古事記の作者は誰?作成に至る経緯や稗田阿礼、太安万侶などもわかりやすく解説

「太安万侶」とはどんな人物か

名前太安万侶
(おおのやすまろ)
生年不明
没年養老7年7月6日
(723年8月11日)
生没地不明
職業朝廷の貴族
埋葬場所奈良県奈良市此瀬町の
太安万侶墓

古事記を執筆した太安万侶

太安万侶

前述の通り、古事記とは、稗田阿礼が帝紀と旧辞の内容を暗記し、稗田阿礼から内容を伝え聞いた太安万侶が執筆し完成しました。その際、太安万侶は非常に個性的な手法で古事記を執筆しています。

当時の日本には、まだひらがなやカタカナは成立しておらず漢文しかなかったため、文字で日本語を表現できませんでした。かと言って漢文で書いてしまうと、日本人が読めなくなってしまいます。そこで太安万侶は「日本語の音を漢字で表記する」という手法を用いました。

これは万葉集でも使われている「万葉仮名」と同じもので、後に「宇→う」「毛→も」などの表記へと変わっていき、これが平安時代頃に仮名文字として確立され、現代の平仮名となっているのです。

崩れ去った太安万侶不在説

太安万侶の墓から出土した墓誌

稗田阿礼と同様、かつては太安万侶も実在が怪しまれていました。しかし、昭和54年(1979年)奈良県奈良市此瀬町の茶畑で太安万侶の墓が発見されたのです。

墓からは、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土。墓誌には太安万侶の没年や命日、位階などが記されており、安万侶の名前も確認されました。この出来事により、太安万侶の実在が証明されたのです。

なお、太安万侶の墓は昭和55年(1980年)2月19日に国の史跡に指定され、墓誌は昭和56年(1981年)6月9日に重要文化財に指定されました。

古事記と日本書紀・万葉集は作者が違う?

日本書紀

古事記と近い時代に作られた有名な書物として「日本書紀」と「万葉集」があります。これらの書物は誰がまとめたのでしょうか?

日本書紀の作者

日本書紀の編集に携わった舎人親王

日本書紀は皇族方が中心となって編集されました。川島皇子(第38代天智天皇の第二皇子)を中心とした12名によって編集が開始されたものの、その途中で編集を命じた天武天皇が崩御したために作業は一時中断。その後、天武天皇の皇子である舎人親王(とねりしんのう)が事業を引き継ぎ、古事記の編集から約8年後の養老4年(720年)日本書紀も完成しました。

なお、古事記は約4ヶ月で編集したのに対し、日本書紀は約39年もの歳月をかけて完成したと言われています。このように、日本書紀は川島皇子や舎人親王など、皇族を中心とした方たちによって編集されたのです。

万葉集の作者

万葉集

万葉集を編集した人物については、「橘諸兄(たちばなのもろえ)説」や「大伴家持(おおとものやかもち)説」など諸説が錯綜していますが、現在は「大伴家持説」が有力視されています。

ただし、万葉集は歌集であり、高貴な人物から一般民衆、作者不詳の和歌までさまざまな身分の人が詠んだ優れた歌が収められていることから、収められている歌の詠み手一人一人が作者とも言えるかもしれませんね。

古事記の作者に関するまとめ

古事記は日本書紀と並び、現存する日本最古の歴史書です。今からおよそ1300年前に書かれたにも関わらず、太安万侶が「日本語の音を漢字で表記する」といった手法で古事記を書き上げ、その手法が平仮名となって、現代でも当たり前のように使われている事実、まさに悠久の歴史を感じます。

古事記に書かれている内容は神話や伝説なども多く含まれますが、昨今の考古学的成果により、神話の一部が真実を反映した可能性もでてきています。日本の成り立ちを後世に伝えるために編集された古事記。その想いを込めて太安万侶と稗田阿礼が後世に残した古事記を、ぜひ多くの日本人が読んで頂ければと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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