二・二六事件は、昭和のはじめに起こった近代日本において最大の軍事クーデターであり、激動の歴史の中で昭和天皇が特に強い思いを抱いていた事件といわれます。
二・二六事件がきっかけで日本は戦争への道を加速してしまったとも言われていますが、なぜこの事件がそのような日本の転機となったのか、その理由まで知っている人は少ないのではないでしょうか?
昭和史の中でも重要なこの事件について、大学で近現代史を学んでいた筆者がその概要や原因、影響などをまとめています。これを読めば日本史における二・二六事件の重要性がわかるはずです。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
二・二六事件とは
二・二六事件とは、1936(昭和11)年2月26日に陸軍の皇道派と呼ばれる青年将校が中心となって起こしたクーデターです。約1400名の兵士が首相官邸や警視庁、朝日新聞社などを襲撃し、政府要人や警察官など数名を殺害、重傷を負わせました。永田町一帯を兵士が占拠し、戒厳令が敷かれるなど一時は騒然とした状況となりましたが、29日には反乱軍として鎮圧されました。
事件の流れをわかりやすく解説すると?
反乱を起こした青年将校
事件の首謀者とされている青年将校は、野中四郎陸軍歩兵大尉、香田清貞陸軍歩兵大尉、安藤輝三陸軍歩兵大尉、栗原安秀陸軍歩兵中尉、磯部浅一元陸軍一等主計らで、野中は自決、安藤ら3名は裁判後に死刑となっています。
彼らに付き従った下士官や兵士たちは主に六本木や赤坂に駐屯していた部隊の者たちでしたが、クーデターを起こすことも知らされず、ただ部隊命令に従って動いた者も多かったようです。事件の終盤、鎮圧軍に囲まれて初めて自分が反乱軍にいたことを知った兵もいました。
クーデターを計画した青年将校たちは、20〜30代の「皇道派」と呼ばれる将校たちでした。皇道派とは戦後A級戦犯となった荒木貞夫を中心とし、天皇親政の国家革新を唱えていた派閥です。
彼らの目的は、天皇中心の軍事政権を打ち立てることでした。当時、昭和恐慌の煽りを受けて貧富の差が拡大し、農村の貧困は大きな問題となっていました。そういった貧しい家庭出身の兵士と間近で接することが多かった青年将校たちは、自分たちが立ち上がって間違った社会を正そうとしたのです。
死傷者
決起部隊の第一目標としていたのは、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、齋藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺銃太郎教育総監、牧野伸顕前内大臣の殺害でした。
このうち、斎藤実と高橋是清、渡辺銃太郎は決起部隊の襲撃で即死します。岡田啓介は、松尾伝蔵(岡田の秘書で義弟)を兵士が岡田と勘違いし、松尾を殺害後にその場を去ったために無事でした。
鈴木貫太郎は、襲撃を主導した安藤大尉が鈴木に面識があって一目置いていた事情から、トドメを刺さずに立ち去ったため命を繋ぐことができました。牧野伸顕は、たまたま側にいた孫の麻生和子の機転により難を逃れています。
この他に二・二六事件の死者としては、岡田や牧野を逃すために応戦した警察官が5名殉職。銃で撃たれて出血多量により一時意識を失った鈴木貫太郎をはじめ警察官にも重傷者が数名いました。
事件の収束
二・二六事件は、4日間にわたって攻防が繰り広げられました。26日に要人の襲撃が行われたため、27日には戒厳令が敷かれたものの、東京にいる陸軍第一師団や一部の海軍も決起部隊に同調する気配を見せます。そのため昭和天皇は、鎮圧を急ぐよう陸軍に指示しました。
28日に昭和天皇は、決起部隊の行動は天皇の意に反しているという奉勅命令を出し、首謀した青年将校たちは追い詰められていきます。陸軍戒厳司令部は、29日に攻撃をかけることに決め、決起部隊に最後のチャンスとして国会議事堂上空より投降を呼びかけるビラを蒔き、アドバルーンを掲げ、ラジオで説得を続けます。
29日、青年将校たちは兵士たちに部隊へ戻るように促し、降伏を始めます。最後まで残った安藤大尉も自決を図り(その後救出)、事件は13時に平定しました。
事件はなぜ起きた?主な3つの原因
二・二六事件の原因は大きく3つ挙げられます。
- 派閥争いにより皇道派が窮地に追い込まれたこと
- 国体明徴運動が進展を見せていたこと
- 陸軍大臣が青年将校たちを後押しするような発言をしたこと
それぞれの項目を以下で詳しく見ていきましょう。
1.派閥争いにより皇道派が窮地に追い込まれた
1931年に満州事変が起こって以降、陸軍は存在感を増していました。しかし陸軍は内部で統制派と皇道派に分かれて争っていました。二・二六事件の首謀者となる青年将校たちは皇道派です。統制派は永田鉄山を中心に、将来ソ連やアメリカとの戦争を考え、高度国防国家と呼ばれる総力戦体制を築くことを目標としていました。
統制派の軍人たちが主に中堅幕僚層だったのに対し、皇道派の青年将校たちは、下士官との交流も深い隊付きの将校だったため、当時の貧困層の直面した苦しさ、悲しみを目の前で感じていました。そしてこのままでは良くないという義侠心もあって、彼らの言う「昭和維新」を起こそうと考えたのです。
人事的な統制派と皇道派の争いもエスカレートし、追い詰められていった皇道派はついに二・二六事件を起こすことになるのです。
2.国体明徴運動が進展を見せていた
1935年、岡田啓介内閣が国体明徴声明が出したことも事件へつながる伏線となりました。発端は、貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を反国体的学説だと非難したことでした。
天皇機関説とは、法人としての国家が統治権の主体で、天皇は国家の最高機関とする憲法の学説です。大正時代において、政党政治を実現する上での憲法の解釈論として一般的だったこの説を政府が否定し、天皇が統治権の主体であることを確認したのが国体明徴声明です。
天皇機関説に反対を唱えていた皇道派は、国体明徴声明が出されたことで、自分たちの論理が間違っていないと背中を押された面も否定できません。
3.陸軍大臣が青年将校たちを後押しするような発言をした
青年将校たちが、このクーデターが成功すると思ったきっかけの一つが、川島義之陸軍大臣の発言でした。二・二六事件が起きる一週間ほど前、青年将校たちは川島大臣を訪ねています。その際、煮え切らない態度をとった川島に対し、青年将校たちは軟弱だと詰め寄ります。すると川島は、決起の趣旨に賛同する、青年将校たちが考える昭和維新を約すと答えたのです。
この発言を聞いた将校たちは、自分たちは陸軍に認められたと理解したことでしょう。そして昭和維新を断行するため、二・二六事件が起きてしまうのです。
理論的指導者と黒幕は?
北一輝
民間人にも関わらず、二・二六事件の首謀者として死刑に処せられたのが国家社会主義者の北一輝です。中国の辛亥革命に参加し、五・四運動を目前に見たことで日本の改造を決意します。天皇大権を中心に国家社会主義的改造を訴えた「日本改造法案大綱」は、昭和期の軍部や右翼に大きな影響を与えました。
北一輝といえば、1979年にNHKが二・二六事件の首謀者の一人、安藤大尉の北一輝への電話を戒厳司令部が傍受していたというドキュメンタリー番組を放送し、第6回放送文化基金賞本賞など数々の賞を受賞しました。番組内ではこの傍聴記録は、北を名乗った別人物の電話であり、陸軍のでっち上げという説が取り上げられていました。
今日では、北一輝は二・二六事件を先導するような直接的な関わりはなかったとされています。二・二六事件の裁判記録が公開され始めたのは平成の時代に入ってからでしたので、今後の研究結果が待たれます。
真崎甚三郎
皇道派の中心人物であり、二・二六事件が成功したら軍事政権を担う総理大臣にと考えられていたのが真崎(まさき)甚三郎でした。そのため、真崎は事件を起こして利がある人物であり、二・二六事件の黒幕としてよく名前が上がります。
しかし二・二六事件に黒幕はいなかったというのが最近の定説になっています。真崎は事件当時、派閥工作に気を取られており、事件が発生したことを知り「万事休すだ」とつぶやいたという話も残っているほどです。
事件による影響
東京陸軍軍法会議
二・二六事件の裁判は、東京陸軍軍法会議と呼ばれ、弁護人なし、非公開、一審制という特異な形式で行われました。陸軍が皇道派を処断するための、統制派による強引な裁判だったと考えられます。そのため有罪判決を受けた人数も多く、北を含め20人近くが死刑となりました。これによって皇道派は一掃され、統制派が有利になるのです。
テロへの恐怖から軍部が暴走
二・二六事件は、大物政治家が殺される顛末を多くの人が目撃するクーデターとなりました。そのため、圧倒的な軍の暴力に対し、その恐怖から政治家が何もいえない状況に陥っていきます。それがさらに日本を戦争への道へ誘導してしまったのです。
天皇の神格化
二・二六事件は、昭和天皇が大元帥として事件を収める結果となりました。そのため、昭和天皇の権威が高まり、神格化されていきます。そして天皇の権威を利用し、軍部はさらに軍国主義へと日本を進ませていくのです。