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古事記の作者は誰?作成に至る経緯や稗田阿礼、太安万侶などもわかりやすく解説

「古事記の作者は誰? 」
「どのような意図で作られたの?」
「日本書紀や万葉集とは作者が違うの?」

などの疑問を持っていませんか?古事記は日本神話や古代天皇のご事績が書かれた、現存する日本最古の歴史書です。また、古事記はとても個性的な手法で編集されたことでも知られています。

そんな古事記の作者は一体誰なのか、そしてその人物像や作られた意図などについて徹底解説。また、同時代の日本書紀や万葉集との作者の関係についてもわかりやすく解説していきます。

古事記の作者は誰?

古事記

古事記をまとめ上げたのは「稗田阿礼(ひえだのあれ)」と「太安万侶(おおのやすまろ)」の2人です。この2人がそれぞれ違う役割を担って編集にあたり、和銅5年(712年)に完成しました。

古事記に特定の作者はいない?

古事記でご事績が語られる初代神武天皇

古事記には、日本に古くから伝承されてきた神話や、初代神武天皇から第33代推古天皇までの伝説やご事績などが書かれています。こういった神話伝承は特定の人物が創作した物語とは言い難く、あくまで伝承です。また古代天皇のご事績も、あくまで「歴史」なので誰かが創作した物語ではありません。

そういった意味では、古事記に書かれた神話や歴史に特定の作者はいません。しかしながら「古事記という歴史書」は、稗田阿礼と太安万侶が協力してまとめたものであり、一般的にも2人が作ったと認識されていますので、本記事では古事記の作者は稗田阿礼と太安万侶として解説していきます。

古事記作成に至る経緯

古事記の編集を命じた第40代天武天皇

古事記は第40代天武天皇の意向により編集が開始されました。天武天皇が生きた飛鳥時代末期には、すでに全国各地でバラバラの神話が伝承されており、このままでは真実がわからなくなると憂いた天武天皇が、各地の伝承をひとつに体系化させたものが古事記なのです。また、皇統の歴史を後世に伝えることも目的の一つだったとされています。

そんな古事記には大元になった歴史書があったと言われており、その歴史書を「帝紀」と「旧辞」と言います。帝紀は歴代天皇の系譜が書かれていたとされ、旧辞は古代日本の各地の氏族に伝承されていた神話や伝説を記録したものとされています。

稗田阿礼と太安万侶の協力で作られた古事記

国宝である真福寺収蔵の古事記

古事記が稗田阿礼と太安万侶によって作られたことはすでに述べた通りです。以下より、それぞれがどのような人物で、どのような役割を担って古事記を編集していったのかをお伝えしていきます。

「稗田阿礼」とはどんな人物か

名前稗田阿礼
(ひえだのあれ)
生没年不明(7世紀後半から
8世紀初頭の人物)
生没地不明
職業舎人(皇族や貴族に仕え、
警備や雑用などに従事する仕事)
埋葬場所不明

各地の伝承を暗記した稗田阿礼

古事記に書かれている岩戸隠れ神話を描いたもの

稗田阿礼に関しては、古事記の編集に携わった事実以外、その人物像はほとんどわかっていません。古事記の序文にその名前が確認でき、古事記作成の段階で28歳だったとされています。抜群の記憶力を有しており、その才能を買われて古事記の編集に携わりました。

稗田阿礼は持ち前の記憶力で、帝紀と旧辞の内容を全て頭に叩き込んだと言われています。そして、記憶した内容を太安万侶に口頭で伝え、太安万侶がその内容を執筆し古事記はまとめられていったのです。

稗田阿礼女性説

稗田阿礼女性説を唱えた柳田國男氏

そんな稗田阿礼ですが「実は女性だったのではないか?」とも言われています。この説は江戸時代に提唱され、後に柳田國男氏などの著名な学者も同じ説を唱えました。「稗田氏は巫女として朝廷に仕える一族なので、同じ稗田を名乗る稗田阿礼は女性なのではないか」というのがこの説の根拠となっています。

この他にも、稗田阿礼の素性には不明な点が多いことから「稗田阿礼は藤原不比等の別名ではないか?」、「実際は古事記の編集に関わっていないのではないか」、「そもそも架空の人物なのではないか?」など様々な説が唱えられていますが、その真相はわかっていません。

「太安万侶」とはどんな人物か

名前太安万侶
(おおのやすまろ)
生年不明
没年養老7年7月6日
(723年8月11日)
生没地不明
職業朝廷の貴族
埋葬場所奈良県奈良市此瀬町の
太安万侶墓

古事記を執筆した太安万侶

太安万侶

前述の通り、古事記とは、稗田阿礼が帝紀と旧辞の内容を暗記し、稗田阿礼から内容を伝え聞いた太安万侶が執筆し完成しました。その際、太安万侶は非常に個性的な手法で古事記を執筆しています。

当時の日本には、まだひらがなやカタカナは成立しておらず漢文しかなかったため、文字で日本語を表現できませんでした。かと言って漢文で書いてしまうと、日本人が読めなくなってしまいます。そこで太安万侶は「日本語の音を漢字で表記する」という手法を用いました。

これは万葉集でも使われている「万葉仮名」と同じもので、後に「宇→う」「毛→も」などの表記へと変わっていき、これが平安時代頃に仮名文字として確立され、現代の平仮名となっているのです。

崩れ去った太安万侶不在説

太安万侶の墓から出土した墓誌

稗田阿礼と同様、かつては太安万侶も実在が怪しまれていました。しかし、昭和54年(1979年)奈良県奈良市此瀬町の茶畑で太安万侶の墓が発見されたのです。

墓からは、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土。墓誌には太安万侶の没年や命日、位階などが記されており、安万侶の名前も確認されました。この出来事により、太安万侶の実在が証明されたのです。

なお、太安万侶の墓は昭和55年(1980年)2月19日に国の史跡に指定され、墓誌は昭和56年(1981年)6月9日に重要文化財に指定されました。

古事記と日本書紀・万葉集は作者が違う?

日本書紀

古事記と近い時代に作られた有名な書物として「日本書紀」と「万葉集」があります。これらの書物は誰がまとめたのでしょうか?

日本書紀の作者

日本書紀の編集に携わった舎人親王

日本書紀は皇族方が中心となって編集されました。川島皇子(第38代天智天皇の第二皇子)を中心とした12名によって編集が開始されたものの、その途中で編集を命じた天武天皇が崩御したために作業は一時中断。その後、天武天皇の皇子である舎人親王(とねりしんのう)が事業を引き継ぎ、古事記の編集から約8年後の養老4年(720年)日本書紀も完成しました。

なお、古事記は約4ヶ月で編集したのに対し、日本書紀は約39年もの歳月をかけて完成したと言われています。このように、日本書紀は川島皇子や舎人親王など、皇族を中心とした方たちによって編集されたのです。

万葉集の作者

万葉集

万葉集を編集した人物については、「橘諸兄(たちばなのもろえ)説」や「大伴家持(おおとものやかもち)説」など諸説が錯綜していますが、現在は「大伴家持説」が有力視されています。

ただし、万葉集は歌集であり、高貴な人物から一般民衆、作者不詳の和歌までさまざまな身分の人が詠んだ優れた歌が収められていることから、収められている歌の詠み手一人一人が作者とも言えるかもしれませんね。

古事記の作者に関するまとめ

古事記は日本書紀と並び、現存する日本最古の歴史書です。今からおよそ1300年前に書かれたにも関わらず、太安万侶が「日本語の音を漢字で表記する」といった手法で古事記を書き上げ、その手法が平仮名となって、現代でも当たり前のように使われている事実、まさに悠久の歴史を感じます。

古事記に書かれている内容は神話や伝説なども多く含まれますが、昨今の考古学的成果により、神話の一部が真実を反映した可能性もでてきています。日本の成り立ちを後世に伝えるために編集された古事記。その想いを込めて太安万侶と稗田阿礼が後世に残した古事記を、ぜひ多くの日本人が読んで頂ければと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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