーメト・ミクローシュが首相に就任します。ハンガリーでは国外旅行が自由化されたため、ネーメト首相はオーストリアとの境界である東西陣営の境界線「鉄のカーテン」に設置されていた鉄条網の撤去を決めました。

ヨーロッパを二分した「鉄のカーテン」

1989年8月19日、「鉄のカーテン撤去」を祝う政治集会がオーストリアとの国境近くの街ショプロンで開催されました。しかしそれは表向きで裏ではハンガリーに滞留していた一千人近い東ドイツ人たちをオーストリアへ逃がし、西ドイツへと亡命させるという計画が実行されていました。

のちにこの一連の出来事は「ヨーロッパ・ピクニック計画」と呼ばれるようになりました。

ハンガリーとオーストリアの国境

東ドイツ国民の不満

東ドイツでは貧しい生活を強いられていた国民たちが立ち上がり、国を改革しようという運動も活発化していきます。9月4日にライプツィヒで行われたデモを皮切りに運動は激化し、10月23日には30万人もの東ドイツ市民がデモ行進に参加して改革を叫びました。

さらに次々に民主化に成功する隣国を見ていた東ドイツ人たちは、一向に改善されない生活や変化のない政府に不満を募らせていきました。自国の改革の遅れに失望し国外移住を申請する東ドイツ人たちが後を絶たず、その申請数は1989年9月までに16万1000人にも上りました。

広報担当者の勘違い

ギュンター・シャボフスキー

ベルリンの壁崩壊の最後の引き金を引いたのは、記者会見を行った東ドイツの社会主義統一党中央委員会政治報道局長だったギュンター・シャボフスキーです。

1989年の11月8日から「旅行における出国の規制緩和を11月10日より行う」という内容の政令を作成するために中央委員会が開かれていました。

広報担当だったシャボフスキーに渡った文書には「政令の適応は直ちに」としか明記されておらず、記者会見の打ち合わせなどで政令の討議時に委員会には出席していなかったシャボフスキーは11月10日から適応ということを知りませんでした。

そのため記者会見でシャボフスキーは「政令の適応は直ちに」と発表しマスコミがこぞって報道したため、東ドイツ市民が混乱してベルリンの壁に押し寄せる事態となりました。

当時のベルリンの様子

秘密警察「シュタージ」

シュタージ本部にて

「シュタージ」とは東ドイツの秘密警察で、西ドイツに対する諜報活動や東ドイツの国民の監視が主な活動でした。

西ドイツとは大きく異なる体制を持つ東ドイツ政府は、国民の意識を国外に向けさせないため徹底した思想・言論統制を行っていました。そのためシュタージは東ドイツの人々の生活を常に監視し、政府に不満を持つ者や亡命を企てる者を見つけ出しては投獄しています。

またベルリンの壁にある国境検問所に配置されていたパスポート審査官も「シュタージ」から派遣されていました。検問を通過する人々のチェックはパスポート審査官が行っていたため、検問所の実権は実質シュタージが握っていたと言えます。国境警備隊の役割はあくまで検問所の外側の治安を維持することでした。

東西ベルリンの人の流れ

建設中のベルリンの壁

1949年にドイツが東西に分裂してからも、ベルリン市内においては1961年8月13日にベルリンの壁が建設されるまで自由に往来ができていました。実際、職場がベルリンの西側で自宅が東側といった人々も当時は多く見受けられたといいます。

しかしベルリンの壁が建設されてからは自由な往来は制限され、国境を超えるにはいくつか存在した国境検問所で厳しいチェックを受ける必要がありました。

しかし国境の厳重化など政府からの圧力に不満を持った東ドイツ国民たちが、次々に西ドイツに逃亡を図ることになります。毎年15万から30万人の東ドイツ人が西ドイツに流出し、1961年には東ドイツの人口が約1700万人、西ドイツの人口が約6000万人にまで差が開いてしまいました。

ベルリンの壁が崩壊した事による影響

東西ドイツが統一された

ドイツ統一を祝う人々

ベルリンの壁が崩壊したことによってドイツの国境は取り払われたため歴史的には「東西ドイツ統一」と呼ばれますが、正しくは東ドイツが西ドイツに加盟したといった方が正確です。

1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊した後、東ドイツでは憲法から「ドイツ社会主義統一党が国家の指導を行う」という条文が削除され、一党独裁政治が終焉を迎えました。翌年1990年3月には自由選挙が行われ、ドイツ統一を主張していた「ドイツ連合」が勝利します。

5月5日に東西ドイツと米英仏ソの6ヶ国外相会議が開催され、通貨や経済においての条約を結び西ドイツの通貨であるドイツマルクが東ドイツに導入されます。8月31日にはドイツ再統一条約が結ばれ、10月3日に西ドイツの基本法23条に基づき東ドイツが西ドイツに加入する形で統一を果たしました。

冷戦の終結

東西冷戦の象徴とも呼ばれた「ベルリンの壁」が崩壊したことは、冷戦終結の大きな一歩となりました。

ベルリンの壁が崩壊した翌月の12月3日、マルタ共和国においてアメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュとソ連共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフの会談が行われ、冷戦の終結が宣言されました。これをマルタ会談といいます。

ソビエト社会主義共和国連邦はロシア共和国が連邦を脱退したことを皮切りに、バルト三国などが相次いで独立した結果1991年の12月25日にソ連は崩壊しました。その後、東欧諸国や旧ソ連の一部の国々は、相次いで資本主義国家へと変わっていきました。

ベルリンの壁崩壊に関する逸話

壁の残骸が売買された

売買されるベルリンの壁の破片

破壊されたベルリンの壁の破片はお土産品として一般にも販売され、日本でもデパートなどで購入することが出来たといいます。

しかしベルリンの壁の材料にアスベストが使用されていたことが判明したため、取り扱いに注意が必要でした。さらに墓石などを砕いた「偽ベルリンの壁」も見つかっており問題になっています。

2019年にはベルリンの壁崩壊から30年を記念して、壁の一部がオークションに出品されました。高さ3.6メートル、幅1.2メートルという大きさで出品され、最低50万もの値で取引されたといいます。

かまやつひろしがベルリンの壁跡でゲリラライブを行った

かまやつひろし

「かまやつひろし」はグループサウンズのひとつ「ザ・スパイダース」でデビューしたミュージシャンです。通称ムッシュかまやつとも呼ばれています。

1990年2月にドイツ・ベルリンを訪れた「かまやつひろし」は、撤去前のベルリンの壁にアコースティック・ギターを片手によじ登り代表曲である「バン・バン・バン」を歌い話題になりました。

この時のゲリラライブは同年に発売されたかまやつのアルバム「IN AND OUT」に、「バン バン バン~ON THE BERLIN WALL(1990.2.23)」として収録されています。

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